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わたしのデュークエイセス

「デュークエイセス CM WORKS」を聴いて、ようやくデュークエイセスへの感情が整理出来つつある。

セカンドテナー吉田一彦がデュークから去ったこと、現体制の歌声がしっくりこないことなどから、私のデュークエイセスに対する感覚は「卒業」状態である。

前者に対しては感情的に肯定し兼ねている。
吉田氏が病気で倒れたのは、先代トップテナー飯野知彦が病魔に襲われた頃だそう。
本人の強い意志で克服し、短期間で復帰したので、このころの病を知る人はそう多くないと思う。
ただ、リアルタイムで見ていて、やつれた吉田氏の姿にあきらかに何かあったのは明白だったし、その後しばらくの間、歌声に不安があった。
その後、調子は取り戻してはいる。

昨年、ふたたび病に倒れた吉田氏。本来ならば絶対安静の容態の中、デュークの仕事を強行したのだそうだ。食事も水分も摂取できないような状態でステージに立ったこと自体が奇跡、その出来不出来など問えるレベルではなかったそうだ。
そのような状態でも入っていた仕事を必死に行い、スケジュールがひと段落したところで、吉田氏は療養生活に入った。
デュークの60周年に間に合わせる、という強い意志のもと、医師からも復帰してもかまわないというお墨付きを得て、さあデュークでまた歌おう・・・と思っていても、事務所側の反応がおかしい。
スケジュールを確認してそろそろ連絡が来てもおかしくないはずなのに、よく見ると自分が出る心づもりであった仕事は代役が立てられている。
自分が出るはず、復帰のつもりだったステージは客席から見ることになって、舞台上から自分が病気で休養すると発表された。それでも最初はそれを受け入れ、いずれは復帰しデュークとして60年、65年歌うことを見据えて療養を続けようと考えていたものの、それがいつかの見込みが一向につかない。それどころか扱いすら・・・もう外堀はすっかり埋められ、もう椅子は残されていなかった。
60年近くあった居場所を失い、結局デュークから退くより選択肢が無くなってしまった。

以上が吉田氏引退の流れだ。
最もこれは吉田氏に近いサイドからの見方である。

デューク側からすると、数年来、吉田氏の体調不安はデュークにとって懸念材料であり、60周年を前に再び体調を崩した事態を重く見て、60周年で全国ツアー等大々的な展開を予定している中で、万一穴をあけるようなことがあってはならない、と吉田氏デューク引退への流れを作っていったのだと思う。
病の影響で、コーラスが今までのようにいかなくなってしまったと、谷リーダーは「徹子の部屋」で話している。そのことこそ、いちばん大きい理由なのだろう。
(ただ、傍目には疑念に思わなくもない。が、この問題は繊細なことゆえ、何とも言えない)

ただ、飯野氏の交代のときもそうだが、この決断は、どうも強引のように、非情のように感じてしまう。
だからこそ、60年歌ってくることができたともいえるし、これぞプロフェッショナルとしての矜持やクオリティを守るため保つことへの執念の賜物なのだろう。それでこそデュークエイセスともいえる。前を向いて進むための、大きな決断なのだろう。

ならば、現体制のデュークエイセスを応援していきたいかというと、私はそう言えずにいる。
谷・槇野のオリジナルメンバーと、大須賀・岩田の後発メンバーとの差が激しく、気持ちよく聴けないのだ。40代、アラカンのふたりと、八十路ふたりでは、節制がどうというレベルではなく、バランスが悪い。吉田氏の引退のことで感情的になっているとはいえ、それはそれとしてあまりにも違和感がある。

あまりにもレベルが高すぎた谷口氏、谷口氏の影に苦しみながら懸命に自分の色も少しづつ出しまろやかなデュークサウンドを模索した飯野氏の時代と比べてしまうと、なおさらに。
同じ面々が徐々に風雪にもまれて、色あせていくならばまだ見方もあるが、ハーフエイセスとなってしまっては、どう見て取ったらいいのか、私にはわからないでいる。

譜面を引き継いで、いっそ総入れ替えで新デュークエイセスをという考えは賛成できない。
デュークサウンドは、谷口(飯野、小保方、和田)・吉田・谷・槇野があってこそ、生まれたものだし、譜面上同じものをやったところで、世代的な音楽のノリもあるだろうし、往年のメンバーとの対比もあるだろうし、広い裾野で支持を受けられるとは思えない。
新たなコーラスグループがデュークに挑戦するという試みとしてならば面白いだろうが、デュークエイセスという看板を背負って歌うには、その荷は重すぎるのではないか。

