函館のシト的徒然日記
2021-02-13T10:17:03+09:00
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年齢不詳な若人が唄の話を中心にアレコレと・・・
Excite Blog
夢で逢いましょう
http://hakozsito.exblog.jp/29408612/
2021-02-13T10:16:00+09:00
2021-02-13T10:17:03+09:00
2021-02-13T10:17:03+09:00
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未分類
中学、高校、大学と学生時代に昭和の歌謡曲、横文字の歌に目覚めた私にとって、リアルタイムで聴いた歌と後追いで聴いた歌がないまぜになって、思い出の歌となっている。この一年ばかりで、学生時代に浴びるほど聴いた歌い手が3人も世を去ってしまった。
梓みちよ、弘田三枝子、坂本スミ子。坂本スミ子以外のふたりについては、それぞれ改めて記すので、ここでは触れない。
坂本スミ子と聞いて、まず思い出すのは「夢で逢いましょう」のエンディングで、ひとりスタジオの中で唄うモノクロキネコの映像だ。
うれしげに悲しげに楽しげに淋しげに
永六輔の詩に、これ以上ない似つかわしい曲をつけた中村八大。もしかしたら、逆かもしれないが、いずれにしたところで、これ以上ない似つかわしい詩と曲である。
そして、この完成度のすこぶる高い、誰が歌っても良い曲をさらに一段も二段も高みに上げ、表情豊かに表現し切ったのが坂本スミ子である。
宝とも子に続く、ラテンの女王として名を売り、「エル・クンバンチェロ」を名刺がわりのレパートリーとしていた歌い手が歌うには一見似つかわしくなく、ミスマッチに思えるが、御存知の通り、坂本スミ子の代表曲となり、テレビ史に残る歌声となった。
歌手坂本スミ子の魅力は、豊かな声量で情熱的に歌い上げるだけではなく、もともと声楽を習っていただけあって、抑えた声で唄うことも得意としている、その振り幅の大きさにある。
日本の声楽とラテンを下地に歌謡曲の世界でも「たそがれの御堂筋」「夜が明けて」とヒットを飛ばし、JPopの礎ともなった。
2009年に軽い脳梗塞を患って以降、リズム感に衰えが目立つようになってしまったが、声量は晩年も健在で、表現力も衰えなかったから、坂本スミ子を全うすることが出来た。その証拠ともいえるのが。2016年発売のさだまさしによる永六輔トリビュートアルバム「永縁」。夢で逢いましょうのレギュラーであり、司会も務めた黒柳徹子とともにゲスト参加し、アルバムの1曲目「夢であいましょう」を披露している。間奏で詩を朗読する黒柳徹子もそうであるが、既に高齢であったが、どこか瑞々しさを残し、良い年の重ね方をされたなぁ、と感慨深いものがあった。
私は観に行っていないが、この2016年にはブルーノート東京で東京キューバンボーイズをバックに傘寿記念ライブを行い、本人も充実感があったのか、同じようなライブをまたやりたいと熱望していたという。
坂本スミ子で惜しまれるのは、ステージシンガー、アクトレスとして生きたため、その知名度の割にレコード等を残していないということ。復刻にも恵まれているとまでは言えず、既に廃盤で入手が難しくなっているものもある。
叶うならば東芝レコード時代の音源や、60〜70年代のフィリップス音源をまとめたアルバムが欲しい。
今、こうして綴りながら、思い出すのは、高校卒業間近、五稜郭電停前をぶらつきながら聴いた「浮雲」であり、大野雄二による編曲がオリジナルよりも好きな「たそがれの御堂筋’77」であり、「夢であいましょう」なのである。
うろ覚えだが、以前、黒柳徹子が「夢で逢いましょう」について、「誰にも渡したくない、大事にしておきたい、私のかけがえの無い青春」と話していたことがある。
私にとって、坂本スミ子という歌い手は、そんな歌い手なのかもしれない。]]>
むかしひとりの歌い手がいた・・・菅美沙緒
http://hakozsito.exblog.jp/25968228/
2017-08-08T21:05:00+09:00
2017-08-08T21:59:50+09:00
2017-08-08T21:05:41+09:00
hakodate-no-sito
歌・唄・うた
5月の末に、群馬の日本シャンソン館へ行ったときのこと。
シャンソン館の展示品の中に歌手の衣装があった。
施設の創設者である芦野宏は勿論、高英男、石井好子、深緑夏代、越路吹雪、岸洋子、淡谷のり子、金子由香利…日本のシャンソンの唄い手の衣装が一堂に会していた。
どれも見ごたえのある衣装だったが、琴線にひっかかったのが、菅美沙緒という歌手の衣装。
黒を基調に家紋をあしらったドレス。
和と洋のバランスが絶妙。
お世辞にもお洒落など分からない私だが、センスの良さにグッときた。
