1995年1月2日の新橋演舞場の様子が写る。
>「今年正月の新橋演舞場は新派公演で幕を開けました。
>いよいよ二代目八重子襲名の年です」
というナレーション。
新派では、芝居だけではなく、舞踊も披露されるときがある。
久々の初春公演だからか、舞踊が披露されたらしい。
セリ上がりにスタンバイする水谷と波乃久里子。
波乃を紹介するナレーションが入る。
波乃は、新派における水谷の好敵手で名コンビで対の存在なのだ。
波乃は、母方の祖父は六代目尾上菊五郎、父は十七代目中村勘三郎、弟は十八代目中村勘三郎
という芸能一家のサラブレッド。
母は初代水谷八重子、父は十四代目守田勘彌、義弟(父の養子)は五代目坂東玉三郎という水谷
と比べても遜色ない。
今の新派にとって欠くことのできない中心人物だ。
小走りで花道へと移動する舞台裏が映し出される。
裏方の人手不足をめいめいの努力で補うのだそうだ。
画面は変り、別演目「婦系図」の「湯島境内の別れ」へ。
水谷良重のお蔦、青山哲也(2006年没)の早瀬主税。
水谷のお蔦は親子二代の当たり役。
『静岡は箱根より遠いの?』という台詞が泣かせる。
続いて、3月16日の湯島天神詣での様子。
新派では毎年恒例の行事なのだそうだが、この年は劇団存亡が懸かっているとあって、
新派幹部全員での参拝。
水谷良重、波乃久里子、安井昌二…今は想い出の人となった菅原謙次や花柳武始の顔も見える。
初代八重子のフィルム映像が映る。
昭和44年、新橋演舞場。
楽屋入りの様子、楽屋での化粧の様子。
舞台稽古の様子、舞台袖でじっと若手役者を見つめる様子。
初代は語る。
>「こういうお仕事は、自分でどこまで出来てるって判る仕事ではございませんし
>自分が…まあ死んだ後で、どの辺までやれてたかということは、
>観た方に評価して頂くより、ないものですから」
晩年の水谷親子の会話が紹介され、昭和54年、初代水谷八重子の葬儀の様子(フィルム映像)が映る。
まるで魂が抜けている、涙も枯れ果てたような水谷良重の姿がそこに映っている。
襲名にあたって、より一層、母のことを考えることが多くなったという水谷。
「母が喜んでくれるのかな、このことを喜んだり、何かまだしなきゃならないことを注意してくれたりして
本当にこう…今まで家族というものは煩わしいものと思っていたんですけど
こうなってみると、分かち合える、っていうのかな。
私に家族があったなら、どんなリアクションをしてくれるのかな…って思うんですよ。
そういうときに、こうポコっと…深い淵に沈む、みたいなね」
そんな想いの中、襲名準備を行う水谷良重。
襲名の際の引き出物をチェック。
引き出物は、手ぬぐい、焼き物、扇子の3つで1セット。
焼き物には水谷の水の字を。
手ぬぐいの意匠の、二代目水谷八重子の字は…先代のサインの流用。
どうしても字が描けなかったのだという。
9月26日、清水市民文化会館・大ホール。
地方巡業中、水谷良重では最後となる舞台。
「千秋楽おめでとうございます。水谷良重、長いことお世話になりました」
全楽屋を、ユーモアたっぷりに明るく挨拶周りをする水谷。
そして、駆け回るなか、廊下でボソッとつぶやく。
「何だか郷里に帰るみたい(笑)」
こういうところは、まさしく水谷良重の面目躍如。
この挨拶周りの間、舞台では彼女のために垂れ幕などをコッソリ設営していた。
舞台「明日の幸福」上演後、波乃久里子が仕切ってアフタートーク。
波乃:良重という名前にお客様と劇団員一同からお疲れ様と言ってあげたいと思います。
全員:お疲れ様でした!