いろいろ書いてきたが、デュークを「卒業」とはいっても、OBとしての意識はあるので、終焉(谷・槇野両名が去るまで)は見届けるつもりではいる。
素晴らしい歌が聴けたら、もしかしたら「復学」する可能性だってある。ただ、現状ではない。

なお吉田氏は、デュークからは引退した(させられた)もののソロ歌手として歌う道を現在模索している。
「徹子の部屋」等のメディアを見ていると誤解を受けるおそれがあるが、吉田氏は歌が唄えなくなったわけではない。
既に今夏、小さいイベントで歌い、喝采を浴びたそうだ。
ふたたび吉田氏の歌声が聴ける日を待ちたい。「女ひとり」は、デュークエイセスの歌であるが、吉田一彦の歌でもあるのだから。
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by hakodate-no-sito | 2015-09-07 11:17 | つぶやき | Comments(6)

「父・川内康範を語る」飯沼春樹

ここに載せるのは2013年6月8日に函館市公民館で開催されたイベント「月光仮面は函館生まれ ~川内康範氏の心を辿る~」で、川内康範氏の実子・飯沼春樹氏が語ったことを、その日の深夜、私函館のシトが記憶を手繰り寄せながら記したものです。私の記憶違い等がある可能性もあり、飯沼氏が意図したニュアンス等とズレがある可能性もあります。そのあたりをご承知頂いた上で、お読みくださいますよう、お願いいたします。

--------------------------

ただいまご紹介に預かりました飯沼です。私は父とは2歳のときに別れておりまして、あまり行き来もございませんでした。父に対する思いは複雑な思いがありますので、職業の弁護士口調で淡々とお話するつもりですが、時に詰まったりするかもしれません。×時半までだから45分・・・保つかな。何とか頑張ります。

函館には祖父(康範の父。僧侶)が居て、手紙が来て「逢いたい」というので×歳(失念)のときに、当時は新幹線なんてありませんので上野から急行に乗って、青函連絡船に乗り継いで来たのが初めで、そこから20回ちょっと函館には来ておりまして、まあ縁のある土地なんです。

そして「月光仮面」というものにも私的な思い入れがありまして、今回お話を頂いて、どうしてもお力になりたいと思って、参った次第です。

父とは×歳(これも失念、小学校中学年ぐらいの年齢だったと思う)のときに、逢いたいと手紙があって大阪で逢ったのが、初めて父に会った記憶となります。
「月光仮面」が始まったとき、うちにはまだテレビがなかったんですが、じきに手に入り、見ていました。

さっきの映像を見ますと、特撮も円谷プロがやっていたものの前で、今見ると、時代の流れというか、何だかコントのようですが、当時は違和感なく、楽しんで見ていました。

まあ、あるとき母が、これを書いたのはお前の父親だよと教えてくれました。
父が、「私もこれを見るのではないか」という思いで書いているのではないかと、私に向けて書いてくれているのではないかと思った。
他にもいろいろ子ども向けの特撮ものは書いておりますが、やはり「月光仮面」。
どうしても私には「月光仮面」は特別な思い入れがあります。

父に会う前だったか、映画館で父の姿を見たこともあるんです。「月光仮面」か何かの映画があって、書斎に座っている父が1シーンだけ出てきた。最初は背中を向けていて、クルッと回って、やあと挨拶をする程度の短いものだったんですが、ああこの人が父なんだ、と。

でも、母は別れている夫の作品だから連れてって欲しいとは頼めない、継父にはなおさら。だから子どもだけでこっそり見に行ったら、あとで先生にわかって大目玉を食らいました。

父と母が初めて会ったのは昭和20年頃。戦後まもない頃です。
千人針を貰った御礼に、当時母が住んでいた福島の、今のいわきへ訪ねて来たのが最初なんです。そういうところは本当に律儀な人で。
戦争が終ってすぐの頃は、男の人は兵隊さんに行って、そのまま亡くなったりまだ帰って来なかったりして、数が少なかったんですね。結婚相手になる人が少なかった。
まあ、そういうこともあって、恋仲になって、いろいろやり取りしているうちに父がいわきまで来て、結婚ということになって、昭和23年に僕が生まれたんです。

1年ぐらいは、そのままいわきに居たんですが、文筆で身を立てたいという思いもあって、大阪の岸和田、だんじりやNHKの朝のドラマ「カーネーション」、コシノ三姉妹がモデルの、あの土地に移るんですね。丁度祖父がそこに土地を持っていまして、空き家があったんです。

