年齢不詳な若人が唄の話を中心にアレコレと・・・


by hakodate-no-sito

プロフィールを見る

S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30

最新のコメント

とんかつ女将さま コメ..
by hakodate-no-sito at 15:22
こんばんは。初めてコメン..
by とんかつ女将 at 23:16
if194552さま ..
by hakodate-no-sito at 20:30
if194552さま ..
by hakodate-no-sito at 21:54
てんてこ舞いさま お返..
by hakodate-no-sito at 21:35
こんにちは、てんてこ舞い..
by てんてこ舞い at 08:28
はじめまして 私はシャ..
by ゆう at 17:04
てんてこ舞いさま 御無..
by hakodate-no-sito at 20:04
まささま 感情としては..
by hakodate-no-sito at 19:40
函館のシト さま ..
by てんてこ舞い at 13:47

最新の記事

低音の魅力を映像でもどうぞ
at 2016-02-24 12:52
わたしのデュークエイセス
at 2015-09-07 11:17
「父・川内康範を語る」飯沼春樹
at 2015-06-08 23:58
川内康範は函館生まれ
at 2015-06-08 23:56
徹子の部屋 京塚昌子さんをし..
at 2015-05-04 00:34

記事ランキング

フォロー中のブログ

ないしょばなし
ブック・ダイバー(探求者...

リンク

検索

カテゴリ

全体
つぶやき
歌・唄・うた
テレビ
菊池章子
デュークエイセス
古今俳優ばなし
読書感想
CD視聴感想
未分類

タグ

以前の記事

2016年 02月
2015年 09月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 03月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 05月
2008年 08月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月

ブログパーツ

最新のトラックバック

venusgood.com
from venusgood.com
www.whilelim..
from www.whilelimit..
http://while..
from http://whileli..
http://while..
from http://whileli..
http://www.v..
from http://www.val..
http://en.wi..
from http://en.wiki..
boom beach c..
from boom beach che..
石井好子 (20) 文藝..
from CORRESPONDANCES
NHKドラマにもなった「..
from 劇団新芸座ブログ

低音の魅力を映像でもどうぞ

昭和を代表する大歌手にふさわしいBOXセットが、2016年2月24日に発売された。
「懐かしのフランク永井 シングル全集」(10CD+DVD / VIZL-941 )

このBOX、フランク永井のシングル曲(A面)をまとめたもので、CDにしてなんと10枚分。
加えて、NHKのアーカイブ映像からフランクの歌唱シーンをピックアップしてまとめたDVDが1枚付いてくる。

フランク永井のCD-BOXはこれまで幾つも発売されているが、ヒットの多さが災いしてか、結局オリジナル曲は似たり寄ったりの選曲にならざるを得ない状態が続き、カバー音源(洋楽も含む)の方がバラエティ豊かな選曲(復刻)ができるという、本末転倒というのか、何とももどかしい状況になっていた。

勿論、カバーはカバーで聴き応えがある。
フランクのカバーへのスタンスは洋楽のポピュラー歌手のそれに近い。良い歌は共有しようと、気負わず、サラッと歌うところが実に良い。だからこそ光る。
何よりもフランク永井の代表曲「君恋し」は二村定一のカバー。欠くことはできない分野なのだ。

洋楽は言うまでもなくフランク永井の核であり欠くことが出来ないもの。

どちらもフランク永井という歌い手を知るには重要な音源だ。 余技どころか見方によっては本丸といえなくもない。

ただ、フランク永井という歌い手は紅白26回連続出場という最多記録(当時)を打ち立てた、歌謡界のまん真ん中に居た歌い手。
フランクが歌った、流行歌~歌謡曲を見ていく(聴いていく)ことこそ、フランク永井を知る、まず王道ではないだろうか。

日本の音楽シーンにおける功績を思うと、昭和30年から60年までの30年間、フランク永井という人がどのような歌を歌い、ヒットさせてきた、リリースしていたかを、つぶさに知ることができる手がかりとなる、今回のシングル全集はフランク永井という一歌手の歴史だけではない、また作曲家吉田正にとっても、作詩家佐伯孝夫にとっても、ビクターレコードにとっても、流行歌~歌謡曲の変遷を知る上でも、一大資料となったことは疑いの余地もない。

フランクと同時代に活躍した歌手で、今までこのような全集がリリースされたのは、私が知る限りでは美空ひばり、島倉千代子、三橋美智也、春日八郎の4名。ここにフランクが加えられたことは収まるところへやっと収まってきたのかと嬉しくも思う。
(あと、このレベルに近い全集は、江利チエミでも組まれている)

今回の全集は10枚分、それぞれ単独でも発売されている。
BOXセットは高額だから・・・と躊躇されている方でも、まずは気になる年代を1枚、という買い方・聴き方が出来るのが有難い。

BOXセットには歌唱映像を収めたDVDが1枚付属している。
過去、テレビ東京における歌唱映像が数曲程度収めれたビデオが発売されたことはあったが、フランク永井単独での歌唱映像ソフトはおそらく本邦初。

NHKに残る最古の歌唱映像と思しき、昭和38年放送の「第14回NHK紅白歌合戦」で歌った「逢いたくて」から、NHKに残る最後の歌唱映像である昭和60年放送の「第17回思い出のメロディー」での「有楽町で逢いましょう」まで全28トラック分の歌唱映像が収められている。