紹介のパネルを見ると、この歌手、パリはモンマルトルの墓地に眠っているという。
日本にシャンソン歌手は多くいるが、パリが墓所というひとは聞いたことがない。
どんな人だろうと思った。
シャンソンの訳詞では名前をよく見る。戦後すぐシャンソンを歌ったリサイタルを催したひとり(他には石井好子と高英男がいる)。
水野汀子という別名義でもシャンソンの訳詞を請け負っているらしい。
そのぐらいの知識しかない。
旅先から戻って、慌ただしい日々が落ち着いた頃、ネット検索をしてみたが、私が知っている以上の情報は得られそうもない…と、落胆しかかったところで、ひとりの歌い手が見つかった。
出口美保。
関西のシャンソン界の頂点に位置する歌手なのだそうだ。
Youtubeに公開された動画を視聴して、驚いた。
なんだろう、こんな歌、聴いたことがない。
低音、それも男性のようなキー。
訥々とつぶやくかのような唄い方から一転、吼えるような唄い方へ。
私の思い抱いているシャンソン歌手の唄い方とはひと味違う。
震えがきた。
真似が出来ない。
真似したところで白けてしまうのがオチだろう。
確固たる自分の世界を築き上げている。
この人が菅美沙緒の弟子にあたる。
「菅美沙緒 訳詞の世界」というライブ盤CDを出している。どうやら、そのアルバムの中で菅美沙緒の歌声が収められているらしい。
聴いてみたい。
自分のなかでゴーサインが出た。
心を決めて、出口美保の公式サイトから問い合わせ先を見つけて、連絡した。
随分昔のアルバムなので、在庫があるか調べてから、折り返し連絡しますとのことだった。
そこからいろいろあり、留守電にまさかの出口美保さん御本人からメッセージを頂くなんて仰天モノなこともあったりして、ついにCDが届いた。
有難いことに菅美沙緒の資料も同封して頂けた。
ネット上には菅美沙緒の情報はほとんどない。
といって石井好子や芦野宏、高英男、深緑夏代があるかというとそうでもない。
去る者は日日に疎し、とはいうが、あまりだろう・・・。
折角なので、頂いた資料をもとに菅美沙緒について略歴を記してみたい。
菅 美沙緒(すが みさお)(1916~2000)
愛媛県今治市生まれ。
昭和11年、三浦環に師事。
昭和17年、日本ビクター入社。数枚のレコード吹き込みも行う。
同年3月20日、日劇小劇場にて昼夜2回の独唱会を催し、越谷達之助歌曲集「啄木によせて歌へる」を初演する。
昭和18年には帝国劇場でリサイタル開催。この頃には藤原義江との競演も行う。
戦時中も三浦環と行動を共にし、山中湖畔への疎開も共に行ったという。
戦後、「生活臭のあるものを唄いたい」とクラシックの世界からシャンソン歌手へ転身。
昭和22年、戦後では初となるシャンソン・リサイタルを開催し、昭和24年までに3度リサイタルを行い、中原淳一、岡本太郎、芦原英了らの文化人とも知己を結ぶ。このリサイタルでは、シャンソンというもの自体がさして知られておらず、譜面も殆ど出回っていない中、歌唱曲すべてをシャンソンで揃えるという偉業を成し遂げたとされる。
なお、他のシャンソン歌手だと、昭和23年に日向好子(石井好子)、昭和24年に高英男がリサイタルを開いている。
「さくらんぼ(の実る頃)の菅」の異名を取り、人気を得たが、やがて舞台出演を断ち、裏方へ回るようになる。
シャンソンの訳詩も積極的に行い、創学社や水星社から発売されたシャンソンの楽譜集には多くの日本語詩が掲載されている。
菅の名とは別に、水野汀子名義での活動もあり、主なものに水星社から発売された楽譜集「シャンソン・アルバム」(全5巻)の編纂や
岸洋子のヒット曲となった「想い出のソレンツァーラ」の日本語詩などがある。
昭和30年、東京・産経新聞社にて日本初となるシャンソン教室を開講。
その後、京都へ転居し、活動基盤を関西へ移す。
昭和37年に大阪・梅田、昭和38年には神戸新聞社・神戸文化センター、昭和40年には京都国際ホテルでそれぞれシャンソン教室を開講。
京都国際ホテルではホテルのプログラムとして毎週シャンソン・ショウも行っていたほか、シャンソンのイベント・京都パリ祭を毎年
開催していたという。
昭和46、47年に渡仏。この頃、後進の指導・育成の場としてシャンソニエ経営を模索し、店名は「ベコー」と決め、ジルベール・ベコーから店名の許可も得たが、弟子である出口美保に託す。昭和54年に大阪・梅田にて「ベコー」開店(平成29年現在も営業中)。
平成10年、長年居住した京都を引き払うことを決め、同年11月11日に区切りのリサイタルを京都府立文化芸術会館で開催。
平成12年8月14日、逝去。
墓所はパリ・モンマルトル。墓石には園家文苑の書で「さくらんぼの実る頃」の訳詩の一部が刻まれている。
出口のアルバムに収められた菅美沙緒の歌声は、最晩年、1998年のリサイタルの音源だった。
お話も歌声も、「マロニエの木蔭」「喫茶店の片隅で」で知られる往年の名歌手松島詩子を彷彿とさせる、艶と品格に溢れる、美しい歌声だった。 幻の歌い手にしてしまうには惜しい、惜しい歌声。繰り返し繰り返し聞き返した。