その頃の話を母から聞きましたが、激しい人だったようです。
近所の子どもがうるさくて原稿が書けないと、隣の家に文句を言いに行ったり、母が饅頭が好きで、たまたま原稿料が入って、それで父が饅頭をお土産に買って帰ったそうですが、この貧乏なときに何が饅頭だと母が怒ったら、バーッとその饅頭を外に全部放り投げたり。
とにかく貧乏で、別れてから数年してからバーッと名が知れるようになって、あと数年辛抱しとけばよかった、なんて笑ったこともありました。

そうこうしているうちに、父は「やはりここじゃだめだ、東京で一旗上げたい」と上京します。
父は母にも一緒に来るように言ったそうですが、東京に行ったら住む場所すらおぼつかなくなる。岸和田に居れば、とりあえず住む場所は確保できる。それに東京に出たところで成功するとは限らない。
まあ、そう考えて母は私と残ることを決心したようです。まあ、そのときはいずれ迎えに来るという気持ちがあったようなんですが、3年も離れているうちに夫婦関係が破綻してしまって、夫婦別れということになりました。

そのとき、父から手紙を貰いました。
なるべく読まないようにしていて、ちゃんと目を通したのは亡くなった後でした。
プログラムに載せてあるのが、それです。
康覚(こうかく)と書いているのは、姓名判断で祖父がこの名前に変えろと言って来たからで、父も本名は潔なんですが、康範と変えていて。
私も変えろということだったんですが、母が断りまして、春樹のままです。

母が再婚したのはそれから●年後(注これも失念。3年だったか5年だったかと思う)です。
母は離婚して旧姓に復して、当時は選択なんて出来ませんでしたからね、それから結婚して飯沼姓になって。私の方は、子どもは離婚してもすぐ名前は変えられないんですね、家庭裁判所に行って申請を出して初めて変えられる。で、私は養子縁組手続きで川内から飯沼姓になって、今日に至っています。

継父も結婚に一度失敗していて、子どもが二人あったんですが、母親の方に引き取られまして。丁度、私のひとつ上と、ひとつ下で。近所、目と鼻の先に住んでいて、同じような年齢で自分の子どもに重なるものがあったんでしょう、それで可愛がってくれて、結婚と。

父は、飯沼の継父にも会ったことがあるようです。私をよろしくということだったんでしょう。律儀な人でしたので。
別に父は浮気して別れたわけではないので、私は恨んではいません。ですが、父には辛い思いをさせた負い目があったんでしょう、断種をしたようで、実の子どもは私一人です。

飯沼の継父は子どもを取られていますし、再婚して子どもが出来ることもなかったので、子どもは私ひとり、期待の星というプレッシャーはありました。私もまたちゃんとしないと飯沼の継父に申し訳ないという思いがありました。

母方の家がみんな大学出、高学歴で、私も大学に通えました。
父は小学校卒業で、その辺もいろいろ風あたりが強かったらしく、母もなんで、という思いがあったようです。

今は割と簡単に離婚ということが出来ます、私のところにもそういう依頼は多いです。でも、子どもは繊細なもので心に深い傷が付いたり・・・子どものことを考えて、よく考えたうえで結論を出していただきたいです。

おふくろさん騒動、あれはいろいろありました。
問題になったのは、森さんが「おふくろさん」の前に、ヴァース、語りをつけて唄っている。
その内容は、いけないボクチャンでごめんなさい、というような内容で、森さん自分のことを歌っている。
川内本人はそんな、自分が悪い子だったなんて思っていない。

川内の母は昭和19年だったか18年だったかに、随分早く亡くなっている。
まだ僧侶になってなかった祖父が「僧侶になる」と、突然見延だかどこかへ行ってしまって、いろいろ大変な思いを若い頃からされたようです。
父の生家というのが小さなお寺で、当時函館に砂山というところに乞食部落がありまして、そこにお供えものを母親が持っていったようなんです。
父は、何もせずに施しを待っているなんておかしいじゃないかと言ったそうなんです。
そうしたら、母親は「人にはみんなそれぞれ事情があって、身を落とした人もいる。そういう人たちを少しでも助けて差し上げるのが仏の道なんだ」と話したそうで、父にとってそれは随分影響のある言葉だったようです。

まあ、そういうこともあって「どういうことだ」と「話に来い」となったんですけど、森さんは怖かったらしく行かなかったらしい。
それが結局いろいろこじれて、ああいうことになった。