(拍手)
ボンッという音のあと、垂れ幕や紙テープ、紙吹雪が落ちてくる。
盛り上がる会場。嬉しそうな顔をする水谷。
終演後、幕が降りた舞台上では、打ち上げ。
波乃:もうね、どっかにいると、お姉チャマいるから言えないのよ。
水谷:おしゃべりがいない!
波乃:いないねー。この劇団は凄い。ヤマちゃんとね、昨日打ち合わせた。
波乃のマシンガントークが炸裂する中、「何にも言えない」と眼をうるませる水谷だった。
8月26日、京都。
猛暑の最中、芝居の贔屓筋を一軒一軒、襲名挨拶へ出かける水谷。
「この度は襲名をさせて頂くことになりました…」
1週間かけて、回ったという。
まったく恐れ入る。
新派が歌舞伎に継ぐ歴史を持つことを改めて実感させられる一コマ。
夏の終わり、川口アパートメント。
水谷の自宅。
"八重子の部屋"で、初代八重子の舞台『鹿鳴館』のビデオを観る水谷。
襲名興行で演じるのだ。
ビデオは昭和47年上演のもの。記録用に先代が遺したものだという。
>「アタシが言うのもおかしいけど、本当にこんな女優いないね。
>誰も代れないよ、これは…」
画面はアパートの地下階へ。
『鹿鳴館』の台本、昭和37年の初演を探すためだ。
初代八重子の演技プランの書き込みがあるのはこのときのものだけだからだという。
捜索に当たるのは、先代最後の弟子で今も新派に所属する俳優の田口守。
整理はされているので、箱をどかすだけで済むが、それでも膨大な量。
1時間かけて探し出した。
その脚本を読み演技プランを練り、初演以来使っている衣装に手をやる水谷。
初代八重子、出演作のうち、戦後からの台本はすべて残っているのだという。
『鹿鳴館』は台本のほかにも、三島由紀夫による台本読みの音声テープなども残っているそう。
水谷と三島。
もとは先代との付き合いから縁がはじまったという。
水谷の著書「あしあと」によると、歌舞伎座の先代の楽屋へ、三島が顔を出した際、コロッと
なついて、夜まで一緒に遊びに連れまわしたのだという。
三島の主演映画「からっ風野郎」(1960年・大映)では、競演しラブシーンまで演じている。
番組もいよいよ大詰め。
10月18日、浅草寺境内。
襲名披露のお練りを行っている様子が映る。
道道から、ミズタニ、ミズタニと大向こうが掛かる。
水谷にとって、浅草は想い出深い土地なのだという。
http://funnygirl.exblog.jp/15379422/
ふたたび、水谷八重子ブログ「ないしょばなし」から流用してみる。
>浅草・・・良重から八重子に変わった町、浅草・・・
>襲名の色々なキャンペーンの中、
>「水谷良重って一体どこに消えてしまうの?」って想いで一杯だった。
>それが、浅草、浅草寺のお練りをしている時、浅草の人達の「八重ちゃ〜ん」って声を、聞くうちに
>「私は八重子になったんだ」って、初めて思った。
>疑問がかき消えた。
>二代目・水谷八重子はここから生まれたように思う。
浅草は二代目生みの土地なのだ。
11月1日。
新橋演舞場。
楽屋には、初代八重子の鏡台を持ち込んだ。
演舞場の楽屋口、今日からは八重子として入る。
神棚へのお参りも、普段より長い。
舞台『鹿鳴館』の幕が上がる。
寺島しのぶ、市川新之助(現:海老蔵)、英太郎(はなぶさ・たろうと読む)、中山仁らが映し出される。
良重改めて二代目が台詞を謳い上げる。
先代とは違う、二代目の影山朝子がそこにいた。
終演。
カメラを見つけ
「アラ~、カツラもう取っちゃった~」
と、ご機嫌の水谷。
楽屋で、贔屓客からの願いで、やっと水谷八重子とサインを書く水谷。
「ダメね、まだ…」
―終無始無―
先代の鏡台に刻まれた言葉を見て、語る水谷。
>「字の通り、終りも始まりも無い道、なんでしょうね。
>これは母の鏡台なんです。私の鏡台にはこれは付いていない」
こうして番組はエンディングを迎える。
水谷親子のツーショット写真を映し出されるなか、ナレーションは友人からの言葉を紹介する。
