年齢不詳な若人が唄の話を中心にアレコレと・・・


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儚く美しい女の一生

私は月を眺めるのが好きだ。
いつからかは記憶に無いが、月を見ていると、ロマンに美しさ、そして儚さを感じる。
そして、ふと唄を口ずさみたくなる。
それは例えば、「お月さん今晩は」であったり、「月がとっても青いから」であったり様々であるが、一番口について出るのが

♪河岸の柳のゆきずりに 
   ふと見合わせる顔と顔
    立ち止まり 懐かしいやら 嬉しいやら
      青い月夜の 十三夜
(作詞:石松秋二 作曲:長津義司 「十三夜」より)

この唄だ。

この唄を歌っていたのは榎本美佐江という歌手。
唄の世界そのもの…というような、儚く美しい大正のおんなでした。

e0134486_515444.jpg
榎本美佐江(えのもと・みさえ)
本名榎本ミサエは大正13年3月13日、埼玉県川口市で生まれた。
父は鉄工所の職人。バクチ狂いで家庭をかえりみるような人ではなく、ミサエが物心つくころには母は父と別れ、ペンキ職人と再婚した。
ミサエは義父の実子として入籍され、やがて妹が生まれ、母が弟を身ごもっていたとき、義父が病死。ここから、ミサエの波乱万丈人生が本格的に始まる。

女手ひとつで一家4人を養う―昭和初期では並大抵のことではない。
この間、ミサエは小学校を4度転校している。

そんな状況を見かねたのか、別に暮らしていた父がミサエたちを迎えに来た。
父は再び母と再婚し、ミサエは他の兄妹同様父の義子として入籍した。
しかし、父の行いは以前と全く変わることは無く、家計の貧しさは相変わらずだった。

昭和9年、小学校5年のとき、ミサエは口減らしのため、浅草へ奉公に出される。
学校は浅草へ手続き上は移ったが、通うことは殆ど出来なかったため、卒業はしていない。

奉公先は、浅草六区にあった演芸場/帝京座・玉木座の劇場主のところだった。
勝手もとの手伝いの他に、芸事も仕込まれた。
同じ境遇の少女は3人いたが、ミサエが一番年少で小柄だった。
真冬でも足袋ひとつ履くことも許されず、両足はあかぎれだらけになり、辛さと親許恋しさに三畳の小部屋でひとり泣き崩れたことは一度や二度ではなかった。

時折、弟や妹をおぶって母が奉公先へ訪ねてきた。
ミサエは、それが嬉しくもあり、懐かしくもあり、そして胸の底がひやりとするときだった。
母の用事はいつも前借だった。
母たちの帰るのを、六区の池のほとりまで送っていくとき、ミサエは「うちに帰りたい」と母に繰り返し訴えるが、母はいつも「すまないが、我慢しておくれ」としか言わなかった。

やがて、ミサエは仲間の少女らと共に舞台へと出され、踊った。
一日5銭の小遣いが貰え、その5銭玉を握り、「五十番」という支那ソバ屋でシューマイライスを食べることが、唯一の楽しみだった。

初潮を迎えた13~14歳の頃、ミサエは金沢の別宅へと移り、そこから小松の映画館でモギリ嬢として通いで働き始める。
そのうち、奉公先の主家筋から養女にしたいという話がでた。
さすがの父親も驚き、それだけは…と断った。

だ、貧乏人の子沢山でバクチ狂いの父…となれば金は常に入用、借金はかさむ一方である。
昭和13年、日中戦争のさなか、15歳だったミサエは石川県能登で芸者に出された。
最初は舞妓だったが、唄の素養があり、器量良しだったこともあり、早い内に水揚げさせられ、芸子となった。

水揚げの相手は、親ほども年の違う呉服商だった。
明日は和倉の温泉地でいよいよ…という前日、ミサエは半日便所へ閉じこもり泣いた。
北国の便所は大きく深い、こと色街の便所は小座敷の広さだという。
いくら泣いても、親兄弟のためには私が我慢しなければ…という殊勝な娘。
なおさら逃れる道は無かった。
翌日、何一つ好きになれない男に連れられ歩いているとき、遠くの暗い海から海鳴りが聞こえた。それを聞いたとき、ミサエはただただ涙がこぼれた。

