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年齢不詳な若人が唄の話を中心にアレコレと・・・


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菊池章子のはなし(その10)

菊池章子がこだわったことのひとつにステージ衣装がありました。

もともとデビューには大反対だった章子の両親が、デビュー時に立派な衣装を着させてくれたこと、これが最初でした。その衣装は当時のトップ歌手たちのそれと比べても遜色ないもので、これで章子は並み居る歌手にひるむことなく、自信を持ってステージへ出て歌うことが出来たのです。

この経験から
―流行歌手は歌がうまくて当たり前、舞台の上で人様の前で歌う以上見かけも重要なのだ。そして、そうすることで自分も自信を持って歌える―
という信念に繋がります。

莫大な収入すべてが自分で使えることもあり、章子はたちまちオシャレに傾倒していきました。
コロムビア時代、1ヶ月分の収入分をすべて衣装につぎ込んだこともあるほどでした。
そして、それは遺憾なくステージで披露され、好評を博していました。

昭和21年にテイチクへ移籍した際の契約金は当時の金額(銭・厘が健在の頃)で1万2千円、章子は全額はたいて、ミンクのコートを買いました。

当時ミンクのコートなんてとても手に入る代物ではなく、誰も着ていません。
「さすが…」と皆羨望の眼差しで章子を見ていました。

ただ、章子を妹分と可愛がっていてオシャレに一家言ある淡谷のり子には
「ミンクというのは昼間着るものじゃないの、夜着るもの」
とバッサリやられたのでした…。

当時、テイチクに所属していた歌手では章子・ベティ稲田・月丘夢路の三人はそれぞれ専属デザイナーがいて、アメリカから取り寄せた生地などで衣装を作っていました。
それだけ、ステージ衣装への関心が高かったのです。

昭和24年に「母紅梅の唄」がヒットしてからは、母物歌謡が続き、衣装は着物が多くなります。
三益愛子の母物映画の主題歌を担当し、ヒットが出たのがきっかけでそれから30曲以上、母物歌謡が続きました。

結果、"母物の菊池"のイメージが定着してしまい、章子は一時期すっかり母物を歌うのが嫌になりました。

「私はもっとストーリー性がある歌を歌いたい、歌詞を読んで情景がありありと浮かんでくるような…」

母物が連続して続くと、どうしてもマンネリに陥り、同じような曲が続いてくるのに耐えられなくなったのです。

それではと出たのが、当時人気急上昇だったスター/若尾文子主演の大映映画『舞妓物語』主題歌の「春の舞妓」でした。
この歌は母物が続いた章子の、久々の別ジャンルの曲であり、大ヒットとなります。
このときのステージ衣装は、着物に日本髪の鬘、舞台で踊りも入れて艶やかに…と関係者は考えていましたが、章子は「お願いだから踊りは勘弁して欲しい」と、その部分だけはカットとなりました。実は章子、幼少の頃踊りをならったのですがどうにも合わず苦手だったのでした。

そして、昭和29年。
章子にとっても、そして昭和歌謡界にとっても忘れられない名曲「岸壁の母」との出会いが待っていました。
by hakodate-no-sito | 2008-03-13 00:38 | 菊池章子