頂いた資料によると「絶唱」という題名のレコードを昭和49年に発売されたという。
叶うならば、入手して聴いてみたい。
そして出口美保の歌声もまた素晴らしい。
菅美沙緒のアルバムだけではなく、別のCDや比叡山延暦寺でのライブDVDも一緒にお願いしていたのだが、これらがまたべら棒に良い。
そのことについて、後日また機会を見つけて記してみたい。
シャンソンも、演歌も、フォークも、ポップスも、民謡までも、自身の色に染め上げてシャンソンとしてしまう。
ジャンルを超越した出口美保の世界。ただただ、素晴らしい。
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こころに歌を、シャンソンを
http://hakozsito.exblog.jp/25965995/
2017-05-28T20:48:00+09:00
2017-08-08T21:06:29+09:00
2017-08-07T20:51:26+09:00
hakodate-no-sito
歌・唄・うた
「大好きな歌手・高英男さんの生誕百年を記念したイベントを、日本シャンソン館で催し、資料展示もします」と主催者のSさんから伺い、群馬県は渋川市へ行って参りました。 渋川市は日本列島のまん真ん中に在ることから、にほんのへそ、と言われる場所。江戸の昔は宿場町として栄えたそうです。 シャンソン歌手の芦野宏さんの奥様が渋川の旧家の一人娘(なので婿入りされています)という縁があり、この地に日本シャンソン館が出来たのだそう。 シャンソン関係では聖地といっても良い場所で、一度伺いたいと思いながら、なかなか果たせずにいたのですが、思いがけず機会が訪れました。 創設者・芦野宏さんの想いがたっぷりつまった日本シャンソン館。 もっと大きいハコモノ施設だと思っていたのですが、住宅地の中にある高級な邸宅という趣き。実際、あの周辺は羽鳥家(芦野さんの奥様の実家)の土地なのだそう。 大歌手の道楽のようで、さにあらず。 羽鳥家の身の丈に合わせ維持できるギリギリの線を狙いながら、細部に至るまでの一流のこだわり。品の良さ、趣味の良さを感じさせる、絶妙なバランス感覚。 憧れと親しみやすさを両立させているあたり、芦野宏らしさがにじみ出ているように思えました。 時期が合えば、四季折々の花がお見事なのだそうですが、足を運んだときは、盛りはちょっと過ぎていたのかもしれませんが、それでも庭のバラのアーチには見惚れました。 西洋風の庭園内に、おそらく羽鳥家伝来のものであろう、蔵や灯籠があるのですが、それがまたミスマッチの妙というのか、不思議に調和しているのです。良いものは国境を超えるのでしょうね。 カフェも、佇まいばかりではなく、食べ物も実に美味いものが出てきます。 適正な値段と、満足の行く食べ物、雰囲気の良さ。文句なしでした。あそこなら一日中居ても飽きません。 ミュージアムで常設展示されている衣装も、コラ・ヴォケール、イベット・ジロー等のあちらの歌手のものや、勿論芦野宏さん、高英男さん、深緑夏代さん、石井好子さん、岸洋子さん、淡谷のり子さん・・・今は亡きレジェンドたちのものが並んでいるのです。 日本のシャンソン歌手の草分けのひとり、菅美沙緒さんの衣装も。 シャンソンの訳詩でしか名前を知らないのですが、叶うならば歌声も聴いてものみたいです。衣装の佇まいに、タダモノではない何かを感じ取りました。 他にも、美川憲一さんや金子由香利さんの衣装もありました。あとは今は亡きシャンソニエ銀巴里やブンの看板もありました。 今回参加したイベントに関連して、特別展示されていたのが、高さんの衣装やコンサートのポスターにレコードジャケット等。博品館劇場や帝国劇場、ヤマハホールでの淡谷のり子とのジョイントコンサートのポスターには「行きたかった・・・」と思わず独り言。 今回特別展示されていた衣装は、私にとって、とりわけ思い入れの深いものでした。 12年前、「昭和歌謡大全集」(テレビ東京)という番組でVTR紹介された、浅草・国際劇場で舞台化粧も入念にラメ入りの着物姿で颯爽と現れ「雪の降る街を」を唄われる映像を見たときから、私の高英男ファン歴は始まりました。 そのときの衣装を、目の前で見ることができたのです。 晩年の中原淳一さんが作られた衣装。 街燈のアップリケ、チョコレート等の包装用の銀紙・金紙をラメ代わりにあしらった、斬新なデザインの着物。 高英男、中原淳一という、不世出の才人の煌めきが今、自分の目の前で感じられる・・・涙ぐみそうになるのを必死で抑えました。 さらには、高さんのマネージャーのSさんとも10年ぶりにお目にかかることができ、高さんの秘話を伺うことが出来ました。 イベントライブでは、高さんの幻と思っていたあの曲や、レコードで聞いたあの音源が、サプライズで流れ、興奮しきりでした。 死ぬまで私は高さんを好きで居続けるのだろうし、何らかのかたちで高さんのことを語り継いでいくんだろう、と漠然と、でも確信的に、思えました。 