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年齢不詳な若人が唄の話を中心にアレコレと・・・


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夢で逢いましょう

坂本スミ子が亡くなった。近年、親交があったさだまさしが100歳まで生きると思っていたとコメントしていたが、あのエネルギッシュなイメージからすると84歳での逝去はいささか早く感じた。


中学、高校、大学と学生時代に昭和の歌謡曲、横文字の歌に目覚めた私にとって、リアルタイムで聴いた歌と後追いで聴いた歌がないまぜになって、思い出の歌となっている。

この一年ばかりで、学生時代に浴びるほど聴いた歌い手が3人も世を去ってしまった。


梓みちよ、弘田三枝子、坂本スミ子。

坂本スミ子以外のふたりについては、それぞれ改めて記すので、ここでは触れない。


坂本スミ子と聞いて、まず思い出すのは「夢で逢いましょう」のエンディングで、ひとりスタジオの中で唄うモノクロキネコの映像だ。


うれしげに

悲しげに

楽しげに

淋しげに


永六輔の詩に、これ以上ない似つかわしい曲をつけた中村八大。

もしかしたら、逆かもしれないが、いずれにしたところで、これ以上ない似つかわしい詩と曲である。


そして、この完成度のすこぶる高い、誰が歌っても良い曲をさらに一段も二段も高みに上げ、表情豊かに表現し切ったのが坂本スミ子である。


宝とも子に続く、ラテンの女王として名を売り、「エル・クンバンチェロ」を名刺がわりのレパートリーとしていた歌い手が歌うには一見似つかわしくなく、ミスマッチに思えるが、御存知の通り、坂本スミ子の代表曲となり、テレビ史に残る歌声となった。


歌手坂本スミ子の魅力は、豊かな声量で情熱的に歌い上げるだけではなく、もともと声楽を習っていただけあって、抑えた声で唄うことも得意としている、その振り幅の大きさにある。


日本の声楽とラテンを下地に歌謡曲の世界でも「たそがれの御堂筋」「夜が明けて」とヒットを飛ばし、JPopの礎ともなった。


2009年に軽い脳梗塞を患って以降、リズム感に衰えが目立つようになってしまったが、声量は晩年も健在で、表現力も衰えなかったから、坂本スミ子を全うすることが出来た。

その証拠ともいえるのが。2016年発売のさだまさしによる永六輔トリビュートアルバム「永縁」。

夢で逢いましょうのレギュラーであり、司会も務めた黒柳徹子とともにゲスト参加し、アルバムの1曲目「夢であいましょう」を披露している。

間奏で詩を朗読する黒柳徹子もそうであるが、既に高齢であったが、どこか瑞々しさを残し、良い年の重ね方をされたなぁ、と感慨深いものがあった。


私は観に行っていないが、この2016年にはブルーノート東京で東京キューバンボーイズをバックに傘寿記念ライブを行い、本人も充実感があったのか、同じようなライブをまたやりたいと熱望していたという。


坂本スミ子で惜しまれるのは、ステージシンガー、アクトレスとして生きたため、その知名度の割にレコード等を残していないということ。

復刻にも恵まれているとまでは言えず、既に廃盤で入手が難しくなっているものもある。


叶うならば東芝レコード時代の音源や、6070年代のフィリップス音源をまとめたアルバムが欲しい。


今、こうして綴りながら、思い出すのは、高校卒業間近、五稜郭電停前をぶらつきながら聴いた「浮雲」であり、大野雄二による編曲がオリジナルよりも好きな「たそがれの御堂筋’77」であり、「夢であいましょう」なのである。


うろ覚えだが、以前、黒柳徹子が「夢で逢いましょう」について、「誰にも渡したくない、大事にしておきたい、私のかけがえの無い青春」と話していたことがある。


私にとって、坂本スミ子という歌い手は、そんな歌い手なのかもしれない。


# by hakodate-no-sito | 2021-02-13 10:16

むかしひとりの歌い手がいた・・・菅美沙緒

妙にひっかかるものって、誰にもあると思う。

5月の末に、群馬の日本シャンソン館へ行ったときのこと。
シャンソン館の展示品の中に歌手の衣装があった。
施設の創設者である芦野宏は勿論、高英男、石井好子、深緑夏代、越路吹雪、岸洋子、淡谷のり子、金子由香利…日本のシャンソンの唄い手の衣装が一堂に会していた。