DVDの構成のベースは、2009年にNHK-BS2で放送された「歌伝説 フランク永井の世界」。
1部の映像テイクは、原版からではなく、「歌伝説」をそのまま2次使用(流用)しているので、一部テロップがモザイクがかかっている。
原版から使用すればクリアな映像で見られたろうに、その点は残念で仕方ない。

また、NHKに残っている映像、という関係もあり、いくつかのヒット曲は収められていない。
しようがないこととはいえ、「夜霧に消えたチャコ」「羽田発7時50分」「西銀座駅前」などが抜けているのは痛い。 前述の「歌伝説」ではテレビ東京から映像を借用し、紹介している。

「羽田発7時50分」は昭和46年放送「第22回紅白歌合戦」で歌われているのだが、NHKで映像を保存しておらず、後年視聴者(関係者)からエアチェック用の映像の提供を受け、それをアーカイブに収めるかたちで保存している。残念ながら提供された映像の保存状態が宜しくなく、特にフランクが出演している中盤の時間帯が酷いらしい。

それにしても、フランクの代表曲といえるこの3曲の歌唱映像がNHKに無いというのは半ば信じられない。

さて、このDVD、「歌伝説」を録画した人には不要かというと、そんなことは全くない。

・昭和42年放送「第18回紅白歌合戦」での「生命ある限り」
・昭和43年放送「歌まつり明治百年」における「ゴンドラの唄」「恋はやさし野辺の花よ」(共演:和泉雅子)
・昭和52年放送「ビッグショー・松尾和子」での「銀座ブルース」(競演:松尾和子, 和田弘とマヒナスターズ)
・昭和55年放送「第31回紅白歌合戦」での「恋はお洒落に」(競演:ニューホリデーガールズ)
・昭和56年放送「第13回思い出のメロディー」での「東京の屋根の下」(競演:八代亜紀)
・昭和56年放送「特集 歌謡ホール」での「無情の夢」

は番組で紹介されなかった映像である。
加えて、「歌伝説」では歌の途中までの紹介だった
・昭和59年放送「この人『フランク永井』ショー」での「My Baby's Comin' Home」
も堪能できる(ただし、「歌伝説」で流れた曲前のMCはカット)。

なおDVDでは昭和51年放送「第27回紅白歌合戦」での映像と紹介されている「東京午前三時」は、昭和57年放送「歌謡ホール」のものであり、「大阪ぐらし」は昭和55年放送「歌と笑いの大阪夏まつり」だと思われる。

DVDが単独での発売ならばともかく、あくまで特典の付属DVDであることを思えば充分な出来だろう。
まずはフランク単独での歌唱映像集が編まれたことを喜びたい。そして、次につながっていくことを祈りたい。
TBS編、テレビ東京編で映像集を作れば、代表曲の大半は映像で楽しめるのではないかと思う。

[PR]
# by hakodate-no-sito | 2016-02-24 12:52 | 歌・唄・うた | Comments(0)

わたしのデュークエイセス

「デュークエイセス CM WORKS」を聴いて、ようやくデュークエイセスへの感情が整理出来つつある。

セカンドテナー吉田一彦がデュークから去ったこと、現体制の歌声がしっくりこないことなどから、私のデュークエイセスに対する感覚は「卒業」状態である。

前者に対しては感情的に肯定し兼ねている。
吉田氏が病気で倒れたのは、先代トップテナー飯野知彦が病魔に襲われた頃だそう。
本人の強い意志で克服し、短期間で復帰したので、このころの病を知る人はそう多くないと思う。
ただ、リアルタイムで見ていて、やつれた吉田氏の姿にあきらかに何かあったのは明白だったし、その後しばらくの間、歌声に不安があった。
その後、調子は取り戻してはいる。

昨年、ふたたび病に倒れた吉田氏。本来ならば絶対安静の容態の中、デュークの仕事を強行したのだそうだ。食事も水分も摂取できないような状態でステージに立ったこと自体が奇跡、その出来不出来など問えるレベルではなかったそうだ。
そのような状態でも入っていた仕事を必死に行い、スケジュールがひと段落したところで、吉田氏は療養生活に入った。
デュークの60周年に間に合わせる、という強い意志のもと、医師からも復帰してもかまわないというお墨付きを得て、さあデュークでまた歌おう・・・と思っていても、事務所側の反応がおかしい。
スケジュールを確認してそろそろ連絡が来てもおかしくないはずなのに、よく見ると自分が出る心づもりであった仕事は代役が立てられている。
自分が出るはず、復帰のつもりだったステージは客席から見ることになって、舞台上から自分が病気で休養すると発表された。それでも最初はそれを受け入れ、いずれは復帰しデュークとして60年、65年歌うことを見据えて療養を続けようと考えていたものの、それがいつかの見込みが一向につかない。それどころか扱いすら・・・もう外堀はすっかり埋められ、もう椅子は残されていなかった。
60年近くあった居場所を失い、結局デュークから退くより選択肢が無くなってしまった。