イベントライブの会場。 日本シャンソン館の要といってもよいライブハウス、いやシャンソニエがまた素敵な雰囲気でした。 ここに高英男さんが出演されたときはどんなステージだったんだろう。 雪村いづみさんがここで歌ったらどれだけ映えるだろう。 芦野さん最後のステージはここだったんだよなぁ。 ・・・あれやこれやと夢想していました。 そういえば、東京MXテレビで芦野さんが案内役で放送していた「シャンソンをあなたに」でしたか、そんな番組がかつてあって、その収録はここじゃなかったでしょうか。 あの番組、ちょうど上京したかしないか、だったか私が録画機を買う少し前あたりだったかに終わってしまった覚えがあります。おぼろな記憶なので間違っているかもしれませんが。 私が歌好きの道を踏み出したとき、石井好子さんも芦野宏さんも健在。メディアでよく拝見していました。 NHKホールでの「パリ祭」で、生のステージも拝見しています。 芦野さんのアルバム「私のピアノ」「コートダジュールからの風」は未だに聴きたくなるアルバムですし、自叙伝「幸福を売る男」はサイン入りで所有しております。 追悼盤となった東芝音源のアンソロジー「ラ・メール」には私の名前もクレジットの末端に加えて頂いた覚えがあります。 深緑夏代さんもそうですが、かつて私が見ていた時代に当たり前のように居た存在がどれだけ凄いひとたちだったか、年々染み入ります。 芦野さんが亡くなる10数年前から間質性肺炎との闘病を続けていたことを知ったときには驚きました。あの柔らかな歌声の影に・・・と。 石井さん、芦野さん、深緑さん、高さん・・・もう一度ステージを、と思うことは一度や二度ではないのですが・・・どなたも、もういないのですよね。 でも、シャンソン館を見て歩いて、芦野さんの息吹はここにある、と感じました。そして、そういう場がある倖せ。 会場にいらした羽鳥館長は、芦野さんの御次男。 「コメットさん」や昭和38年の紅白歌合戦の映像で見た60年代の芦野さんの面影を勝手に重ねてしまいました。 結果、話しかけてしまい、あれやこれやと語ってしまいました。 今回、ご厚意から芦野さんのお墓詣りもさせて頂きました。 思春期の多感な時代に楽しませて頂いたこと、遺された歌声で今も楽しませて頂いていること、墓前でお伝えしてきました。 本当に楽しい、嬉しいひとときをシャンソン館で過ごせました。旅先で御一緒した皆様には感謝しかありません。 機会があれば、また伺いたいです。]]>
過ぎし日よ私の学生時代
http://hakozsito.exblog.jp/25966003/
2017-04-18T20:53:00+09:00
2017-08-07T20:56:12+09:00
2017-08-07T20:55:21+09:00
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歌・唄・うた
www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/04/13/kiji/20170413s00041000145000c.html 多くの人が、コメントを出していますが、レコードデビューが同じ年の雪村さんのコメントが沁みます。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー うそでしょう!何やってるのよ、ペギー!って言いたいです。 ひばりちゃんもチエミちゃんもあまりに早いときにお別れしちゃったから、そのあとはあなたがいるから私も歌えるって思っていました。いい意味でいつもライバル。でもペギーはとてもいつも落ち着いていてお姉ちゃんって感じで私を引っ張ってってくれました。あまりに思い出が多すぎて。ひばりちゃんやチエミちゃんにあちらで会って、一緒に楽しい第二の人生を送ってね! ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー それにしても「ペギーさんがいる」、これがどれだけ大きいことだったか。 当たり前のようでしたが、アメリカのポピュラーソング、ジャズ、ポップス、ミュージカル・ナンバー、童謡、唱歌、抒情歌、こどものうた、歌謡曲、南国土佐・・・これだけ幅広くジャンル横断で唄った歌い手がどれだけいるのか。また、その中で健在な、雪村さんらとともに最後の砦というべき人たちのひとりでした。 私が大好きな歌の時代、1950~70年代に現役で駆け抜け、過去と現在をつなぎ、あの時代の匂いと現在の感覚を同時に見せてくれる、希少な歌い手でした。 小さい頃から20年、ずっと見てきた、いることが当たり前の存在でした。 少し前のかまやつひろしの死もキツイものがありましたが、今度のペギーさんの急逝は、もはやどうしたらいいのかわからないのです。 哀しいとかショックだとか、そういうのではなく、ただ、ただ、茫然と立ち尽くしている、そんな感じなのです。]]>
