年齢不詳な若人が唄の話を中心にアレコレと・・・
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菊池章子のはなし(その4)
レコードデビューこそイロイロありましたが、章子の流行歌手としての活躍は極めて順調。
昭和15年には「愛馬花嫁」、そして「相呼ぶ歌」が大ヒットし、章子は一躍スターダム、「お姫様スター」「大人ものを歌う少女歌手」として引く手あまたに。
章子の稼ぎですが、この当時なんと一国の大臣よりもあったと章子が後年明かしています。
この頃、流行歌手は役所へ3円20銭払い、遊芸稼ぎ人の鑑札を貰えば無税だったのです。
(ただし、社会的扱いは最低のものでした)
このことに対し、章子の父は
「とんでもないことだ。娘が稼いでる金で家族が食っていると(世間から)思われたら、たまったものじゃない」と言い、そのため章子は自分で稼いだギャラは、人にご馳走したり、装飾品を買うなどして、すべて自分で使ったそうです。
これだけの稼ぎがあるということは、それ相応の仕事があるということ。
女学校へ行く暇など、たちまち無くなってしまい中退。
親の手前もあり、知り合いのクラシック教師の口利きで、東洋音楽学校の声楽専科へ籍を置くことになったものの、仕事が忙しく一度も授業に出席することなく、退学。
最初は成り行きで始めた流行歌手でしたが、章子もこの頃になるとプロとしての自覚が芽生え腹をくくって活動するようになっていきました。
戦火が激しくなる最中、章子も各地へ慰問に出かけ、遠くはインドシナ半島まで赴きました。
先輩歌手である伊藤久男とは「相呼ぶ歌」「機上の歌」「馬」、そして戦後21年「おしどり双六」と共唱する機会/ヒットが続き、名コンビとして活躍しました。
ディック・ミネによれば、この伊藤久男は面食いであった章子の初めての男性でもあったようです。
昭和18年1月、松竹映画『湖畔の別れ』主題歌であった「湖畔の乙女」が発売。この歌は菊池章子の戦前最大のヒットとなります。
昭和15年には「愛馬花嫁」、そして「相呼ぶ歌」が大ヒットし、章子は一躍スターダム、「お姫様スター」「大人ものを歌う少女歌手」として引く手あまたに。
章子の稼ぎですが、この当時なんと一国の大臣よりもあったと章子が後年明かしています。
この頃、流行歌手は役所へ3円20銭払い、遊芸稼ぎ人の鑑札を貰えば無税だったのです。
(ただし、社会的扱いは最低のものでした)
このことに対し、章子の父は
「とんでもないことだ。娘が稼いでる金で家族が食っていると(世間から)思われたら、たまったものじゃない」と言い、そのため章子は自分で稼いだギャラは、人にご馳走したり、装飾品を買うなどして、すべて自分で使ったそうです。
これだけの稼ぎがあるということは、それ相応の仕事があるということ。
女学校へ行く暇など、たちまち無くなってしまい中退。
親の手前もあり、知り合いのクラシック教師の口利きで、東洋音楽学校の声楽専科へ籍を置くことになったものの、仕事が忙しく一度も授業に出席することなく、退学。
最初は成り行きで始めた流行歌手でしたが、章子もこの頃になるとプロとしての自覚が芽生え腹をくくって活動するようになっていきました。
戦火が激しくなる最中、章子も各地へ慰問に出かけ、遠くはインドシナ半島まで赴きました。
先輩歌手である伊藤久男とは「相呼ぶ歌」「機上の歌」「馬」、そして戦後21年「おしどり双六」と共唱する機会/ヒットが続き、名コンビとして活躍しました。
ディック・ミネによれば、この伊藤久男は面食いであった章子の初めての男性でもあったようです。
昭和18年1月、松竹映画『湖畔の別れ』主題歌であった「湖畔の乙女」が発売。この歌は菊池章子の戦前最大のヒットとなります。
by hakodate-no-sito
| 2008-03-04 00:01
| 菊池章子