「おふくろさん」という歌は、世間の母の愛を唄った歌で、森さんの母親を歌った歌じゃないんです。川内はそう書いていない。

「おふくろさん」を歌ってくれるなということは法律上はそんなこと出来ません。私も弁護士ですので、その辺のことはよくわかっています。
あれは、師匠格として弟子に言ったものです。
まあ、もともと激情的なところはありましたが、歳を取って、老いも少し出てきていて、正直格好悪いことになってしまって。

あの騒動があったとき、私も知っている人からいろいろ言われました。
何とかしなくていいのか、何とかしなくていいのか、って。
でも、そのうちに父が亡くなって。

あのとき、父の奥さんは入院していて、父はひとりだった。
まあ、そういう理由も重なって、ああいうことになった。

父の葬儀は私は出ていないのですが、カメラや何かいろいろ来て、それで別の棺桶やら何やらを担いで「こっちだ!」と目を向けさせる隙に、反対側から運んだり大変だったそうです。
私の方は、まあ父の偲ぶ会を東京の●●ホテル(注・失念)で行うことにしまして、まあ、そのときに、父が生前親しくしていた亀井静香先生にお会いして、先生があの騒動のあとに父に会って話を聞いたそうです。そうしたら「俺も本当はやめたいんだよ、でも引くに引けない」と話していたそうです。

本当は誰かとりなしてくれる人がいたらよかったんですが、父もそのとき高齢で、86だがそのぐらいの歳になっていて、普通だったら「もういいじゃないか」ととりなしてくれる人がいるんですが、それぐらいになると、もう目上の人がいない。

奥様はずっと入院なさっていて、私も殆ど逢っていませんでした。
でも、父が亡くなって、本当は川内姓を名乗る誰かがいれば、と思うんですが、子どもは私一人ですので。

最初、川内康範の話に苗字が違う飯沼が出てくるのは違うんじゃないかという思いがあって、伏せて、やろうと思っていました。

妻にも実は反対されました。ああいうかたちで知られてしまった人なので、子どもや孫にいろいろあったら困ると。
でも、私は弁護士ですので、何かひとつ決断をすれば敵味方が出てくるのは仕事柄もわかっておりますので、これは。

父は今でも熱心なファンが多いようで、私が行ったことに対して、賛否両論。インターネット、古い人間で私は全然やらないんで関係ないんですが随分怒っている人がいるようで、私は見ないんですが、息子が見ていたようで、普段は口も聞かないのに、そのときばかりは優しくなりまして。
あるとき、「お父さん、おもてに出るときは気をつけた方がいいよ」なんて大真面目に言いました。
まあ、それだけ父には熱いファンがいるということで、ありがたいことだと思っております。

私はあまり父の息子だということを人には話してなくて、あの騒動のときに初めて知ったという人が随分大勢いらっしゃいました。
別に隠していたというわけではないんですが、まあ、あまり口に出して言うことはありませんでしたし、また父も息子がいるということは言わなかったみたいで、お互いにどこか遠慮しあっているようなところはありましたね。

父が亡くなって、さあどうしようとなったときに相談へ行ったのは長良さんという芸能プロダクションの社長さんです。去年だったか、もうお亡くなりになりましたが。えー水森ナントカさん、かおりさんなんかを手がけていらした方で。最初は水原弘さんのマネージャーなんかもされていたようです。

水原さんという人は、豪快で、パーっと飲んだり騒いだりしてお金ばらまくのが好きな方だったようで、そのうち借金で首が回らなくなったりして、父に助けてほしいと。
そのときに書いたのが「君こそ我が命」だったようです。

芸能界には三大プロというのか、何から何までひとつの流れで、全部自前で出来るようなところが三つありまして。長良プロの長良さんと、バーニングの周防さん、ケイダッシュの川村さん。あとはジャニーズ事務所。と、まあ、こういう流れがありまして。

長良さんは父に連れられたことがありまして、前にお会いしたことがあって知っていたんです。
それでご相談しに行ったら、「お前、親子であることをヘタに伏せたら、問い合わせが殺到して、事務所が仕事にならなくなる。それよりも、きちんと親子であることを名乗って出た方がいい」と勧められまして。それで。

森さんとはお会い、勿論しています。
森さんはどうも私が川内の息子だっていうことを知っていたようなんです。銀座に川内の息子の弁護士がいる。まあ話せばわかる普通のやつだから、話せば何とかなるんじゃないか、って。
でも、まあ来にくかったんでしょうね。