サヨナラ私の愛した新派
http://hakozsito.exblog.jp/25966113/
2016-11-14T21:31:00+09:00
2017-08-07T21:35:27+09:00
2017-08-07T21:35:27+09:00
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古今俳優ばなし
新派の芝居に英さんが出てくると、芝居が引き締まるし、味わいが増す。
「ああ、新派だぁ」と思えるのです。今の劇団新派じゃなく、新派劇というひとつのジャンルだった匂いを感じさせてくれる、数少ないひと。本当はもっと英さんを新派は大事にするべきだった。新派四本柱だけじゃなく、英太郎や花柳武始らをもっと大事にするべきだった。決して優遇されたとは言えない状況で、ここまでの芸を築き上げた英さん。まだまだ観る機会はあるものと思っていたのに。新派120余年の歴史の、また哀しい一区切り。市川春猿の新派入りで、新派の女方の歴史にこれで中断なくバトンが渡されると思った矢先の訃報。落胆しています。
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ミュージックフェアと美空ひばり
http://hakozsito.exblog.jp/25966099/
2016-03-04T21:25:00+09:00
2017-08-07T21:30:23+09:00
2017-08-07T21:30:23+09:00
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歌・唄・うた
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低音の魅力を映像でもどうぞ
http://hakozsito.exblog.jp/25181435/
2016-02-24T12:52:00+09:00
2017-01-17T17:46:38+09:00
2017-01-17T13:51:35+09:00
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歌・唄・うた
このBOX、フランク永井のシングル曲(A面)をまとめたもので、CDにしてなんと10枚分。
加えて、NHKのアーカイブ映像からフランクの歌唱シーンをピックアップしてまとめたDVDが1枚付いてくる。
フランク永井のCD-BOXはこれまで幾つも発売されているが、ヒットの多さが災いしてか、結局オリジナル曲は似たり寄ったりの選曲にならざるを得ない状態が続き、カバー音源(洋楽も含む)の方がバラエティ豊かな選曲(復刻)ができるという、本末転倒というのか、何とももどかしい状況になっていた。
勿論、カバーはカバーで聴き応えがある。
フランクのカバーへのスタンスは洋楽のポピュラー歌手のそれに近い。良い歌は共有しようと、気負わず、サラッと歌うところが実に良い。だからこそ光る。
何よりもフランク永井の代表曲「君恋し」は二村定一のカバー。欠くことはできない分野なのだ。
洋楽は言うまでもなくフランク永井の核であり欠くことが出来ないもの。
どちらもフランク永井という歌い手を知るには重要な音源だ。 余技どころか見方によっては本丸といえなくもない。
ただ、フランク永井という歌い手は紅白26回連続出場という最多記録(当時)を打ち立てた、歌謡界のまん真ん中に居た歌い手。
フランクが歌った、流行歌~歌謡曲を見ていく(聴いていく)ことこそ、フランク永井を知る、まず王道ではないだろうか。
日本の音楽シーンにおける功績を思うと、昭和30年から60年までの30年間、フランク永井という人がどのような歌を歌い、ヒットさせてきた、リリースしていたかを、つぶさに知ることができる手がかりとなる、今回のシングル全集はフランク永井という一歌手の歴史だけではない、また作曲家吉田正にとっても、作詩家佐伯孝夫にとっても、ビクターレコードにとっても、流行歌~歌謡曲の変遷を知る上でも、一大資料となったことは疑いの余地もない。
フランクと同時代に活躍した歌手で、今までこのような全集がリリースされたのは、私が知る限りでは美空ひばり、島倉千代子、三橋美智也、春日八郎の4名。ここにフランクが加えられたことは収まるところへやっと収まってきたのかと嬉しくも思う。
(あと、このレベルに近い全集は、江利チエミでも組まれている)
今回の全集は10枚分、それぞれ単独でも発売されている。
BOXセットは高額だから・・・と躊躇されている方でも、まずは気になる年代を1枚、という買い方・聴き方が出来るのが有難い。
BOXセットには歌唱映像を収めたDVDが1枚付属している。
過去、テレビ東京における歌唱映像が数曲程度収めれたビデオが発売されたことはあったが、フランク永井単独での歌唱映像ソフトはおそらく本邦初。