そんな能登の生活も一年を超えた頃、やっとミサエは東京の実家へ戻ることが出来た。
しかし、娘も親も会話を失い、もう実家は自分の住む場所ではなかった。
居心地の悪さを感じはじめた1ヶ月後、今度は大井町から芸者に出されることになった。
昭和15年、太平洋戦争の始まる前年のことである。

この大井での芸者時代、ミサエはお座敷で、万城目正と西條八十に見込まれ、コロムビアでテストを受けることになった。が、肝心のその日声が出なくなり、話は流れた。
後日、「十三夜」で美佐江が売り出したとき、西條は「あっ、あの時の・・・」と語ったという。

折角のチャンスがふいになった後、ミサエに落籍の話が出る。
花柳界の泥水に一向になじめないでいたミサエを、軍用飛行機の計器工場を経営していた客が救う気になったのだ。遊びなれた32歳の男だった。

「そんなにこの世界が嫌なら、やめて嫁にいきなさい」
そう言われてミサエは首を横に振った。
親兄弟のため、まだまだ稼ぐ必要があった。
しかし、その客のことは決して憎からず、また惹かれていた。

こうしてミサエは大井の芸者稼業から足を洗い、一軒屋を持たされ、女中も付けられて、ままごとのような、妾としての生活が始まった。

男は、妻子を別に、ほかに妾が二人いて、ミサエのもとには週に一度泊まりに来るような生活だった。

18歳のとき、身ごもり、男の子を出産した。
日陰の子供なので、両親の子、つまり弟として届けた。
その子は達彦と名づけた。
しかし、産後の肥立ちが悪かったのか、生後まもなく亡くなってしまった。

達彦が亡くなった後、ミサエは大村能章の日本歌謡学院へ入学し、本格的に、好きな、唄の勉強を始めるが、戦況の悪化に伴い、殆どが軍隊や工場への慰問だったという。
その中でも霞ヶ浦で、少年航空隊の前で歌った事は忘れられないと語っている。
また、この時期、テイチクが外地(ビルマ)へ送る慰問レコードを塩まさると吹き込んでいると、塩まさるが語っている。

昭和21年10月、父が心臓弁膜症のため、51歳で死去し、ミサエは母やきょうだいを引き取る。
それもあり、肉親が気を遣い、ミサエは日陰者の辛さが身にしみた。

昭和22年、テイチクから「あなたにはわからない」でレコード・デビューを果たす。
また女優としては新東宝に所属となった。
同年、映画「東宝千一夜」に出演予定だった市丸の代役として急遽出演が決まる。
このとき、持ち歌が無かった美佐江に、テイチクから渡された曲が「十三夜」だった。この唄は昭和16年、小笠原美都子の歌唱で世に出たが、さしたるヒットには繋がらなかった曲である。

この映画の宣伝のため、映画館での実演で各地で「十三夜」を歌ううちに、榎本の人気は高まり、「十三夜」は榎本のヒット曲として広く認知された。しかし、当時の持ち歌の概念などから、この曲を吹き込むことは無かった。

昭和24年にはビクターへ移籍。
これと前後する頃、大井以来の男とは別れた。
「楽ではないけど、どうにかやっていけると思う。こういう生活を続けているの辛いから、別れて下さい」、美佐江はこう言って別れを切り出した。
男とは争いになることもなく、また持ち家もそのまま渡してくれた。

昭和25年、あきれたぼういずや暁テル子らと共にハワイ興行へ。
このとき、初めて芸者姿で歌い喝采を浴びた。以後この芸者姿はトレードマークとなる。
そして、時代は朝鮮戦争による軍需景気で、お座敷ソングが流行を見せ始め、榎本の人気はさらに高まっていった。
昭和27年には鶴田浩二と歌った「弥太郎旅唄」がヒット。
翌28年には「お俊恋唄」がヒットし、初主演映画「初恋おぼこ娘」が公開。
まさに人気絶頂だった。