以上が吉田氏引退の流れだ。
最もこれは吉田氏に近いサイドからの見方である。

デューク側からすると、数年来、吉田氏の体調不安はデュークにとって懸念材料であり、60周年を前に再び体調を崩した事態を重く見て、60周年で全国ツアー等大々的な展開を予定している中で、万一穴をあけるようなことがあってはならない、と吉田氏デューク引退への流れを作っていったのだと思う。
病の影響で、コーラスが今までのようにいかなくなってしまったと、谷リーダーは「徹子の部屋」で話している。そのことこそ、いちばん大きい理由なのだろう。
(ただ、傍目には疑念に思わなくもない。が、この問題は繊細なことゆえ、何とも言えない)

ただ、飯野氏の交代のときもそうだが、この決断は、どうも強引のように、非情のように感じてしまう。
だからこそ、60年歌ってくることができたともいえるし、これぞプロフェッショナルとしての矜持やクオリティを守るため保つことへの執念の賜物なのだろう。それでこそデュークエイセスともいえる。前を向いて進むための、大きな決断なのだろう。

ならば、現体制のデュークエイセスを応援していきたいかというと、私はそう言えずにいる。
谷・槇野のオリジナルメンバーと、大須賀・岩田の後発メンバーとの差が激しく、気持ちよく聴けないのだ。40代、アラカンのふたりと、八十路ふたりでは、節制がどうというレベルではなく、バランスが悪い。吉田氏の引退のことで感情的になっているとはいえ、それはそれとしてあまりにも違和感がある。

あまりにもレベルが高すぎた谷口氏、谷口氏の影に苦しみながら懸命に自分の色も少しづつ出しまろやかなデュークサウンドを模索した飯野氏の時代と比べてしまうと、なおさらに。
同じ面々が徐々に風雪にもまれて、色あせていくならばまだ見方もあるが、ハーフエイセスとなってしまっては、どう見て取ったらいいのか、私にはわからないでいる。

譜面を引き継いで、いっそ総入れ替えで新デュークエイセスをという考えは賛成できない。
デュークサウンドは、谷口(飯野、小保方、和田)・吉田・谷・槇野があってこそ、生まれたものだし、譜面上同じものをやったところで、世代的な音楽のノリもあるだろうし、往年のメンバーとの対比もあるだろうし、広い裾野で支持を受けられるとは思えない。
新たなコーラスグループがデュークに挑戦するという試みとしてならば面白いだろうが、デュークエイセスという看板を背負って歌うには、その荷は重すぎるのではないか。

いろいろ書いてきたが、デュークを「卒業」とはいっても、OBとしての意識はあるので、終焉(谷・槇野両名が去るまで)は見届けるつもりではいる。
素晴らしい歌が聴けたら、もしかしたら「復学」する可能性だってある。ただ、現状ではない。

なお吉田氏は、デュークからは引退した(させられた)もののソロ歌手として歌う道を現在模索している。
「徹子の部屋」等のメディアを見ていると誤解を受けるおそれがあるが、吉田氏は歌が唄えなくなったわけではない。
既に今夏、小さいイベントで歌い、喝采を浴びたそうだ。
ふたたび吉田氏の歌声が聴ける日を待ちたい。「女ひとり」は、デュークエイセスの歌であるが、吉田一彦の歌でもあるのだから。
[PR]
# by hakodate-no-sito | 2015-09-07 11:17 | つぶやき | Comments(4)

「父・川内康範を語る」飯沼春樹

ここに載せるのは2013年6月8日に函館市公民館で開催されたイベント「月光仮面は函館生まれ ~川内康範氏の心を辿る~」で、川内康範氏の実子・飯沼春樹氏が語ったことを、その日の深夜、私函館のシトが記憶を手繰り寄せながら記したものです。私の記憶違い等がある可能性もあり、飯沼氏が意図したニュアンス等とズレがある可能性もあります。そのあたりをご承知頂いた上で、お読みくださいますよう、お願いいたします。

--------------------------

ただいまご紹介に預かりました飯沼です。私は父とは2歳のときに別れておりまして、あまり行き来もございませんでした。父に対する思いは複雑な思いがありますので、職業の弁護士口調で淡々とお話するつもりですが、時に詰まったりするかもしれません。×時半までだから45分・・・保つかな。何とか頑張ります。

函館には祖父(康範の父。僧侶)が居て、手紙が来て「逢いたい」というので×歳(失念)のときに、当時は新幹線なんてありませんので上野から急行に乗って、青函連絡船に乗り継いで来たのが初めで、そこから20回ちょっと函館には来ておりまして、まあ縁のある土地なんです。

そして「月光仮面」というものにも私的な思い入れがありまして、今回お話を頂いて、どうしてもお力になりたいと思って、参った次第です。

父とは×歳(これも失念、小学校中学年ぐらいの年齢だったと思う)のときに、逢いたいと手紙があって大阪で逢ったのが、初めて父に会った記憶となります。
「月光仮面」が始まったとき、うちにはまだテレビがなかったんですが、じきに手に入り、見ていました。

さっきの映像を見ますと、特撮も円谷プロがやっていたものの前で、今見ると、時代の流れというか、何だかコントのようですが、当時は違和感なく、楽しんで見ていました。

まあ、あるとき母が、これを書いたのはお前の父親だよと教えてくれました。
父が、「私もこれを見るのではないか」という思いで書いているのではないかと、私に向けて書いてくれているのではないかと思った。
他にもいろいろ子ども向けの特撮ものは書いておりますが、やはり「月光仮面」。
どうしても私には「月光仮面」は特別な思い入れがあります。