>「もう少し楽をしなさい」「また恋をなさい」という…。
水谷八重子襲名、2012年の今年で17年経つ。
当時の意気込み、少しだが伝わって来た。
確かに盛り上がったのだろう。翌1996年は、前年同様新橋演舞場で2ヶ月連続で公演があり、
国立劇場での1ヶ月公演も復活するなど、新派は勢いに乗っていた。
現状と比べると、まったく羨ましい。
…それはさておき。
映像を見ていて思ったのは
新派は、松竹が少し力を入れて宣伝し、メディアで煽れば、潜在ファンが浮上してくるのではないのか。
ということ。
新派百年の記念年(87年~88年)も、そうだったように思える。
それとも、もう潜在ファンはいないのか。
興味はあれど踏ん切りがつかないという人はいないのか。
今の新派に必要なのは、若手が育つ・育たないなどではない。
メディアを利用できる、メディアにアピールして宣伝して貰うことが出来る人材(ブレーン)
を得ることに尽きる。
大江良太郎や川口松太郎のような逸材が、新派に付くことを願ってやまない。
―ここ1年ちょっと、新派にハマっている。
なんて、話をしていたら、新派好きな友人から
貴重な映像や書籍、雑誌、写真をいろいろ拝見する機会が何度か与えられた。
『運が良いな』と思うし、嬉しいし、何より有り難い。
思うことはいっぱいあるのだけれど、うまく伝えられない。
ツイッターで一言つぶやくのも良い。
でも、少し長めに話したいときは、まとめておきたいときは…ブログだ。
いま、備忘録として遺しておこうと思ったのは
平成7年放送の
「スーパーテレビ 情報最前線『襲名!二代目水谷八重子 涙と苦悩の365日』」(日本テレビ)。
テレビ番組での取り上げで有り難いのは、やはり話題になる・しやすいこと。
そして、動画という形式。顔がある、体が動く、声が聞こえる。
イメージしやすいのだ。
もっとも、テレビ=正しい、という訳ではないが(意外とこれが判らない人が多いらしい)
あくまで参考資料と割り切ると、やっぱり有り難い。
さて、「スーパーテレビ 情報最前線」だ。
『その日、水谷良重は緊張の朝を迎えていました』…という羽佐間道夫のナレーション。
画面は仏壇を拝む水谷の姿。
この光景から番組は始まる。
平成7(1995)年11月1日。
新橋演舞場への楽屋入り、関係者の楽屋挨拶の様子が映る。
そして、舞台の口上シーンへ。
七代目尾上菊五郎、山田五十鈴の言葉が抜粋して一言づつ紹介され、良重の言葉。
--------------------------------------------
>尾上:この度の良重さんの二代目水谷八重子御襲名、心からお喜び申し上げ奉ります。
>山田:末永くご声援ご指導して頂きますよう、僭越ではございますが私からも心からお願い申し上げる
>次第でございます。
>水谷:水谷良重改め二代目水谷八重子でございます。
>(客席から拍手)
>母の果たしました役目を、何とか、果たそうと、懸命に精進努力致して参ります。
>どうか末永く、ご贔屓下さいまするよう
>菊五郎:隅から隅までずいーと
>(『音羽屋!』『水谷!』の大向こうが掛かる)
>水谷:乞い、願い、
>全員:上げ奉ります
--------------------------------------------
まったく、豪華な顔ぶれだと思う。
この月の公演演目は「風流深川唄」「鹿鳴館」。
NHKで放送された「鹿鳴館」に菊五郎は出ていないので、口上は昼の部だったのだろう。
昼は菊五郎、山田五十鈴、夜は團十郎・新之助(現:海老蔵)ほか。
八重子襲名がいかに力が入れられていたかが、よく判る。
カメラに映っている、演舞場を取り囲む人の山も頷ける。
私だって、行きたかった。
番組ダイジェストを兼ねたオープニングの後は
東京・中央区築地の松竹本社(当時)での様子が紹介される。
第二応接室へ入って行く水谷。