どれも見ごたえのある衣装だったが、琴線にひっかかったのが、菅美沙緒という歌手の衣装。
黒を基調に家紋をあしらったドレス。
和と洋のバランスが絶妙。

お世辞にもお洒落など分からない私だが、センスの良さにグッときた。

紹介のパネルを見ると、この歌手、パリはモンマルトルの墓地に眠っているという。

日本にシャンソン歌手は多くいるが、パリが墓所というひとは聞いたことがない。

どんな人だろうと思った。

シャンソンの訳詞では名前をよく見る。戦後すぐシャンソンを歌ったリサイタルを催したひとり(他には石井好子と高英男がいる)。
水野汀子という別名義でもシャンソンの訳詞を請け負っているらしい。

そのぐらいの知識しかない。

旅先から戻って、慌ただしい日々が落ち着いた頃、ネット検索をしてみたが、私が知っている以上の情報は得られそうもない…と、落胆しかかったところで、ひとりの歌い手が見つかった。

出口美保。
関西のシャンソン界の頂点に位置する歌手なのだそうだ。
Youtubeに公開された動画を視聴して、驚いた。

なんだろう、こんな歌、聴いたことがない。

低音、それも男性のようなキー。

訥々とつぶやくかのような唄い方から一転、吼えるような唄い方へ。

私の思い抱いているシャンソン歌手の唄い方とはひと味違う。

震えがきた。
真似が出来ない。
真似したところで白けてしまうのがオチだろう。
確固たる自分の世界を築き上げている。

この人が菅美沙緒の弟子にあたる。
「菅美沙緒 訳詞の世界」というライブ盤CDを出している。どうやら、そのアルバムの中で菅美沙緒の歌声が収められているらしい。

聴いてみたい。
自分のなかでゴーサインが出た。

心を決めて、出口美保の公式サイトから問い合わせ先を見つけて、連絡した。

随分昔のアルバムなので、在庫があるか調べてから、折り返し連絡しますとのことだった。

そこからいろいろあり、留守電にまさかの出口美保さん御本人からメッセージを頂くなんて仰天モノなこともあったりして、ついにCDが届いた。

有難いことに菅美沙緒の資料も同封して頂けた。

ネット上には菅美沙緒の情報はほとんどない。
といって石井好子や芦野宏、高英男、深緑夏代があるかというとそうでもない。
去る者は日日に疎し、とはいうが、あまりだろう・・・。