父に会う前だったか、映画館で父の姿を見たこともあるんです。「月光仮面」か何かの映画があって、書斎に座っている父が1シーンだけ出てきた。最初は背中を向けていて、クルッと回って、やあと挨拶をする程度の短いものだったんですが、ああこの人が父なんだ、と。

でも、母は別れている夫の作品だから連れてって欲しいとは頼めない、継父にはなおさら。だから子どもだけでこっそり見に行ったら、あとで先生にわかって大目玉を食らいました。

父と母が初めて会ったのは昭和20年頃。戦後まもない頃です。
千人針を貰った御礼に、当時母が住んでいた福島の、今のいわきへ訪ねて来たのが最初なんです。そういうところは本当に律儀な人で。
戦争が終ってすぐの頃は、男の人は兵隊さんに行って、そのまま亡くなったりまだ帰って来なかったりして、数が少なかったんですね。結婚相手になる人が少なかった。
まあ、そういうこともあって、恋仲になって、いろいろやり取りしているうちに父がいわきまで来て、結婚ということになって、昭和23年に僕が生まれたんです。

1年ぐらいは、そのままいわきに居たんですが、文筆で身を立てたいという思いもあって、大阪の岸和田、だんじりやNHKの朝のドラマ「カーネーション」、コシノ三姉妹がモデルの、あの土地に移るんですね。丁度祖父がそこに土地を持っていまして、空き家があったんです。

その頃の話を母から聞きましたが、激しい人だったようです。
近所の子どもがうるさくて原稿が書けないと、隣の家に文句を言いに行ったり、母が饅頭が好きで、たまたま原稿料が入って、それで父が饅頭をお土産に買って帰ったそうですが、この貧乏なときに何が饅頭だと母が怒ったら、バーッとその饅頭を外に全部放り投げたり。
とにかく貧乏で、別れてから数年してからバーッと名が知れるようになって、あと数年辛抱しとけばよかった、なんて笑ったこともありました。

そうこうしているうちに、父は「やはりここじゃだめだ、東京で一旗上げたい」と上京します。
父は母にも一緒に来るように言ったそうですが、東京に行ったら住む場所すらおぼつかなくなる。岸和田に居れば、とりあえず住む場所は確保できる。それに東京に出たところで成功するとは限らない。
まあ、そう考えて母は私と残ることを決心したようです。まあ、そのときはいずれ迎えに来るという気持ちがあったようなんですが、3年も離れているうちに夫婦関係が破綻してしまって、夫婦別れということになりました。

そのとき、父から手紙を貰いました。
なるべく読まないようにしていて、ちゃんと目を通したのは亡くなった後でした。
プログラムに載せてあるのが、それです。
康覚(こうかく)と書いているのは、姓名判断で祖父がこの名前に変えろと言って来たからで、父も本名は潔なんですが、康範と変えていて。
私も変えろということだったんですが、母が断りまして、春樹のままです。

母が再婚したのはそれから●年後(注これも失念。3年だったか5年だったかと思う)です。
母は離婚して旧姓に復して、当時は選択なんて出来ませんでしたからね、それから結婚して飯沼姓になって。私の方は、子どもは離婚してもすぐ名前は変えられないんですね、家庭裁判所に行って申請を出して初めて変えられる。で、私は養子縁組手続きで川内から飯沼姓になって、今日に至っています。

継父も結婚に一度失敗していて、子どもが二人あったんですが、母親の方に引き取られまして。丁度、私のひとつ上と、ひとつ下で。近所、目と鼻の先に住んでいて、同じような年齢で自分の子どもに重なるものがあったんでしょう、それで可愛がってくれて、結婚と。

父は、飯沼の継父にも会ったことがあるようです。私をよろしくということだったんでしょう。律儀な人でしたので。
別に父は浮気して別れたわけではないので、私は恨んではいません。ですが、父には辛い思いをさせた負い目があったんでしょう、断種をしたようで、実の子どもは私一人です。

飯沼の継父は子どもを取られていますし、再婚して子どもが出来ることもなかったので、子どもは私ひとり、期待の星というプレッシャーはありました。私もまたちゃんとしないと飯沼の継父に申し訳ないという思いがありました。

母方の家がみんな大学出、高学歴で、私も大学に通えました。
父は小学校卒業で、その辺もいろいろ風あたりが強かったらしく、母もなんで、という思いがあったようです。

今は割と簡単に離婚ということが出来ます、私のところにもそういう依頼は多いです。でも、子どもは繊細なもので心に深い傷が付いたり・・・子どものことを考えて、よく考えたうえで結論を出していただきたいです。

おふくろさん騒動、あれはいろいろありました。
問題になったのは、森さんが「おふくろさん」の前に、ヴァース、語りをつけて唄っている。
その内容は、いけないボクチャンでごめんなさい、というような内容で、森さん自分のことを歌っている。
川内本人はそんな、自分が悪い子だったなんて思っていない。