部屋にいたのは、永山武臣・松竹会長(当時)。
--------------------------------------------
永山:八重子襲名をするということで…ね、自ずから変ってきますからね。襲名ってものは。
人間を変えますからね。もうただ芸のことだけ考えて。もうね、後には退けないんですから
--------------------------------------------
画面は変る。
平成7年9月29日、「二代目水谷八重子決死の披露パーティー」会場の様子へ。
ナレーションが流れる。
>「ひとりの女の、あずかり知らぬところで、歯車は回り始めていました。
>二代目水谷八重子、その晴れがましさと重荷が、いちどきに良重の肩に、のしかかって来ました。
>この頃彼女は、夜ごと自問自答したと言います。
>『私は本当に二代目水谷八重子にふさわしいの?』」
来場する客層は多種多様、華やかな顔ぶれ。
富司純子(尾上菊五郎・夫人)、市川團十郎、大橋巨泉、森繁久彌、永六輔、植木等、朝丘雪路の顔が見える。
永六輔は語る
「良重チャン時代に聞いた言葉のなかで
『明治・大正の風をいつだって新派の舞台から吹かせてみせる』という。
これをね、今、本当に大事にして欲しいと思うんです」
森繁久彌も言葉を寄せる。
「(初代)八重子さんのようになれといっても無理でしょうが。良重は良重のように、あの人間が、にじみ出るような芝居をして欲しいと思いますね」
パーティの間、ヒョイと、作り笑顔だったり、どこか淋しそうな不安そうな顔を見せる水谷。
旧友たちとの会話は、気張り続けなければいけない場のなかで、ほっと一息つけるひとときなのだろう。
植木等とは「いつか新派に出てね」「そうね」と話している。
これは、どうも実現はしなかったらしい。勿体無い話である。
大橋巨泉と水谷とは往年のテレビ番組「あなたとよしえ」「夜をあなたに」で
メインホステスと構成作家という間柄だった。
大橋の著書「出発点」(講談社文庫)に、このときの様子が記されている。
--------------------------------------------
>金屏風前の良重に「ねえさん、来たわよ」と言うと、眼を輝かせた彼女は
>「かあさん、ありがとう」と言って両手をとり合った。
>これは当時競演の故藤村有弘がスタッフ内で流行らせたオカマ言葉の挨拶である。
>二人とも従って小声で言い合ったが、あとでテレビのレポーターに
>「良重さんすごくうれしそうに何か言ってましたけど、何をおっしゃっていたのですか」
>と聞かれて困った。
>良重はちっとも変っていなかったが、周りは松竹や財界の偉い人ばかりですっかり変ってしまった。
>八重子になったらもっと遠くなってしまうのだろうか。一寸さみしい。
--------------------------------------------
忌憚の無い、旧知の人の言葉である。
番組に戻る。
「あなたとよしえ」の映像が流れ、水谷良重のあゆみがかいつまんで紹介され、初代八重子の代表演目、通称"八重子十種"の舞台写真が映る。
番組中、水谷良重の初舞台は彼女が花柳章太郎に懇願して実現した…と紹介されているのが気に掛かる。
本人の著書「あしあと」や川口松太郎「八重子抄」では、水谷が新派主事の川口松太郎へ
『女優になりたい、でもマミー(初代・八重子)が許してくれない』と訴え、やっと実現したとある。
花柳へも、水谷が口添えを頼んだ可能性は充分考えられるが、主に尽力したのはあくまで川口のように、私は思う。
花柳と初代八重子の関係を考えれば、たとえ花柳が口添えしたところで初代が話を聞くとは到底思えない。
カメラは文京区・川口アパートメントの水谷の住む部屋(当時)へ。
年配の男性3人と麻雀に興じる、生き生きと楽しそうな水谷の姿。
その様子を、見つめるのは男女一人づつ。
おそらく、麻雀の控え要員なのだろう。