折角なので、頂いた資料をもとに菅美沙緒について略歴を記してみたい。
むかしひとりの歌い手がいた・・・菅美沙緒_e0134486_20553837.jpg
菅 美沙緒(すが みさお)(1916~2000)
愛媛県今治市生まれ。
昭和11年、三浦環に師事。
昭和17年、日本ビクター入社。数枚のレコード吹き込みも行う。
同年3月20日、日劇小劇場にて昼夜2回の独唱会を催し、越谷達之助歌曲集「啄木によせて歌へる」を初演する。
昭和18年には帝国劇場でリサイタル開催。この頃には藤原義江との競演も行う。
戦時中も三浦環と行動を共にし、山中湖畔への疎開も共に行ったという。
戦後、「生活臭のあるものを唄いたい」とクラシックの世界からシャンソン歌手へ転身。
昭和22年、戦後では初となるシャンソン・リサイタルを開催し、昭和24年までに3度リサイタルを行い、中原淳一、岡本太郎、芦原英了らの文化人とも知己を結ぶ。このリサイタルでは、シャンソンというもの自体がさして知られておらず、譜面も殆ど出回っていない中、歌唱曲すべてをシャンソンで揃えるという偉業を成し遂げたとされる。
なお、他のシャンソン歌手だと、昭和23年に日向好子(石井好子)、昭和24年に高英男がリサイタルを開いている。
「さくらんぼ(の実る頃)の菅」の異名を取り、人気を得たが、やがて舞台出演を断ち、裏方へ回るようになる。
シャンソンの訳詩も積極的に行い、創学社や水星社から発売されたシャンソンの楽譜集には多くの日本語詩が掲載されている。
菅の名とは別に、水野汀子名義での活動もあり、主なものに水星社から発売された楽譜集「シャンソン・アルバム」(全5巻)の編纂や
岸洋子のヒット曲となった「想い出のソレンツァーラ」の日本語詩などがある。
昭和30年、東京・産経新聞社にて日本初となるシャンソン教室を開講。
その後、京都へ転居し、活動基盤を関西へ移す。
昭和37年に大阪・梅田、昭和38年には神戸新聞社・神戸文化センター、昭和40年には京都国際ホテルでそれぞれシャンソン教室を開講。
京都国際ホテルではホテルのプログラムとして毎週シャンソン・ショウも行っていたほか、シャンソンのイベント・京都パリ祭を毎年
開催していたという。
昭和46、47年に渡仏。この頃、後進の指導・育成の場としてシャンソニエ経営を模索し、店名は「ベコー」と決め、ジルベール・ベコーから店名の許可も得たが、弟子である出口美保に託す。昭和54年に大阪・梅田にて「ベコー」開店(平成29年現在も営業中)。
平成10年、長年居住した京都を引き払うことを決め、同年11月11日に区切りのリサイタルを京都府立文化芸術会館で開催。
平成12年8月14日、逝去。
墓所はパリ・モンマルトル。墓石には園家文苑の書で「さくらんぼの実る頃」の訳詩の一部が刻まれている。



むかしひとりの歌い手がいた・・・菅美沙緒_e0134486_20555639.jpg
出口のアルバムに収められた菅美沙緒の歌声は、最晩年、1998年のリサイタルの音源だった。
お話も歌声も、「マロニエの木蔭」「喫茶店の片隅で」で知られる往年の名歌手松島詩子を彷彿とさせる、艶と品格に溢れる、美しい歌声だった。 幻の歌い手にしてしまうには惜しい、惜しい歌声。繰り返し繰り返し聞き返した。
頂いた資料によると「絶唱」という題名のレコードを昭和49年に発売されたという。
叶うならば、入手して聴いてみたい。

そして出口美保の歌声もまた素晴らしい。
菅美沙緒のアルバムだけではなく、別のCDや比叡山延暦寺でのライブDVDも一緒にお願いしていたのだが、これらがまたべら棒に良い。
そのことについて、後日また機会を見つけて記してみたい。

シャンソンも、演歌も、フォークも、ポップスも、民謡までも、自身の色に染め上げてシャンソンとしてしまう。
ジャンルを超越した出口美保の世界。ただただ、素晴らしい。

# by hakodate-no-sito | 2017-08-08 21:05 | 歌・唄・うた

こころに歌を、シャンソンを

こころに歌を、シャンソンを_e0134486_20513220.jpg
「大好きな歌手・高英男さんの生誕百年を記念したイベントを、日本シャンソン館で催し、資料展示もします」と主催者のSさんから伺い、群馬県は渋川市へ行って参りました。

渋川市は日本列島のまん真ん中に在ることから、にほんのへそ、と言われる場所。江戸の昔は宿場町として栄えたそうです。

シャンソン歌手の芦野宏さんの奥様が渋川の旧家の一人娘(なので婿入りされています)という縁があり、この地に日本シャンソン館が出来たのだそう。

シャンソン関係では聖地といっても良い場所で、一度伺いたいと思いながら、なかなか果たせずにいたのですが、思いがけず機会が訪れました。

創設者・芦野宏さんの想いがたっぷりつまった日本シャンソン館。
もっと大きいハコモノ施設だと思っていたのですが、住宅地の中にある高級な邸宅という趣き。実際、あの周辺は羽鳥家(芦野さんの奥様の実家)の土地なのだそう。