NHKに残る最古の歌唱映像と思しき、昭和38年放送の「第14回NHK紅白歌合戦」で歌った「逢いたくて」から、NHKに残る最後の歌唱映像である昭和60年放送の「第17回思い出のメロディー」での「有楽町で逢いましょう」まで全28トラック分の歌唱映像が収められている。
DVDの構成のベースは、2009年にNHK-BS2で放送された「歌伝説 フランク永井の世界」。
1部の映像テイクは、原版からではなく、「歌伝説」をそのまま2次使用(流用)しているので、一部テロップがモザイクがかかっている。
原版から使用すればクリアな映像で見られたろうに、その点は残念で仕方ない。
また、NHKに残っている映像、という関係もあり、いくつかのヒット曲は収められていない。
しようがないこととはいえ、「夜霧に消えたチャコ」「羽田発7時50分」「西銀座駅前」などが抜けているのは痛い。 前述の「歌伝説」ではテレビ東京から映像を借用し、紹介している。
「羽田発7時50分」は昭和46年放送「第22回紅白歌合戦」で歌われているのだが、NHKで映像を保存しておらず、後年視聴者(関係者)からエアチェック用の映像の提供を受け、それをアーカイブに収めるかたちで保存している。残念ながら提供された映像の保存状態が宜しくなく、特にフランクが出演している中盤の時間帯が酷いらしい。
それにしても、フランクの代表曲といえるこの3曲の歌唱映像がNHKに無いというのは半ば信じられない。
さて、このDVD、「歌伝説」を録画した人には不要かというと、そんなことは全くない。
・昭和42年放送「第18回紅白歌合戦」での「生命ある限り」
・昭和43年放送「歌まつり明治百年」における「ゴンドラの唄」「恋はやさし野辺の花よ」(共演:和泉雅子)
・昭和52年放送「ビッグショー・松尾和子」での「銀座ブルース」(競演:松尾和子, 和田弘とマヒナスターズ)
・昭和55年放送「第31回紅白歌合戦」での「恋はお洒落に」(競演:ニューホリデーガールズ)
・昭和56年放送「第13回思い出のメロディー」での「東京の屋根の下」(競演:八代亜紀)
・昭和56年放送「特集 歌謡ホール」での「無情の夢」
は番組で紹介されなかった映像である。
加えて、「歌伝説」では歌の途中までの紹介だった
・昭和59年放送「この人『フランク永井』ショー」での「My Baby's Comin' Home」
も堪能できる(ただし、「歌伝説」で流れた曲前のMCはカット)。
なおDVDでは昭和51年放送「第27回紅白歌合戦」での映像と紹介されている「東京午前三時」は、昭和57年放送「歌謡ホール」のものであり、「大阪ぐらし」は昭和55年放送「歌と笑いの大阪夏まつり」だと思われる。
DVDが単独での発売ならばともかく、あくまで特典の付属DVDであることを思えば充分な出来だろう。
まずはフランク単独での歌唱映像集が編まれたことを喜びたい。そして、次につながっていくことを祈りたい。
TBS編、テレビ東京編で映像集を作れば、代表曲の大半は映像で楽しめるのではないかと思う。
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徹子とミフネとブルーレイ
http://hakozsito.exblog.jp/25966086/
2016-01-07T21:23:00+09:00
2017-08-07T21:24:43+09:00
2017-08-07T21:24:43+09:00
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古今俳優ばなし
フランク永井邸には自宅スタジオがあったというおはなし
http://hakozsito.exblog.jp/25966079/
2016-01-07T21:19:00+09:00
2017-08-07T21:20:48+09:00
2017-08-07T21:20:48+09:00
hakodate-no-sito
歌・唄・うた
ラストライブ 岸洋子
http://hakozsito.exblog.jp/25966061/
2015-12-07T21:11:00+09:00
2017-08-07T21:12:44+09:00
2017-08-07T21:12:44+09:00
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歌・唄・うた
1991年10月14日、東京厚生年金会館で行われた「岸洋子リサイタル'91」での歌声が収められている。病で2年間休業していた岸洋子の再起ステージだ。亡くなるおよそ1年前のうただから、ラストライブではないと思うのだが、コンサートの形態(構成演出)としてはこれが最後のものという意味で、ラストライブなのだろうか。 最小限の、でも腕利きのミュージシャンとともに奏でられる、名曲の数々。 あれだけの闘病生活、それだけでお涙頂戴の見世物になって、歌は2の次になっていたところで全く不思議じゃないのに、そういう次元にいない。歌に荒みがない。ちゃんと歌で勝負している。 会場にいたら、客席で泣いていたに違いない。 どうやったら、あんな歌が歌えるのだろう。