饅頭でも羊羹でもそうなんですが、父は下戸で甘党だったんですね。
暇があれば、ムシャムシャ羊羹を一本まるごとよくかじっていたようです。
糖尿…には何とか踏みとどまってなっていなかったようです。

勿論、森さんは歌えるということを大変喜んでおられました。
森さんも何とか取り成して貰えないだろうかと、長良さんにお願いしていたそうなんですが、長良さんは父の弟子のようなものですから、「おまえはすっこんでろ」と言われたら、もうそれ以上どうしようもないわけで。

父は森さんが息子のように可愛かったんだと思います。年齢的に近しいところもありますし。
だから、父にとって絶対である「おふくろさん」の歌を唄わせた。

私が「おふくろさん」の封印を解こうと思ったのは、まあこのままではいけないと思ったのもありますが、年末その人が亡くなったら、歌番組で、いろいろありますでしょう、レコード大賞、あといろいろ紅白だとか。それで唄って欲しいと思った。

紅白って、唄う歌は歌手が決めるんじゃなくてNHKが選ぶんです。で、NHKも選曲するにはギリギリで。私も計算しまして、9月の下旬ぐらいから話を進めて10月のはじめにあの記者会見ということになりました。

あの後、私のところにも二人ほど訪ねて来られた方がありました。
ご本人ではなく、母親が「おふくろさん」のファンで、あの歌が大好きでずっと歌っていたんだ、もう大事な歌なんだ、今回のことで胸を痛めていたけど本当に有難いと。

父にはいろいろ代表作がございますけれども、やはり「月光仮面」、そして歌は「おふくろさん」に尽きるんじゃないかと私は思います。

ああ、丁度時間となりましたので、これで終らせて頂きます。ありがとうございました。
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by hakodate-no-sito | 2015-06-08 23:58 | つぶやき | Comments(0)

川内康範は函館生まれ

もう何年も前になるが「月光仮面は函館生まれ ~川内康範氏の心を辿る~」というイベントに参加したことがある。

地方の、手弁当的なイベントでしっかりしたものではなかったが、大収穫は川内の長男・飯沼春樹氏の話を聴けたこと。
これは忘れておきたくない、とその日の夜に必死にキーボードに向かい、いろいろ記しておいた。
そのメモ書きが出てきたので、ここに忘備録がわりに載せておきたい。

私が会場入りしたとき、その人はロビーのソファに座っていた。
面長のダンディな風貌は、往年の川内康範を髣髴させた。顔の輪郭もそうだが目元が特に似ている。ロビーに飾られた、昭和20年代の康範の写真と見比べると、うり二つだ。
古武士のような鋭さを持ちながら、どこかスヌーピーにも似た愛嬌もある。

これも、実は父親譲りなのだ。
康範の妻・クリスティーナが、スヌーピーに似ているからと康範を「スヌー」と呼ぶ、というエピソードが著書「生涯助っ人回想録」(集英社)に掲載されている。

ひとつの歴史が、ドラマが目前にそびえている。
感慨深いものがあった。
だが、それは序幕に過ぎなかった。

イベントの中盤に、飯沼氏の特別講演があった。
「父とは2歳のと父に対する思いは複雑な思いがありますので、弁護士口調で淡々とお話するつもりですが、時に詰まったりするかもしれません。×時半までだから45分・・・保つかな。何とか頑張ります」

こんな出だしで、飯沼氏は話し始めた。
当初淡々と関西弁混じりに話していた語り口が、話の中盤以降は質問に答えつづ展開していく形になったこともあり、ジョークも交えた柔らかめの口調になっていった。

函館には祖父(康範の父。僧侶)が居て、逢いたいというので×歳(失念)のときに上野から汽車と連絡船を乗り継いで来たのが初めで、そこから20数回来函したという縁があり、思い入れがある土地。そして「月光仮面」にも思い入れがあり、お話を頂いて、どうしてもお力になりたいと思ったのだそうだ。

飯沼氏は銀座の大きい弁護士事務所の所長である。多忙を極めている人であることは想像に難しくない。そんな人が、地方のそれも予算がまったくかかっていない小さなイベントにわざわざ足を運び、最初から最後まで会場に姿勢ひとつ崩さず居て、心の整理が付いているとは決して言えないなかで長時間父親の話をして、なおかつロビーに飾る写真に康範からの手紙まで提供するなんて、にわかには信じられない。
出来た人であることは間違いない。