大歌手の道楽のようで、さにあらず。
羽鳥家の身の丈に合わせ維持できるギリギリの線を狙いながら、細部に至るまでの一流のこだわり。品の良さ、趣味の良さを感じさせる、絶妙なバランス感覚。
憧れと親しみやすさを両立させているあたり、芦野宏らしさがにじみ出ているように思えました。

時期が合えば、四季折々の花がお見事なのだそうですが、足を運んだときは、盛りはちょっと過ぎていたのかもしれませんが、それでも庭のバラのアーチには見惚れました。
西洋風の庭園内に、おそらく羽鳥家伝来のものであろう、蔵や灯籠があるのですが、それがまたミスマッチの妙というのか、不思議に調和しているのです。良いものは国境を超えるのでしょうね。

カフェも、佇まいばかりではなく、食べ物も実に美味いものが出てきます。
適正な値段と、満足の行く食べ物、雰囲気の良さ。文句なしでした。あそこなら一日中居ても飽きません。

ミュージアムで常設展示されている衣装も、コラ・ヴォケール、イベット・ジロー等のあちらの歌手のものや、勿論芦野宏さん、高英男さん、深緑夏代さん、石井好子さん、岸洋子さん、淡谷のり子さん・・・今は亡きレジェンドたちのものが並んでいるのです。
日本のシャンソン歌手の草分けのひとり、菅美沙緒さんの衣装も。
シャンソンの訳詩でしか名前を知らないのですが、叶うならば歌声も聴いてものみたいです。衣装の佇まいに、タダモノではない何かを感じ取りました。
他にも、美川憲一さんや金子由香利さんの衣装もありました。あとは今は亡きシャンソニエ銀巴里やブンの看板もありました。

今回参加したイベントに関連して、特別展示されていたのが、高さんの衣装やコンサートのポスターにレコードジャケット等。博品館劇場や帝国劇場、ヤマハホールでの淡谷のり子とのジョイントコンサートのポスターには「行きたかった・・・」と思わず独り言。

今回特別展示されていた衣装は、私にとって、とりわけ思い入れの深いものでした。

12年前、「昭和歌謡大全集」(テレビ東京)という番組でVTR紹介された、浅草・国際劇場で舞台化粧も入念にラメ入りの着物姿で颯爽と現れ「雪の降る街を」を唄われる映像を見たときから、私の高英男ファン歴は始まりました。

そのときの衣装を、目の前で見ることができたのです。

晩年の中原淳一さんが作られた衣装。
街燈のアップリケ、チョコレート等の包装用の銀紙・金紙をラメ代わりにあしらった、斬新なデザインの着物。

高英男、中原淳一という、不世出の才人の煌めきが今、自分の目の前で感じられる・・・涙ぐみそうになるのを必死で抑えました。

さらには、高さんのマネージャーのSさんとも10年ぶりにお目にかかることができ、高さんの秘話を伺うことが出来ました。

イベントライブでは、高さんの幻と思っていたあの曲や、レコードで聞いたあの音源が、サプライズで流れ、興奮しきりでした。

死ぬまで私は高さんを好きで居続けるのだろうし、何らかのかたちで高さんのことを語り
継いでいくんだろう、と漠然と、でも確信的に、思えました。

イベントライブの会場。
日本シャンソン館の要といってもよいライブハウス、いやシャンソニエがまた素敵な雰囲気でした。

ここに高英男さんが出演されたときはどんなステージだったんだろう。
雪村いづみさんがここで歌ったらどれだけ映えるだろう。
芦野さん最後のステージはここだったんだよなぁ。
・・・あれやこれやと夢想していました。

そういえば、東京MXテレビで芦野さんが案内役で放送していた「シャンソンをあなたに」でしたか、そんな番組がかつてあって、その収録はここじゃなかったでしょうか。
あの番組、ちょうど上京したかしないか、だったか私が録画機を買う少し前あたりだったかに終わってしまった覚えがあります。おぼろな記憶なので間違っているかもしれませんが。