川内の母は昭和19年だったか18年だったかに、随分早く亡くなっている。
まだ僧侶になってなかった祖父が「僧侶になる」と、突然見延だかどこかへ行ってしまって、いろいろ大変な思いを若い頃からされたようです。
父の生家というのが小さなお寺で、当時函館に砂山というところに乞食部落がありまして、そこにお供えものを母親が持っていったようなんです。
父は、何もせずに施しを待っているなんておかしいじゃないかと言ったそうなんです。
そうしたら、母親は「人にはみんなそれぞれ事情があって、身を落とした人もいる。そういう人たちを少しでも助けて差し上げるのが仏の道なんだ」と話したそうで、父にとってそれは随分影響のある言葉だったようです。

まあ、そういうこともあって「どういうことだ」と「話に来い」となったんですけど、森さんは怖かったらしく行かなかったらしい。
それが結局いろいろこじれて、ああいうことになった。

「おふくろさん」という歌は、世間の母の愛を唄った歌で、森さんの母親を歌った歌じゃないんです。川内はそう書いていない。

「おふくろさん」を歌ってくれるなということは法律上はそんなこと出来ません。私も弁護士ですので、その辺のことはよくわかっています。
あれは、師匠格として弟子に言ったものです。
まあ、もともと激情的なところはありましたが、歳を取って、老いも少し出てきていて、正直格好悪いことになってしまって。

あの騒動があったとき、私も知っている人からいろいろ言われました。
何とかしなくていいのか、何とかしなくていいのか、って。
でも、そのうちに父が亡くなって。

あのとき、父の奥さんは入院していて、父はひとりだった。
まあ、そういう理由も重なって、ああいうことになった。

父の葬儀は私は出ていないのですが、カメラや何かいろいろ来て、それで別の棺桶やら何やらを担いで「こっちだ!」と目を向けさせる隙に、反対側から運んだり大変だったそうです。
私の方は、まあ父の偲ぶ会を東京の●●ホテル(注・失念)で行うことにしまして、まあ、そのときに、父が生前親しくしていた亀井静香先生にお会いして、先生があの騒動のあとに父に会って話を聞いたそうです。そうしたら「俺も本当はやめたいんだよ、でも引くに引けない」と話していたそうです。

本当は誰かとりなしてくれる人がいたらよかったんですが、父もそのとき高齢で、86だがそのぐらいの歳になっていて、普通だったら「もういいじゃないか」ととりなしてくれる人がいるんですが、それぐらいになると、もう目上の人がいない。

奥様はずっと入院なさっていて、私も殆ど逢っていませんでした。
でも、父が亡くなって、本当は川内姓を名乗る誰かがいれば、と思うんですが、子どもは私一人ですので。

最初、川内康範の話に苗字が違う飯沼が出てくるのは違うんじゃないかという思いがあって、伏せて、やろうと思っていました。

妻にも実は反対されました。ああいうかたちで知られてしまった人なので、子どもや孫にいろいろあったら困ると。
でも、私は弁護士ですので、何かひとつ決断をすれば敵味方が出てくるのは仕事柄もわかっておりますので、これは。

父は今でも熱心なファンが多いようで、私が行ったことに対して、賛否両論。インターネット、古い人間で私は全然やらないんで関係ないんですが随分怒っている人がいるようで、私は見ないんですが、息子が見ていたようで、普段は口も聞かないのに、そのときばかりは優しくなりまして。
あるとき、「お父さん、おもてに出るときは気をつけた方がいいよ」なんて大真面目に言いました。
まあ、それだけ父には熱いファンがいるということで、ありがたいことだと思っております。

私はあまり父の息子だということを人には話してなくて、あの騒動のときに初めて知ったという人が随分大勢いらっしゃいました。
別に隠していたというわけではないんですが、まあ、あまり口に出して言うことはありませんでしたし、また父も息子がいるということは言わなかったみたいで、お互いにどこか遠慮しあっているようなところはありましたね。

父が亡くなって、さあどうしようとなったときに相談へ行ったのは長良さんという芸能プロダクションの社長さんです。去年だったか、もうお亡くなりになりましたが。えー水森ナントカさん、かおりさんなんかを手がけていらした方で。最初は水原弘さんのマネージャーなんかもされていたようです。

水原さんという人は、豪快で、パーっと飲んだり騒いだりしてお金ばらまくのが好きな方だったようで、そのうち借金で首が回らなくなったりして、父に助けてほしいと。
そのときに書いたのが「君こそ我が命」だったようです。

芸能界には三大プロというのか、何から何までひとつの流れで、全部自前で出来るようなところが三つありまして。長良プロの長良さんと、バーニングの周防さん、ケイダッシュの川村さん。あとはジャニーズ事務所。と、まあ、こういう流れがありまして。

長良さんは父に連れられたことがありまして、前にお会いしたことがあって知っていたんです。
それでご相談しに行ったら、「お前、親子であることをヘタに伏せたら、問い合わせが殺到して、事務所が仕事にならなくなる。それよりも、きちんと親子であることを名乗って出た方がいい」と勧められまして。それで。

森さんとはお会い、勿論しています。
森さんはどうも私が川内の息子だっていうことを知っていたようなんです。銀座に川内の息子の弁護士がいる。まあ話せばわかる普通のやつだから、話せば何とかなるんじゃないか、って。
でも、まあ来にくかったんでしょうね。

饅頭でも羊羹でもそうなんですが、父は下戸で甘党だったんですね。
暇があれば、ムシャムシャ羊羹を一本まるごとよくかじっていたようです。
糖尿…には何とか踏みとどまってなっていなかったようです。