「自分は飯沼姓だから」と、おふくろさん騒動の解決に動き出したときも当初親子関係を付せようし、相談を持ちかけた長良じゅんから「そんなことをしたら、かえって事務所に問い合わせが殺到して業務に支障が出る。はっきり親子と明かした方が良い」と諭されたという。
継父に対して、義理堅いものを今でも抱き続けているようで、そのことが康範と距離を置き続けたことに深い影響を与えているように私は感じた。

康範は、飯沼氏の継父とも一度逢っているのだそうだ。
別れた妻が再婚し、息子が養子縁組で引き取られることにあたって、よろしくお願いいたしますと挨拶をしたであろうことは想像に難しくない。

離婚によって息子に可愛そうな思いをさせたことを申し訳なく思い、以後「断種」し、結婚は何度もしているが、子どもは他に作らなかった康範。

生前、息子がいるということを殆ど話さなかった康範。

2歳のときに父と別れ5歳のときに離婚したので父の記憶がないという話のくだりで絶句し、目をうるませていた飯沼氏。

「月光仮面」が父が書いたものと知り、「月光仮面」は父からのメッセージだと思い、今でも思い入れを抱き続ける飯沼氏。

見知らぬ父を見たさに、親に黙って、父が出ている映画をこっそり見に行って先生から大目玉を食らった飯沼氏。

飯沼氏と康範の関係は哀しい。
でも、どこかで同じ思いを抱き続けている。

数年前、飯沼氏の会見をテレビや雑誌・新聞記事で見たとき、冷たい関係だなと私は思った。
だが、今回話を聞いていると、それはまったくの検討違いだったことがわかった。

ハッキリ「父を恨んだことはない」と語り、康範を悪く言う言葉は殆ど出なかった。
森進一に関しても、一瞬言葉を飲み込んだような瞬間があり、本当は森の川内への応対に何か思うことがあったのかもしれない。だが、何も言わず、森を立てていた。

森に限らず、胸に収めるべきことは収め、立てなければいけないものはしっかり立てる人で、そのなかで最も大きい存在が飯沼氏の継父なのだろう。

大人だと思う。
大人とはこれほどまでに哀しい思いをしなければなれないものなのだろうか。
いや、そういう思いをして育っても、こんなに立派な人に育つとは限らない。

そして、普通の人なのだと思う。
家族の話をしているときの飯沼氏の表情や声色は、ちょっぴり頑固で一徹な家族思いな父であり夫なのだろうと思わせるものがあった。

川内康範が成し得なかったことを、ご子息が代わって成し遂げた。
きっと康範は息子の幸福を心から喜んでいたのだろう。いや、そうに違いない。
だからこそ、一線を引き続けた。

冷たいどころか、これほど血の通っている関係はないだろう。
これこそ、「無償の愛」じゃないのか!
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by hakodate-no-sito | 2015-06-08 23:56 | つぶやき | Comments(0)

東京の休日

半世紀以上前の日本映画に、「東京の休日」という作品があります。
主演は山口淑子。
結婚のため、芸能界を去ることになった彼女の引退記念作品です。

どうということのない映画ですが、さすがに一世を風靡をした伝説的スター女優を送り出すだけあって、当時の東宝の人気スターがひっきりなしに顔を出しています。

往年の娯楽映画に付きものの歌のシーンも、山口淑子本人を筆頭に、越路吹雪、宮城まり子、雪村いづみ・・・と、いずれも名を遺す面々。
雪村いづみは「チャイナ・ナイト」(レコード未吹き込みだったはず。歌声もビジュアルも太鼓判)。
宮城まり子は「かまくら」(この曲は去年発売された宮城のCD-BOXに収められています)
越路吹雪は・・・何でしたか、民謡だったか俗謡だったか、その辺りでした(越路といえばシャンソンですが、こういう洋楽調のアレンジで和モノを歌うことも当時の音楽シーンの流れでやっていて、これがまた艶っぽいのです)。

山口淑子はというと、「夜来香」。
この映画を初めて見た時、「ホンモノが唄っている」といたく感動したことを覚えています。
世代的なものなのか、関心の度合いの関係なのか、唄う山口淑子の姿をあまり知らない身には、彼女が唄う姿というと、サヨナラ日劇での不調気味な「蘇州夜曲」と、この映画での「夜来香」なのです。

渡辺はま子やテレサ・テン、胡美芳・・・といった面々の歌声も耳に残っていますし、どれも大好きですが、やはり「夜来香」というと山口淑子の歌声が一番に浮かんできます。
昭和の歌の歴史のなかでも、ひときわ輝き、また時代の流れに翻弄された、唄う映画女優・山口淑子。李香蘭。
昨年の田端義夫の訃報、そして山口淑子の死。
これでとうとうあの時代の、戦前・戦中・戦後の大スターが皆鬼籍に入ったということになるのでしょうか。