私が歌好きの道を踏み出したとき、石井好子さんも芦野宏さんも健在。メディアでよく拝見していました。

NHKホールでの「パリ祭」で、生のステージも拝見しています。
芦野さんのアルバム「私のピアノ」「コートダジュールからの風」は未だに聴きたくなるアルバムですし、自叙伝「幸福を売る男」はサイン入りで所有しております。
追悼盤となった東芝音源のアンソロジー「ラ・メール」には私の名前もクレジットの末端に加えて頂いた覚えがあります。

深緑夏代さんもそうですが、かつて私が見ていた時代に当たり前のように居た存在がどれだけ凄いひとたちだったか、年々染み入ります。

芦野さんが亡くなる10数年前から間質性肺炎との闘病を続けていたことを知ったときには驚きました。あの柔らかな歌声の影に・・・と。

石井さん、芦野さん、深緑さん、高さん・・・もう一度ステージを、と思うことは一度や二度ではないのですが・・・どなたも、もういないのですよね。
でも、シャンソン館を見て歩いて、芦野さんの息吹はここにある、と感じました。そして、そういう場がある倖せ。

会場にいらした羽鳥館長は、芦野さんの御次男。
「コメットさん」や昭和38年の紅白歌合戦の映像で見た60年代の芦野さんの面影を勝手に重ねてしまいました。
結果、話しかけてしまい、あれやこれやと語ってしまいました。

今回、ご厚意から芦野さんのお墓詣りもさせて頂きました。
思春期の多感な時代に楽しませて頂いたこと、遺された歌声で今も楽しませて頂いていること、墓前でお伝えしてきました。

本当に楽しい、嬉しいひとときをシャンソン館で過ごせました。旅先で御一緒した皆様には感謝しかありません。

機会があれば、また伺いたいです。
# by hakodate-no-sito | 2017-05-28 20:48 | 歌・唄・うた

過ぎし日よ私の学生時代

ペギー葉山さんが4月12日に亡くなりました。

今年に入ってもステージは勿論メディア出演も行っていて、レコードデビュー65周年ということもあって、これからもいろいろ露出は多いだろうと楽しみにしていただけに、このような形でお目にかかることになってしまうとは予想だにしていませんでした。

というのも、先だって雪村いづみさんの80歳記念も兼ねたバースデー食事会(クローズド・イベント)の席で「夏にペギーさんが面白いコンサートをするので、貴方も来られるようならぜひいらして」とお誘いがあり、すっかりその気になっていたのです。

私が今のような歌好き人間になるずっと前の、いたいけな小学生の頃から、ペギー葉山という人は知っていました。断っておきますが、我が家は親類含め私以外に懐メロ好きな人間はいないので、環境は全く整備されておりません。そんな不毛地帯で、僅かに芽生えていた認識の人たちが、美空ひばりに石原裕次郎、島倉千代子、三波春夫、村田英雄、並木路子に雪村いづみといった人たちなのですが、ちょっとだけペギーさんの方が認識するのが早かったのは「ドレミの歌」のおかげでした。

「『ドレミの歌』(の日本語詩)を書いた人」
「なんだか知らないけど凄いひと」
「南国土佐がナンタラの方」

もっとも、そんな認識ですけれどね。
(いま現在の年齢でもこのぐらいの認識があれば充分だと思われますが)

何かの番組で「今年は海外でもペリー・コモが亡くなって・・・」とペギーさんが話して
いるのを聞いて、何だか知らないけれどペリー・コモという人は偉い人らしいとインプットさせたことを覚えています。後にこれが役に立ちました。

懐メロ番組で本当によくペギーさんは拝見しました。
人選がつまらない番組でも、お恵ちゃん(松山恵子)や雪村さん、ペギーさんが出演とあれば、まずは録画(視聴)していました。

「南国土佐を後にして」「学生時代」「ケ・セラ・セラ」「ラ・ノヴィア」「つめ」「切手のないおくりもの」「神様がくれた愛の道」「夜明けのメロディー」・・・

そうそう、先だって亡くなったデビー・レイノルズが歌った「タミー」も、ペギーさんの歌経由で知りました。横文字苦手な洋楽初心者である私とって、とっかかりを作ってくれた人のひとりが江利チエミさんであり、雪村いづみさんであり、高英男さんであり、岸洋子さんであり、越路吹雪さんであり、ペギー葉山さんでした。