勿論、森さんは歌えるということを大変喜んでおられました。
森さんも何とか取り成して貰えないだろうかと、長良さんにお願いしていたそうなんですが、長良さんは父の弟子のようなものですから、「おまえはすっこんでろ」と言われたら、もうそれ以上どうしようもないわけで。

父は森さんが息子のように可愛かったんだと思います。年齢的に近しいところもありますし。
だから、父にとって絶対である「おふくろさん」の歌を唄わせた。

私が「おふくろさん」の封印を解こうと思ったのは、まあこのままではいけないと思ったのもありますが、年末その人が亡くなったら、歌番組で、いろいろありますでしょう、レコード大賞、あといろいろ紅白だとか。それで唄って欲しいと思った。

紅白って、唄う歌は歌手が決めるんじゃなくてNHKが選ぶんです。で、NHKも選曲するにはギリギリで。私も計算しまして、9月の下旬ぐらいから話を進めて10月のはじめにあの記者会見ということになりました。

あの後、私のところにも二人ほど訪ねて来られた方がありました。
ご本人ではなく、母親が「おふくろさん」のファンで、あの歌が大好きでずっと歌っていたんだ、もう大事な歌なんだ、今回のことで胸を痛めていたけど本当に有難いと。

父にはいろいろ代表作がございますけれども、やはり「月光仮面」、そして歌は「おふくろさん」に尽きるんじゃないかと私は思います。

ああ、丁度時間となりましたので、これで終らせて頂きます。ありがとうございました。
[PR]
# by hakodate-no-sito | 2015-06-08 23:58 | つぶやき | Comments(0)

川内康範は函館生まれ

もう何年も前になるが「月光仮面は函館生まれ ~川内康範氏の心を辿る~」というイベントに参加したことがある。

地方の、手弁当的なイベントでしっかりしたものではなかったが、大収穫は川内の長男・飯沼春樹氏の話を聴けたこと。
これは忘れておきたくない、とその日の夜に必死にキーボードに向かい、いろいろ記しておいた。
そのメモ書きが出てきたので、ここに忘備録がわりに載せておきたい。

私が会場入りしたとき、その人はロビーのソファに座っていた。
面長のダンディな風貌は、往年の川内康範を髣髴させた。顔の輪郭もそうだが目元が特に似ている。ロビーに飾られた、昭和20年代の康範の写真と見比べると、うり二つだ。
古武士のような鋭さを持ちながら、どこかスヌーピーにも似た愛嬌もある。

これも、実は父親譲りなのだ。
康範の妻・クリスティーナが、スヌーピーに似ているからと康範を「スヌー」と呼ぶ、というエピソードが著書「生涯助っ人回想録」(集英社)に掲載されている。

ひとつの歴史が、ドラマが目前にそびえている。
感慨深いものがあった。
だが、それは序幕に過ぎなかった。

イベントの中盤に、飯沼氏の特別講演があった。
「父とは2歳のと父に対する思いは複雑な思いがありますので、弁護士口調で淡々とお話するつもりですが、時に詰まったりするかもしれません。×時半までだから45分・・・保つかな。何とか頑張ります」

こんな出だしで、飯沼氏は話し始めた。
当初淡々と関西弁混じりに話していた語り口が、話の中盤以降は質問に答えつづ展開していく形になったこともあり、ジョークも交えた柔らかめの口調になっていった。

函館には祖父(康範の父。僧侶)が居て、逢いたいというので×歳(失念)のときに上野から汽車と連絡船を乗り継いで来たのが初めで、そこから20数回来函したという縁があり、思い入れがある土地。そして「月光仮面」にも思い入れがあり、お話を頂いて、どうしてもお力になりたいと思ったのだそうだ。

飯沼氏は銀座の大きい弁護士事務所の所長である。多忙を極めている人であることは想像に難しくない。そんな人が、地方のそれも予算がまったくかかっていない小さなイベントにわざわざ足を運び、最初から最後まで会場に姿勢ひとつ崩さず居て、心の整理が付いているとは決して言えないなかで長時間父親の話をして、なおかつロビーに飾る写真に康範からの手紙まで提供するなんて、にわかには信じられない。
出来た人であることは間違いない。

「自分は飯沼姓だから」と、おふくろさん騒動の解決に動き出したときも当初親子関係を付せようし、相談を持ちかけた長良じゅんから「そんなことをしたら、かえって事務所に問い合わせが殺到して業務に支障が出る。はっきり親子と明かした方が良い」と諭されたという。
継父に対して、義理堅いものを今でも抱き続けているようで、そのことが康範と距離を置き続けたことに深い影響を与えているように私は感じた。

康範は、飯沼氏の継父とも一度逢っているのだそうだ。
別れた妻が再婚し、息子が養子縁組で引き取られることにあたって、よろしくお願いいたしますと挨拶をしたであろうことは想像に難しくない。