微笑ましく眺めているのは女性は、脚本家の服部佳。
そこにナレーション。
>「数少ない趣味のひとつは、やはり母譲りのマージャンです。
>良重さんのために集まってくれる男ともだちは、母の代からのお医者さんや演出家の先生方。
>見かけによらず、人の前に出ると気疲れしてしまうという良重さんが本当に気を許せるのは
>こんな70代のオジサマたち。いささか意外な現実です」
2012年現在、この麻雀仲間は全員鬼籍に入られたらしい。
ナレーションで紹介された演出家は戌井市郎のこと。
新派の名優・喜多村緑郎の孫。文学座代表でもあり、日本演劇界の重鎮。
新派との縁も深く、戌井最期の演出は、2011年の初春新派公演『日本橋』(三越劇場)だった。
水谷のブログに麻雀について書いている文がある。
http://funnygirl.exblog.jp/12625566/
ちょっとだけ引用してみる。
--------------------------------------------
>母は、大晦日の夕方から、必ず、麻雀の卓を囲んだ。
>母の一番尊敬していた喜多村録郎先生の未亡人、通称「バンバ」
>耳鼻科で母の生涯の主治医だった「杉村先生」
>文学座なのに喜多村録郎先生の孫、、って訳で新派の演出家の戌井市郎先生。
>そして二抜け(誰も抜けたがらないけど)に明治座の営業にいた「山戸さん」
>と、それに母、、、芝居は美味いけど、麻雀は酷い、母だった。
>このメンバーは、ネンマツの恒例行事として何十年間も母のオモリをして下さった。
--------------------------------------------
カメラに映った面子は、おそらくこの面子だったのだろう。
麻雀のシーンのあとは、
「誰にも触らせない部屋」が映し出される。
仏壇が置かれ、初代八重子の写真や賞状、舞台等を収めたビデオテープが部屋中に並んでいる。
『良重さんは今も母八重子と共にに暮らしているのです』のナレーションが活きる。
それにしても、あれだけのビデオテープ。
おそらく母親だけじゃなく、自分のものもあるのだろうが
あれだけ映像が残っているというのは凄い。
願えるならば、一度拝見させて頂きたい。宝の宝庫だ。
水谷が訥々と話し出す。
「八重子って風に名前が変るんだな・・・って、思った途端にね、
じゃあ良重って、一体何だったんだろうっていう思いが凄く強くて。
何か初めてその良重をアピールしたいな、このまま消えたくないなって。」
新幹線が映り、時は平成6年年末、大阪へ舞台は移る。
良重では無くなる前に、良重でしか出来ないことをと考えた答えが"歌"だったらしい。
良重からの卒業旅行という位置づけらしい。
クリスマスディナーショーを行う会場で、リハーサルを行う水谷の姿。
伴奏を受け持つミュージシャンには、あのジョージ川口の姿もある。
ディナーショーのポスターにはツーショットが写っている。
会場は水谷良重に惹かれた人々であふれている。
水谷と同世代が集い、まるで同窓会のよう、とナレーションは紹介しているが、年上も多い。
若い世代も見受けられる。女性が多い。
ジョージ川口と軽口を交わし、ロビーへとスタンバイする水谷。
客用の出入り口から歌いながら登場する演出なのだ。
落ち着かない様子の水谷は話す。
>「いつも嫌なんですよね。こんなね、こんなドキドキする想いぐらいならいっそやんなきゃいいと
思うんですよ」
>「うちの母が、よく初日が怖くて怖くてたまらないって言ってたけど、キザだなと思ってたんですけどね…」
こう言いながらも、1曲目『ホワイトクリスマス』を歌って部屋へ入って行く水谷には
緊張は微塵も感じない。声も態度も堂々たるもの。お見事。
コミカルに仕立てた、越路吹雪の代表曲『ラストダンスは私に』も軽快で楽しい。
水谷は喜劇が本当に巧い。
ジョージ川口は、越路のバックバンドで長らくドラムを叩いていた。