そんな榎本に再び転機が訪れる。
昭和29年の夏、テレビ番組の仕事で国鉄スワローズの選手だった金田正一と出会う。
美佐江に一目惚れした金田は、人の目をまったく気にせずアタックを続けた。
出会ったその日に後楽園球場へ連れて行き、試合を見せ、終わると食事へ連れて行った。
その後も映画や麻雀に度々誘った。
また、巡業先にもまめに顔を出し、衣装等の荷物はすべて金田が持って歩いた。
それが出来ないときは、長距離も気にせず電話をかけた。
誠意と真情を惜しげも無く示す金田に、今まで大事にされた記憶の無い美佐江は徐々に心を開いていった。

9歳の年齢差、美佐江の過去、金田の国籍・・・こんな問題も何となく判りあい、金田のお膳立てに乗る形で、榎本は嫁いでいった。
式は昭和30年3月28日、東京・赤坂の日枝神社で行われた。
天気は雨だったが、榎本の心は幸福で一杯だった。

人一倍淋しがり屋の金田は結婚後も美佐江が仕事を続けることは不満だった。
勿論、榎本にも契約上の問題、人気面、そして面倒を見なければいけない家族がいることは承知だったが、不満と寂しさは隠せなかった。
このこともあり、結婚3ヵ月後に榎本は芸能界を去り、家庭の人となった。

結婚後、金田は亭主関白となった。
世話女房になりきったミサエをどこでも連れて歩き、また平然とのろけもした。
やがて、おしどり夫婦と世間から評されるようになった。

野球選手の妻としての苦労は絶えず、ミサエは気が休まる日は無かった。
しかし、幸福だった。

昭和35年2月、金田は帰化し、ミサエとの婚姻届を出す。
しかし、この直後から夫婦生活にひびが入り始めた。

昭和36年、金田は愛人とのもとに男児をもうける。
のちの金田賢一である。

「どうするつもりなの?」
「お前とは別れる気は無い。このまま辛抱してくれ」
ミサエは金田を信じてひたすら耐えることにした。

翌37年、今度は金田は女児をもうけた。
賢一出産前から愛人の存在はひろく知られており、ミサエのもとには週刊誌の取材が殺到した。が、その攻勢をひたすら笑顔でかわし続けた。

昭和38年1月、ミサエは単身ハワイ旅行へ1ヶ月間出かけた。
気持ちの整理のためである。心は既に決まっていた。

その直前、ミサエのもとに、金田は息子を連れてきた。
馴染みの無い空気に赤ん坊は泣き止まなかった。
明日の試合に差し支えてはと、一晩中抱いたりおぶったりして過ごした。
「子供に罪はない」―ミサエは人知れず涙を流した。

そして、ミサエは金田の財布の中から、違う女性の写真を見つけてしまった。
「それがはっきりしたとき、もうこの人とはやっていけないと思ったんです」

帰国後、チャンスを見計らい、「別れて下さい」とミサエは言った。
金田は別れてくれるなとも言わず、もう引き止めなかった。
4月末、身の回りにものだけを運び出し、鏡台などは残したまま、家を出た。
金田はその4ヵ月後の8月、その愛人と再婚した。

慰謝料は一千万、ただしハワイ旅行代と実家をアパートへと建て替える際の資金合わせて300万をその中から金田へ返した。
―派手な生活の実情は、家庭を預かっていたミサエが誰よりもよく知っていた。

週刊誌は「石女の悲劇」と書きたて、糟糠の妻として尽くしてきたミサエに同情的で金田への風当たりは強かった。しかしミサエ自身は金田への批判等は一切しなかった。

古巣/ビクターでは、吉田正や市丸の後押しもあり、再デビューの話が持ち上がった。
女中奉公でもしてくらそうと思っていたミサエは感謝の気持ちで一杯だった。
再デビュー曲は「後追い三味線」に決まった。

同情株もあったが、ミサエの心境を歌ったかのようなこの唄は大ヒットし、歌手/榎本美佐江は見事カムバックに成功した。続いて出した「お別れさのさ」「三味線一代」もヒットした。
昭和40年には満を持して「十三夜」を吹き込んだ。