離婚によって息子に可愛そうな思いをさせたことを申し訳なく思い、以後「断種」し、結婚は何度もしているが、子どもは他に作らなかった康範。

生前、息子がいるということを殆ど話さなかった康範。

2歳のときに父と別れ5歳のときに離婚したので父の記憶がないという話のくだりで絶句し、目をうるませていた飯沼氏。

「月光仮面」が父が書いたものと知り、「月光仮面」は父からのメッセージだと思い、今でも思い入れを抱き続ける飯沼氏。

見知らぬ父を見たさに、親に黙って、父が出ている映画をこっそり見に行って先生から大目玉を食らった飯沼氏。

飯沼氏と康範の関係は哀しい。
でも、どこかで同じ思いを抱き続けている。

数年前、飯沼氏の会見をテレビや雑誌・新聞記事で見たとき、冷たい関係だなと私は思った。
だが、今回話を聞いていると、それはまったくの検討違いだったことがわかった。

ハッキリ「父を恨んだことはない」と語り、康範を悪く言う言葉は殆ど出なかった。
森進一に関しても、一瞬言葉を飲み込んだような瞬間があり、本当は森の川内への応対に何か思うことがあったのかもしれない。だが、何も言わず、森を立てていた。

森に限らず、胸に収めるべきことは収め、立てなければいけないものはしっかり立てる人で、そのなかで最も大きい存在が飯沼氏の継父なのだろう。

大人だと思う。
大人とはこれほどまでに哀しい思いをしなければなれないものなのだろうか。
いや、そういう思いをして育っても、こんなに立派な人に育つとは限らない。

そして、普通の人なのだと思う。
家族の話をしているときの飯沼氏の表情や声色は、ちょっぴり頑固で一徹な家族思いな父であり夫なのだろうと思わせるものがあった。

川内康範が成し得なかったことを、ご子息が代わって成し遂げた。
きっと康範は息子の幸福を心から喜んでいたのだろう。いや、そうに違いない。
だからこそ、一線を引き続けた。

冷たいどころか、これほど血の通っている関係はないだろう。
これこそ、「無償の愛」じゃないのか!
[PR]
# by hakodate-no-sito | 2015-06-08 23:56 | つぶやき | Comments(0)

徹子の部屋 京塚昌子さんをしのんで(1994年放送) 後編

------------------------------------
(1984年10月1日放送「徹子の部屋」から)

徹子:でも・・・そして、カムバックしてらしたときにね、「京塚さん、お痩せになったんじゃないかしら」ってちょっと皆思ったんだけど、既に、お倒れになるまえに、もう15キロぐらい痩せてらしたんですって。

京塚:そうですね・・・あの、15キロって・・・うーん、まぁ、もうそれだけ減ってたのね。だから、わりかた、細身・・・細身じゃないけど(笑)、それでも、まだ、もう5キロは減らさなきゃいけません。

徹子:一番お太りになってらしたときは一体何キロくらい・・・こんな失礼なこと伺って悪いけど(笑)

京塚:悪いです、フフ(笑)

徹子:ヒヒヒ、悪いかしら(笑)

京塚:だって(笑)
・・・だって大きな声じゃ言えないですけど、大きな声で言っちゃうわね(笑)
だって、一番太ってたのは「肝っ玉かあさん」の頃。一番太ってたときはね・・・(小声で)96キロよ。

徹子:96キロ!

京塚:声が大きい(笑)

徹子:お相撲、お相撲・・・

京塚:声が大きいじゃないの(笑)

徹子:96キロ(笑)

声が大きくちゃ聞けないって(笑)

徹子:そんなに大きかったの!

京塚:そんなに大きかったの。

徹子:じゃあ、やっぱり良くなかったでしょう。

京塚:そうですね。でも・・・

徹子:でもお倒れになる頃には何キロだったんですか。

京塚:その頃はちょうど70キロぐらいですよ。

徹子:そうですか。で、それからさらに減量・・・

京塚:ええ、5キロって。

徹子:5キロって。今は、じゃあ、65(キロ)。

京塚:うん。

徹子:で、それから・・・

京塚:さらに5キロ減らさなきゃダメって。

徹子:あっ、そう。
でも逆に京塚さんが痩せちゃっちゃつまらない、って。つまんないってさ、他の人が勝手なことを・・・

京塚:そうなの、みんな売れない売れないって言うんですよ。いや、でも、そう。これ以上痩せちゃ売れないわよってさ。フッフッフ(笑)
もうね、そう言うんだけどね・・・まぁ、楽なんですね、身体が。

徹子:でも、それにしても、お倒れになったときにね、週刊誌や何かが、もうね・・・ちょっと復帰は無理みたいなこと(書いたり)なんかしちゃったじゃありませんか。何か・・・

京塚:でも、やっぱり皆さんそうお思いになったんじゃないかしら。
もう、本当にね、倒れたときはそう思いましたね。


---------------------


徹子:どうも、本当にね、京塚さん、ありがとうございました。
そしてね、本当に、お元気でね、お出になって頂けて。

山岡:ね~ぇ。

徹子:で、この後新派にお出になったのかな、(新橋)演舞場にお出になって。・・・まぁ、新派じゃないんだけど懐かしい演舞場にお出になって、それでもう一度お倒れになって、それから8年間の、闘病生活に入るってことになったわけなんだけど・・・

山岡:でもねぇ、お話はしっかりしてらっしゃいますよね。

徹子:でもねぇ、御自分ではね・・・

山岡:気に入らないって。

徹子:気に入らないって。呂律がしっかりしてないって。

山岡:うーん、うん・・・

徹子:で、どんな風に、あの京塚さんがね。前に・・・でも、まさか96キロもあると思ってなかって?