水谷も越路を慕い、可愛がられていた。
二人に共通して縁ある人のナンバーだ。
ディナーショーのクロージング。
新派の仲間で、名脇役として知られる青柳喜伊子から花束を渡される。
『キーコ!』、水谷の声は喜びに溢れている。
水谷は、眼に涙をいっぱい溢れさせながら語る。
>「良重っていう、ただ一生懸命、走った女優を、ほんのちょっとでも、心の片隅に覚えておいて下さい。
>水谷八重子だなんて、あんな大きな、大きな名前なんて継げやしないんです。中身はこのままなんですから。
>でも高い山を目指して、一生懸命、いい八重子になります。
>八重子になって生きていきます」
滝のように涙を流しながらも、話す言葉は明瞭に聞き取れるのはさすが。
私が会場に居たなら、間違いなくこの言葉にもらい泣きしている。
素晴らしいショーであったことは、細切れの映像からもひしひしと伝わってくる。
石井好子の人生のハイライトを考えて、これは欠かせないというものはいくつもある。
人によって、何を選ぶか違うとは思う。
だが1990年12月10日のパリ・オランピア劇場でのリサイタルについては
どなたも異論を唱えることは無いはずだ。
さして石井好子について関心が無かった頃、彼女を知りたてだった頃から、このことについて
は関心があった。
私はフランスやシャンソンについては、聞きかじりの知識ぐらいだが、オランピア劇場が凄い場所
ということは知っている。
日本人で初めてオランピア劇場に立ったのは芦野宏(1956年、東洋人としても初だったという)だが
個人でのリサイタルは石井好子が初だったという(その後2007年にTOMUYAという在仏の男性歌手が行っている)。
石井好子というよりも、ひとりの日本人が外国で格式ある劇場でリサイタルを行うことがいかに名誉か、ということに関心を抱いていた面もある。
シャンソン歌手がどうとイマジネーションが沸かない方は、こう置き換えてみたらどうだろう。
アメリカの白人が、来日して演歌を歌って、日本の歌舞伎座でリサイタルを行い盛況を収める。
・・・どれだけ凄いことか、おわかりになるだろうか。
昨年だったか一昨年、NHKの「あの人に逢いたい」という番組で、初めて石井のオランピア劇場公演の映像を観ることが出来た。
チラリと流れた程度だったが、光り輝いていた姿は確認することが出来た。
市販でビデオが無いものかと探してみたが無かった。再放送されないものかと思ったが、海外だと権利関係が複雑で難しいだろうと諦めるより仕様がないと考えていた。
「NHKで当時放送されたのだから、縁があったら成るようになる」、そう思って一旦自分の中で置くことにした。
有り難いもので、縁が出来た。
深く感謝しながら拝見した。
活字から抱いていたイメージとは違った。
オランピア劇場は歌舞伎座と新宿コマ劇場を足して2で割ったような、趣がある場所であった。
きちんと映像で観たことが無かったが、歴史を感じさせる良い劇場だと感じた。
石井のメイクが違う。フランス人のメイク師によるものだそうだ。
彼女の舞台化粧はふだん濃い目で、それが威厳をさらに引き立たせている。
だが、このときはたおやかさや美しさがよく引き出されていた。
オランピアのステージの合間に、パリ市内を回る見慣れた石井の顔が映るので、なおのこと感じる。
照明の力もあるのだろう。
ルヴェロリスというフランスの業界ではトップの腕を持つ人が担当したのだという。
普段あまり照明がどうということは、私は考えたことがないが、これを見ていると思わずにはいられなかった。
彼とのエピソードは、彼女の著書にいくつか記されている。
特に、生前最後の著書となった「さよならは云わない」(2005年)に掲載されているものは、ドラマティックで、興味のある方には一読を強く薦めたい。
ステージ。
私はパリのオランピア劇場だから、かなり気合の入った豪華絢爛なものを思い浮かべていた。