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希望という名の・・・
http://hakozsito.exblog.jp/25966054/
2015-11-07T21:09:00+09:00
2017-08-07T21:11:09+09:00
2017-08-07T21:11:09+09:00
hakodate-no-sito
未分類
ひとりのおんな
http://hakozsito.exblog.jp/25966084/
2015-11-05T21:21:00+09:00
2017-08-07T21:22:52+09:00
2017-08-07T21:22:52+09:00
hakodate-no-sito
古今俳優ばなし
サヨナラ日比谷公会堂
http://hakozsito.exblog.jp/25966073/
2015-10-23T23:13:00+09:00
2017-08-07T21:18:35+09:00
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hakodate-no-sito
歌・唄・うた
ふたつの「愛の讃歌」
http://hakozsito.exblog.jp/25966031/
2015-10-23T20:59:00+09:00
2017-08-07T21:02:26+09:00
2017-08-07T21:02:26+09:00
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歌・唄・うた
www.uta-net.com/movie/42573/ 私の手元にも「愛の讃歌」の音源は、エディット・ピアフと越路吹雪を筆頭にいくつもあります。 その中に、倍賞千恵子が歌う「愛の讃歌」があります。 私が知っているものでは2種類の録音があり、1種類は科白(ナレーション)の後に歌い出すもの。 どちらも、♪貴方の燃える手で私を抱きしめて…という岩谷時子の詩での歌唱なのだが、♪固く抱き合い 燃ゆる指に髪をからませながら…以降の歌詞が歌われておらず、代わりに ♪たとえ山はさけて 海はあせる時も 君の愛あれば 何をかおそれん 生命終わるときも あなたを愛したい 君の愛あれば さらに何を望まん という歌詞で歌われています。 訳詩者不詳の日本語詩とあります。 調べてみると、倍賞版はダイジェスト版のようで、ベースをもとに最初と最後を組み合わせたもののよう。 http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/09/post_d9d5.html 先日、調べものがあって図書館向けデジタル化資料送信サービスを利用して、国会図書館の資料を閲覧していたら、昭和31年発売の雑誌「知性」のシャンソン特集記事の中にこの詩が載っていたのです。 今日伝わっている詩とは、異なる部分もあったが、ほぼ同じ。 たとえ山は裂けて 海は浅(あ)せるときも 君の愛あれば 何をか恐れん たとえ世の宝は すべて失うとも 君の愛あれば 何をかさらに惜しまん 君が望めば よしや火の中 水の中でも・・・ 友を裏切り この世を捨てて世界の果てに 命終るとき 愛の世で結ばれて・・・ 君の愛あれば 何をかさらに望まん 作詩は中原淳一と記載。 ・・・高英男が歌っている「愛の讃歌」の日本語詩と違う。 いのちのある限り お前を抱きしめて この世の果てまで お前とならば 私の このいのち 悔いなく捧げよう 固きこころの 愛の誓い持ちて お前のいのち 私のいのち それはひとつさ お前のこころ 私のこころ それもひとつさ みんな同じさ お前と私 地の果てまでも 海の果てまで 空の果てまで ともに愛さん 雑誌の表記ミスでなければ、中原淳一の詩の「愛の讃歌」は2種類存在することになります。 中原淳一やシャンソンのファンや関係者は、周知のことなのかもしれませんが、思いがけない発見でした。]]>
わたしのデュークエイセス
http://hakozsito.exblog.jp/23648893/
2015-09-07T11:17:00+09:00
2015-09-08T20:00:33+09:00
2015-09-07T11:17:53+09:00
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つぶやき
セカンドテナー吉田一彦がデュークから去ったこと、現体制の歌声がしっくりこないことなどから、私のデュークエイセスに対する感覚は「卒業」状態である。
前者に対しては感情的に肯定し兼ねている。