昭和40年代に入り、世に懐メロブームが起き、榎本は引っ張りだこになった。
当時、榎本のギャラは大御所である淡谷のり子らと同格だったという。
懐メロブームの沈静後は、ムリに仕事をせず、仕事は月10日程度に抑えた。

元気だった頃、榎本はこう語っている。
「歌えるかぎりは歌って、あとはなりゆきまかせ。あまり年もとらないうちに誰の迷惑にもならないうちに死にたい」
自分の半生を嘆き哀しむことは一切せず、淡々としていた。
「弱いようで、強いんです、私」

平成5年、美佐江は心臓を患う。
このときは回復し、仕事に復帰したが、平成10年に大腸ガンであることが発覚、入院。
しかし、既に病状は悪化しており、9月23日没。享年74。

元夫の金田正一のことについては
「金田ともう少し一緒に暮らしていたら、きっと憎みもしたし、嫌いにもなったと思う。そうならないうちに別れて良かったとつくづく思うの」
「街で思いがけず、(金田に)会うと何だか恥ずかしく照れちゃうのよ。『どう。元気?』って言われてもなかなか声が出ないの。…まだ好きなんですね(笑)」
…生前、こう語っている。

そんな金田だが、子供とはテレビやCM競演などを数多くこなしているが、再婚した妻の露出は極力避けた。金田なりの榎本への配慮である。

そして、最晩年、美佐江の病状を聞き、何度か見舞った。
「見舞いに行ったのは当然のことです。他人ではなかった人ですからね。病状も進んでいましたが、可愛らしい雰囲気は変わっていなかった。20分ほど、いろんな話をしました。…ワシが来たことをすごく喜んで、涙ぐんで手を伸ばしてね。今はワシにも家族がありますけど、でも、終生、大事な人でした」
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by hakodate-no-sito | 2008-02-21 05:23 | 歌・唄・うた | Comments(4)
Commented by う--でぶ at 2008-02-21 22:00 x
日本っていう国は、ほんとうに「ついこの前」まで、子供は親の所有物、女は人身売買の対象、男の浮気は甲斐性... そんな「発展途上国」だったのです。
私も「花柳界」の落とし子ですから... 彼女の人生の壮絶さは普通の人よりたぶん少しは余計に分かるつもりです。

しかし、榎本さんという人は 凛 として 貴品ある ひとでした。
精神の気高さが彼女の 貴品 を作り上げたのだ...と思います。

金田さんも... うん! 最期を看取られたのですね...
 自身の主演映画の中で「世話になっておきながら家庭も顧みず、人生最大のピンチの時も知らん顔をしたくせに」亡き元妻のデビュー曲を挿入した「どっかのだれか」とは大きな違いです。
 それだけでも榎本さんは幸福だった...と思いたいです。
Commented by hakodate-no-sito at 2008-02-21 23:29
>自身の主演映画の中で「世話になっておきながら家庭も顧みず、人生最大のピンチの時も知らん顔をしたくせに」亡き元妻のデビュー曲を挿入した「どっかのだれか」とは大きな違いです。

そうですね、生前は元妻にヘーコラしておきながら、没後「俺の下で寝た女」よばわりする「どっかのだれか」とも…。
Commented by オザケン at 2008-03-02 12:05 x
なんだか涙が出てきますね…

榎本さんは本当に立派な日本人女性という感じがしますが、今の時代に必ずしも馴染む生き方ではないかもしれませんね…

もし、あと数十年遅く生まれていたら、この方の人生は偉く変わっていたことでしょう。

90年代も歌っていたのでしょうか…?
Commented by hakodate-no-sito at 2008-03-02 23:47
オザケンさん
いらっしゃいませ<(_ _)>

>今の時代に必ずしも馴染む生き方ではないかもしれませんね…

今の人からすれば理解不能と斬って捨てられるのでしょうね。

>もし、あと数十年遅く生まれていたら、この方の人生は偉く変わっていたことでしょう。

榎本さんの「もしも…」は私には想像できません。

>90年代も歌っていたのでしょうか…?

歌ってらしたはずですよ。
テレビに出てきて歌っていたかは判りませんけれども…。
(少なくともNHKテレビには出ていなかった...かと)

新曲は昭和60年の「潮来の女」が最後だったと思います。