♪つきぬ想い出の 花は夜来香
 恋の夜来香
(日本語詩:佐伯孝夫)

合掌。
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by hakodate-no-sito | 2014-09-14 10:35 | つぶやき | Comments(0)

夏の思い出

夏がくれば 思い出す
はるかな尾瀬 遠い空

日本のスタンダードといっても過言じゃない曲「夏の思い出」。
65年前にNHKラジオでこの歌をうたい、世に送り出したのがシャンソン歌手の石井好子でした。
今日7月17日は彼女の祥月命日。
亡くなって4年になります。
随分月日が経ったようにも、つい最近のような気もします。
この季節になると、パリ祭の宣伝でメディアへ積極的に顔を出していたことを思い出します。
1ヶ月で「徹子の部屋」「スタジオパークからこんにちは」と続けて出られたのは2008年の夏だったように思います。
マイクを握って唄ったのは、この年が最後でした。
2009年の「パリ祭」、美しい銀髪となって、悠然と挨拶に現れた石井好子。
唄うことは叶いませんでした。
本当はステージを歩くのも精一杯だったのだと思います。
それでも、身体の辛さをおくびにも出さず、美しい笑みを湛えて、ステージに立った彼女。
もう一度、観たい人です。

まなこつむれば なつかしい
はるかな尾瀬 遠い空

2年前、制作のお手伝いをした、追悼盤「LE GONDOLIER」を聴きながら。
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by hakodate-no-sito | 2014-07-17 10:38 | つぶやき | Comments(0)

花の素顔

読みたい本が立て続けに手に入りました。
手に入らないときは全然なので、やはり流れというものは、あるのでしょうね。
川口松太郎の「役者 ー 小説花柳章太郎」、獅子文六の「箱根山」も読み終えたので、次は舟橋聖一の「花の素顔」に行きます。

「花の素顔」というと、近年メディアに再び顔を出し、歌声を披露している安藤まり子に故・藤山一郎が唄った、美しい服部メロディーを思い出します。
こちらは舟橋の小説が映画化された際の主題歌にあたります。
作詩西條八十 作曲服部良一。
安藤まり子のおかげで再び耳にする機会が増え、本当に嬉しいです。

そのB面で同じく映画主題歌だった「能里子の唄」。
こちらも西條-服部が手掛けた、オーソドックスな流行歌の名作。全盛期の二葉あき子による歌唱です。

舟橋聖一の「白い魔魚」という、こちらも発表された昭和30年代当時大人気を博し、有馬稲子主演で映画化された作品があるのですが、チラリとその頃の流行歌、劇場公演についての描写があります。大メジャーどころではなく、テイチクで吹き込みをしていた頃の楠トシエの歌だったところをみると結構流行歌もお好みではなかったのかと想像しています。

一言居士で、独特の感性を持っていた舟橋聖一。
その舟橋が吹き込みに立ち会い、絶賛したというのが、「能里子の唄」という歌。
舟橋好き、二葉好き、服部好きの私、このエピソードだけでご飯三杯はいけそうです。

と、いろいろと考えを膨らませることはあっても、全然見つけられなかった「花の素顔」の原作本。
先日たまたまAmazonを覗いたらマーケットプレイスに出品されていて、その出品者も長いことお世話になっている古本屋のブックダイバーさんだったという、なんとも不思議な縁で、我が家へ。

こういう縁を感じさせることがままあるから、古本って好きです。
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by hakodate-no-sito | 2014-06-12 09:35 | つぶやき | Comments(0)

磯野家二代

声優の永井一郎氏が、平成26(2014)年1月27日未明、虚血性心疾患で、急逝しました。82歳でした。
「サザエさん」45周年という節目の年に訪れた予期せぬ訃報、いえ年齢を考えればその日は近いことはわかっていました。それでも、こんな急な形で襲って来るとは、想像しておりませんでした。
「サザエさん」に限らず、多くの作品に出演し続けた、声優界の至宝の死。残念でなりません。

2月3日の告別式(青山葬儀場)では、加藤みどりら磯野家の面々が弔辞を読むという話を聞き、脳裏に浮かんだのは、先代カツオ役・高橋和枝への、波平役・永井一郎の弔辞でした。