吉田氏が病気で倒れたのは、先代トップテナー飯野知彦が病魔に襲われた頃だそう。
本人の強い意志で克服し、短期間で復帰したので、このころの病を知る人はそう多くないと思う。
ただ、リアルタイムで見ていて、やつれた吉田氏の姿にあきらかに何かあったのは明白だったし、その後しばらくの間、歌声に不安があった。
その後、調子は取り戻してはいる。
昨年、ふたたび病に倒れた吉田氏。本来ならば絶対安静の容態の中、デュークの仕事を強行したのだそうだ。食事も水分も摂取できないような状態でステージに立ったこと自体が奇跡、その出来不出来など問えるレベルではなかったそうだ。
そのような状態でも入っていた仕事を必死に行い、スケジュールがひと段落したところで、吉田氏は療養生活に入った。
デュークの60周年に間に合わせる、という強い意志のもと、医師からも復帰してもかまわないというお墨付きを得て、さあデュークでまた歌おう・・・と思っていても、事務所側の反応がおかしい。
スケジュールを確認してそろそろ連絡が来てもおかしくないはずなのに、よく見ると自分が出る心づもりであった仕事は代役が立てられている。
自分が出るはず、復帰のつもりだったステージは客席から見ることになって、舞台上から自分が病気で休養すると発表された。それでも最初はそれを受け入れ、いずれは復帰しデュークとして60年、65年歌うことを見据えて療養を続けようと考えていたものの、それがいつかの見込みが一向につかない。それどころか扱いすら・・・もう外堀はすっかり埋められ、もう椅子は残されていなかった。
60年近くあった居場所を失い、結局デュークから退くより選択肢が無くなってしまった。
以上が吉田氏引退の流れだ。
最もこれは吉田氏に近いサイドからの見方である。
デューク側からすると、数年来、吉田氏の体調不安はデュークにとって懸念材料であり、60周年を前に再び体調を崩した事態を重く見て、60周年で全国ツアー等大々的な展開を予定している中で、万一穴をあけるようなことがあってはならない、と吉田氏デューク引退への流れを作っていったのだと思う。
病の影響で、コーラスが今までのようにいかなくなってしまったと、谷リーダーは「徹子の部屋」で話している。そのことこそ、いちばん大きい理由なのだろう。
(ただ、傍目には疑念に思わなくもない。が、この問題は繊細なことゆえ、何とも言えない)
ただ、飯野氏の交代のときもそうだが、この決断は、どうも強引のように、非情のように感じてしまう。
だからこそ、60年歌ってくることができたともいえるし、これぞプロフェッショナルとしての矜持やクオリティを守るため保つことへの執念の賜物なのだろう。それでこそデュークエイセスともいえる。前を向いて進むための、大きな決断なのだろう。
ならば、現体制のデュークエイセスを応援していきたいかというと、私はそう言えずにいる。
谷・槇野のオリジナルメンバーと、大須賀・岩田の後発メンバーとの差が激しく、気持ちよく聴けないのだ。40代、アラカンのふたりと、八十路ふたりでは、節制がどうというレベルではなく、バランスが悪い。吉田氏の引退のことで感情的になっているとはいえ、それはそれとしてあまりにも違和感がある。
あまりにもレベルが高すぎた谷口氏、谷口氏の影に苦しみながら懸命に自分の色も少しづつ出しまろやかなデュークサウンドを模索した飯野氏の時代と比べてしまうと、なおさらに。
同じ面々が徐々に風雪にもまれて、色あせていくならばまだ見方もあるが、ハーフエイセスとなってしまっては、どう見て取ったらいいのか、私にはわからないでいる。
譜面を引き継いで、いっそ総入れ替えで新デュークエイセスをという考えは賛成できない。
デュークサウンドは、谷口(飯野、小保方、和田)・吉田・谷・槇野があってこそ、生まれたものだし、譜面上同じものをやったところで、世代的な音楽のノリもあるだろうし、往年のメンバーとの対比もあるだろうし、広い裾野で支持を受けられるとは思えない。
新たなコーラスグループがデュークに挑戦するという試みとしてならば面白いだろうが、デュークエイセスという看板を背負って歌うには、その荷は重すぎるのではないか。
いろいろ書いてきたが、デュークを「卒業」とはいっても、OBとしての意識はあるので、終焉(谷・槇野両名が去るまで)は見届けるつもりではいる。
素晴らしい歌が聴けたら、もしかしたら「復学」する可能性だってある。ただ、現状ではない。
なお吉田氏は、デュークからは引退した(させられた)もののソロ歌手として歌う道を現在模索している。
「徹子の部屋」等のメディアを見ていると誤解を受けるおそれがあるが、吉田氏は歌が唄えなくなったわけではない。
既に今夏、小さいイベントで歌い、喝采を浴びたそうだ。
ふたたび吉田氏の歌声が聴ける日を待ちたい。「女ひとり」は、デュークエイセスの歌であるが、吉田一彦の歌でもあるのだから。]]>
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