以前「あの人に逢いたい」でチラリと見た、何も知らないときの「凄い」という気持ちのままでいた。
でも、それは違った。
認識不足のまま考えたことを、そのままにして上書きをしていなかったことに気付いた。
確かに凄い、素晴らしかった。
でも、それはオランピアだからという特殊なものではない。石井好子のステージとしてなのだ。
どこまでも石井好子なのだ。準備万端で望んでいる、いつもの石井好子。
歌声のコンディションも完璧。気負いなど全く感じさせない。
違和感も無い、まるでいつもそこで歌ってたかのような佇まいすら感じる。
云うまでもないが、若いから出来たとか何も知らないから出来たとか、そういうものではない。
このとき石井好子は68歳である。
そして、オランピア劇場に立つということの凄さを、日本人では誰よりも知っている一人だ。
これだけの偉業をやってのけると、どこか厭らしさを感じさせる人も中にはいるが、彼女には該当しない。自然だ。
これがソフト化もされないのは、勿体無いという次元を通り越している。
ぜひ放送でカットされた部分も含めた完全版で、再放送なりDVD(ブルーレイ)化されることを強く望みたい。
しばらくぶりに、石井好子のDVD「80歳の交響曲・ROBAは一日にして成らず」を観ていた。
このDVDは、2002年11月4日、昭和女子大学人見記念講堂で行われた『都響スペシャル・パリの喜び 石井好子80歳/80人のシンフォニーと歌う』というコンサートの様子を収めたものだ。
石井好子が東京都交響楽団をバックにシャンソンを10曲熱唱している。

アンコールナンバーとして、「二人の恋人(J'ai deux amoures)」を歌っているとき。
最前列の客席から、ひょこひょこと舞台に近い付いてくる人がいる。
片手を出して、石井と握手すると、すぐにバラの花一輪、差し出した。
このバラが、また舞台のアクセントとなって良いのだが、今までどうこう考えたことは無かった。
このコンサートの客席には、石井ファンの様々なジャンルの人々が集まっている。
岸朝子の隣りに秋山ちえ子がいる、ということは以前書いたと思う。
当時、石井の公式サイト(今は無い)では特別ページが設けられて、寄せられた絶賛の声を紹介していた。
DVDを見たあと、ふっとそこのページをまた見返したくなった。
インターネットアーカイブでこっそり覗いてきた。時々見られないときもあるが今日は無事見られた。
歌手の二葉あき子の文章に目が留まった。
掲載されているものを、そのまま引用する。
美しい偉大な歌手。私は先日の音楽会で心を打たれました。あんなに感激したことは数十年ありませんでした。
大きな舞台に、あなたはいつも中心に、強く、美しく存在しました。
一歩も、何にもゆずることなく歌いつづけられ、心の力、歌の力を出してゆかれ、空気さへあなたの前にぬかづいている様でした。
歌い方がどーのなんて言わせない。大きな演技。出てこられた足許からはじまって居りました。私は体がふるえました。美しいお姿は八十歳とは。三十台の女そのものの色気を感じました。
なんて、あなた、凄い方でしょう。楽屋ではやさしい、やさしい人ですのに。
大歌手とはあなたのことです。
一本のバラ、夢中で持ってゆきました。杖ついて、帽子かぶって、コトコトと、ハンドバッグ持って、コトコトと。みっともなくてごめんなさいね。おばあちゃんだから。
愛する愛する好子さま
十一月七日 あき子(二葉あき子さん)二葉がその光景を見たかったなあ、と、それまでは呑気に思っていたのだが、今日あることに気付いた。
あの、薔薇一輪のひとは、二葉あき子ではないかと。
画面に映っている光景は、ちょうど遠景から映したもの。しっかりと顔は映っていないのだ。
だが、その人は帽子を被っているのは確認できる。
体型もこの時期の二葉とも一致する。
一本のバラもしかり。
私は二葉あき子で間違いないと思う。
本物は本物を知る、ということを示す良いエピソードではないだろうか。