近年は足腰の不調を見せたりちょっと小さくなってしまわれて、お歳を実感し淋しくなりつつも、歌声の健在ぶりに「まだ、大丈夫」「元気なうちにまた生歌聴きに行かなきゃ」と思っていました。

一昨年の10月、日比谷公会堂で越路吹雪のトリビュートコンサートが催されました。
日比谷公会堂が改修工事に伴う閉館間近ということに加えて、出演陣が水谷八重子、雪村いづみ、ペギー葉山がそろい踏みとあっては、ムリをしてでも行かねばならぬ、と腹を決め上京しました。

そのとき、9年ぶりにペギーさんの生歌を聴けました。
前回も日比谷公会堂でジャズフェスティバル、あのときは御主人の根上淳さんの喪に服す意味合いか黒いイブニングドレスを召して「我が心に歌えば」などを唄っていたことを覚えています。
それから9年、あのときは大きく見えたペギーさんがすっかり小さくなって、ちょっと歩くのが辛そうに見えました。
それでも、さすが頂点に位置する大ベテラン。1コーラス目は往年のように舞台を駆け回り、2コーラス目はピアノにもたれムードを出して唄うという演出で、きちんと魅せていました。
歌は衰えを知らず、ますます円熟味を増し、無駄をそぎ落とし、これが歌という極致を見せていました。

そのとき、歌ったのは越路吹雪の追悼曲でもある「シャンソン~ひとりの歌い手~」。
作詩・曲アダモ、日本語詩岩谷時子。
ペギーさんの中でも特別なレパートリー。
良い歌ではありますが、テレビではめったに聴けない歌で、まさかこの歌を聴けるとは思っておらず、嬉しい誤算でした。

♪いなくなった歌い手ひとり 声が残るだけ
シャンソン シャンソン これがシャンソン シャンソン…

最初に聴いたときから年月を経るに従い、この歌を聴くとき、私の中では越路さんに限らず、深緑夏代や石井好子といった面々も浮かんでくるようになっていました。

このときでの公会堂でも、そんな思いが胸をよぎっていました。
こんなに味わい深い歌を歌える人なんだなと改めてペギー葉山という歌手を好きになりました。

それから、ベスト盤の類ではなく、オリジナル・アルバムを何枚か買って、聴くようになりました。

ハンク・ジョーンズとのコンビで唄った「お久しぶりね」「よさこい・いん・JAZZ」に、若さとファイトで戦後30年の洋楽ヒットナンバーを高らかに歌い上げた「ポピュラー30年史」、そして名コンビ秋満義孝と吹き込んだ「絆」。

万葉集を題材に、ペギーと親交のある「誰もいない海」の作詞家・山口洋子が詩を書き、大塚博堂、来生たかお、南佳孝、西谷翔、米山たくみという5名の昭和54年当時新進気鋭のシンガーソングライターが曲を書いた名盤「万葉の心を求めて」。

手もとにあるオリジナル・アルバムはどれも高水準。
さすがに2000年代以降は全曲新規録音によるオリジナル・アルバムは出せなかったようですが、それも節目の記念曲等で今の歌声で新しいレパートリーを世に出し続けていました。「夜明けのメロディー」のスマッシュ・ヒット、「結果生き上手」の演歌・歌謡曲チャートで好評、とレコード歌手としても現役の顔を見せ、つい最近も新曲を発売したばかりでした。

時代を代表する大ヒット曲を幾つも有し、長年にわたり第一線で活躍し、日本歌手協会の会長職も務め、晩年もヒット曲に恵まれ、生前最後のステージが敬愛し止まなかった越路吹雪のトリビュートコンサート。大好きな宝塚のOGに囲まれながら歌った「スミレの花咲く頃」がラストソングとは、見事なまでの人生の幕引き。秋には65周年のコンサートの予定もあり、体調を崩す前日もコンサートのリハーサル。最後まで歌手として需要があり続け、現役真っ只中で、患うことなくスッと姿を消した。
拍手、拍手、で送りだすにふさわしい千秋楽ではありませんか。
あっぱれ、としか言いようがないです。まさしく「結果生き上手」。