山岡:思わない。あたし、80・・・何キロかは越えたかなと思ってたけど。

徹子:ただ、秘密にしてらしたけど、あのときは本当に、本当のことを言っちゃおうとお思いになったんだろうけど。

山岡:ああ・・・。

徹子:で、全部で4回出て頂いたって、さっき申しましたけど、18年前に出て戴いたときの写真をちょっと懐かしいのでね、うん・・・。

山岡:ああ、そう。わぁ・・・。

徹子:そうなの、とっても可愛いわね・・・

山岡:これは「肝っ玉かあさん」ごろかしら。

徹子:そうですね、18年前ですから、そうかと思います。
それから、この時続けてね、出て頂いたんですけど、17年前。

山岡:ああ・・・。

徹子:それから16年前。この16年前っていうのがお正月でね。

山岡:ええ、御一緒したとき?

徹子:うん。池内さん御一緒したときで。
みんなで、ものすごーく・・・

山岡:ワイワイワイワイ言ってね。

徹子:一番右側に池内さんがいらっしゃるんだけど

山岡:うん。

徹子:あ、じゃない、違う。山岡さんがいらっしゃるんだけど。

山岡:あなた、あの時着物着てらしたのよ、確か。

徹子:そう、着物着てたのね。そうなの。

山岡:面白かったですね。

徹子:面白かったわね。

山岡:皆でいろんな話して。

徹子:そして着物着るって話してたら、京塚さん洋服着てね。みんなビックリしてね。

山岡:ねぇ、皆着物だと思ってたら。

徹子:そうなの。でも首飾りでね、素敵にして、あの・・・来て下さったの。
(京塚単独で写ってる写真を見ながら)そう、こんな感じだったのね。
そして、最後の・・・って、さっきのが最後になったんですけど。
でも・・・あの、お菓子を盗み食いするところの現場を。

山岡:ええ。稽古場でね。あの・・・長いテーブルで、みんな本読みするでしょ。そうすると、たいてい、まぁ、席なんて決まっちゃうんですよね。
そうすると、なるべく、ママ(京塚の愛称)が糖尿だから甘いもの持って来ないようにしてるんだけど、まぁ若い子なんか、新人なんか「どうぞ。お菓子です」なんて来るじゃない。すると、なるべくそっちいって、ママの方に持ってこないようにさせるんだけど、でもやっぱり「京塚さんからどうぞ」ってなるでしょう。・・・パッと取って、ここ(テーブルの下)に潜って、口に入れて、パッと上がって来るの。

徹子:机の下、入っちゃうの。

山岡:早いの。だからこっちが止める暇もなく、「ママ」って言ったときには(と口に頬張って横を向く京塚のジェスチャーをして)、一口に入れちゃって・。

徹子:アハハ・・・

山岡:「食べちゃダメでしょ」「大丈夫よぉ、ひとつぐらい」なんて言っちゃってね。

徹子:アハハ・・・

山岡:やっぱり、もう、病気が食べたくなるのね、甘いもんっていうのは・・・

徹子:本当にね・・・でも随分我慢はしてらっしゃいましたけどねぇ。

山岡:でも、お酒なんか呑むと、後で薬飲まなきゃ、なんてね、なんか。注射するほど酷くなかった糖尿病でしたけど、お薬は飲んでましたよ。

徹子:うーん・・・

山岡:糖尿のお薬を。

徹子:・・・でも淋しくなるわぁ・・・ねぇ。

山岡:本当ね。こういう方、もう絶対出ないからね。勿体無くてしようがないの。

徹子:そうねぇ・・・。それから普段の生活のなかでも、サービスの良い方で。

山岡:うん!

徹子:皆さんを盛りたてて楽しくするってことがね、本当にもう、お好きでしたね。

山岡:うん・・・。

徹子:・・・だから、こんな風に・・・

山岡:惜しいですよね。

徹子:本当にね。皆さん、待ってらっしゃる方沢山いらっしゃると思うし、本人が一番ね・・・。
こんなはずじゃなかったってきっと思ってらっしゃるでしょう。

山岡:私が築地に居ますからね、(京塚が)明石町にもとお住まいだったから、よく「どうしてます」って聞かれたんですよ。

徹子:そうですか・・・。
本当に御冥福をお祈りいたします。今までありがとうございました、楽しませて頂いて。


------------------------------------


※番組中、「肝っ玉かあさん」の頃云々というのは両名の記憶違いです。

それにしても、京塚昌子最大のタブーともいえる体重の話をしているのは凄い。「徹子の部屋」ならでは。
山岡久乃も黒柳徹子も、通り一辺倒ではなく、心底故人を惜しんでいるのが伝わってきます。
新派と新劇が同じくくりで、というと一瞬えっと思いますが、杉村春子が花柳章太郎を尊敬して強く影響を受けていましたし、新派の井上正夫が新劇系人脈と組んで第三の新派を模索し、戦時時の新劇人の身元引受に一役買っていたなど、結びつきはあるのです。
山岡、京塚に縁深い石井ふく子は、新派の伊志井寛の継子。石井ふく子が手掛けているホームドラマも、実は新派のジャンルの中に存在していたのです。石井ふく子ドラマは新派の系統といっても過言ではないのです。
[PR]
# by hakodate-no-sito | 2015-05-04 00:34 | テレビ | Comments(0)