・・・でも、こちらは茫然としています。
今も去年出演したラジオの録音を聞いていたのですが、お元気そのもので、死の影など微塵も感じません。到底信じられないのです。

http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/04/13/kiji/20170413s00041000145000c.html

多くの人が、コメントを出していますが、レコードデビューが同じ年の雪村さんのコメントが沁みます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
うそでしょう!何やってるのよ、ペギー!って言いたいです。
ひばりちゃんもチエミちゃんもあまりに早いときにお別れしちゃったから、そのあとはあなたがいるから私も歌えるって思っていました。いい意味でいつもライバル。でもペギーはとてもいつも落ち着いていてお姉ちゃんって感じで私を引っ張ってってくれました。あまりに思い出が多すぎて。ひばりちゃんやチエミちゃんにあちらで会って、一緒に楽しい第二の人生を送ってね!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

それにしても「ペギーさんがいる」、これがどれだけ大きいことだったか。
当たり前のようでしたが、アメリカのポピュラーソング、ジャズ、ポップス、ミュージカル・ナンバー、童謡、唱歌、抒情歌、こどものうた、歌謡曲、南国土佐・・・これだけ幅広くジャンル横断で唄った歌い手がどれだけいるのか。また、その中で健在な、雪村さんらとともに最後の砦というべき人たちのひとりでした。
私が大好きな歌の時代、1950~70年代に現役で駆け抜け、過去と現在をつなぎ、あの時代の匂いと現在の感覚を同時に見せてくれる、希少な歌い手でした。
小さい頃から20年、ずっと見てきた、いることが当たり前の存在でした。

少し前のかまやつひろしの死もキツイものがありましたが、今度のペギーさんの急逝は、もはやどうしたらいいのかわからないのです。
哀しいとかショックだとか、そういうのではなく、ただ、ただ、茫然と立ち尽くしている、そんな感じなのです。
# by hakodate-no-sito | 2017-04-18 20:53 | 歌・唄・うた

サヨナラ私の愛した新派

また、大好きな俳優に逝かれてしまった…

英太郎さん。

ついこないだ、9月に上京したとき、新橋演舞場で元気に芝居している姿を見たばかり。

信じたくない。

大好きな新派の、往年の新派狂言の匂いを体現しているほぼ最後の大物。

新派の芝居は女優だけじゃダメ。
女方があってこそ。
いや、もとは歌舞伎同様ヒロインだって女方だったのだから。女方こそ本家筋。

でも、時は初代水谷八重子、市川翠扇を筆頭に女優本流にとなり、女方は後継者育成すらなされなくなり、やがて花柳章太郎、初代英太郎、成田菊雄…中心からも脇からも傍からも、一人減り、二人減り。女方もこなすようになったサラブレッド花柳武始も志半ばの死。
純女方最後の砦が二代目英太郎でした。

水谷八重子(良重)は大好きだし、御本人とも面識あります。
波乃久里子も近年役者として脂がのっています。上り坂です。

でも、英太郎さんとこの二人だと、持っているものが違う。
同じ芝居の同じ役でも、女方と女優じゃ全然演じ方が違う。
どちらが優れているとか、そういう問題ではないのです。

新派の芝居に英さんが出てくると、芝居が引き締まるし、味わいが増す。
「ああ、新派だぁ」と思えるのです。
今の劇団新派じゃなく、新派劇というひとつのジャンルだった匂いを感じさせてくれる、数少ないひと。

本当はもっと英さんを新派は大事にするべきだった。新派四本柱だけじゃなく、英太郎や花柳武始らをもっと大事にするべきだった。

決して優遇されたとは言えない状況で、ここまでの芸を築き上げた英さん。

まだまだ観る機会はあるものと思っていたのに。

新派120余年の歴史の、また哀しい一区切り。

市川春猿の新派入りで、新派の女方の歴史にこれで中断なくバトンが渡されると思った矢先の訃報。

落胆しています。

# by hakodate-no-sito | 2016-11-14 21:31 | 古今俳優ばなし