高橋和枝のことをふり返りつつ、この弔辞を反芻してみたいと思います。

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『カツオ、親より先に行く奴があるか』

そんなことをつぶやいてみても、ただ空しいばかりです。
和枝さんがスタジオに来られなくなって、口には出さなかったけれど、みんないつかはこの時が来ることを覚悟していた筈です。
でも昨年、「サザエさん」三十周年記念パーティーに出席なさった貴女のお元気な笑顔からは、こんなに早くお別れが来るとは思いもよりませんでした。

昨日、友人の一人からFAXが入りました。
「まだまだお若い。人生これからだったでしょうに。ショックです」とありました。
日本中が悲しんでいます。

三十年以上も昔、まだ三十代だった貴女は、米テレビ番組の吹き替えで尾羽打ち枯らした元女優の役を静かに演じました。そして元の作品よりずっと良い作品にしてしまいました。すごい人だと思ったものです。

「サザエさん」ではどんな時も、元気いっぱいでした。
貴女が珍しく遅刻していらっしゃった日のことを強く覚えています。「サザエさん」録音日のその朝、あなたは手を骨折し、病院に行ってからスタジオ入りなさいました。声が響いて痛かったに違いありません。出演仲間に台本をめくってもらいながら、でも、お声は元気いっぱいのカツオでした。視聴者の皆さんは何も気付かなかったことでしょう。

あなたは決して泣きごとをおっしゃいませんでした。
まじめで一所懸命。大ベテランでありながら、いつも初心に立ちかえってらっしゃいました。
そして何より「サザエさん」と「カツオ」を愛してらっしゃいました。

私たちはこれからも「サザエさん」を続けて行きます。
「カツオ」の後継者も頑張っています。

貴女の立派なお仕事は、御家族の誇りとなり、支えとなって行くことでしょう。

美しい生き方でした。
そして沢山の感動をありがとう。おやすみなさい、和枝さん。

『カツオ、桜が咲いたよ、散歩に行かんか』

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平成11(1999)年3月27日、平安祭典・高円寺会館(東京都杉並区)での弔辞でした。

今、読み返していて、涙が止まりません。
簡潔にして明快な弔辞。
短い中に紹介されたエピソードから、高橋和枝という人となりが浮かび上がってくるようです。
カツオの後任である富永みーなのことにも触れているところに、永井一郎の人柄が伺えます。
このときから15年が経過していることに、時の流れの早さを感じます。
改めて、永井一郎の死が惜しまれてやみません。

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1998年5月17日放送分の「サザエさん」から、カツオ役が変わりました。
国民的アニメ「サザエさん」もう一人の主役とも言うべきカツオ役の変更は当時大きな話題となり、新聞でも取り上げられる程でした。

亡くなる約10年前から患っていた骨髄性異形成症候群による体調不良のため、98年2月以降の収録は病院からの収録参加でした。
車椅子でも大丈夫な専用スタジオで別録りをしましょうかというスタッフからの申し出にも「そういうものじゃない。皆一緒じゃないと流れが途切れます。いい作品は出来ません」と辞退。
病躯を押してのスタジオ通いでした。

今でも「サザエさん」は、年数回休みがあるものの、原則毎週木曜の11時から14時頃までで、収録が行われているそうです。別録りはありません。必ず出演者はスタジオにいます。録り溜めも原則しません。

二代目ワカメ役の野村道子も、参加当初そのスタイルに驚き、他のメンバーのようにスタジオで食事をしたり世間話をする余裕を持つまでしばらくかかったと話しています。
また、初代マスオ役の近石真介が降板したのは地方巡業を含めた舞台出演との兼ね合いがつかなくなったからだという説があります。
2009年にフネ役の麻生美代子が腸閉塞で入院した際には、1週のみ急遽谷育子がフネ役として招聘されています。
例外としてタラオ役の貴家堂子は、3回病室へテープレコーダーを持って来て貰い、録音で参加したことがあるそうです。

スタジオに着いて、出演者に台本が手渡され、調節を兼ねた1話分のテスト(リハーサル)を行った後に、3話(放送1回分)を一気に収録。
しかし、4月末から高熱が続くなどし、とうとう収録への参加は叶わなくなりました。
録音・演出担当の岡本和(故人)は高橋カツオの参加を希望し、収録直前まで待ち続けましたが、高橋の病状はそれを許さず、看病していた高橋の長女から「これ以上は見ていて無理だと思います。勘弁して下さい」と連絡が入り、1969年12月28日放送分(第12回)以来担当し続けていた「サザエさん」からの降板と相成りました。このとき、ウキエ役の富永みーながカツオ役に抜擢され、2014年現在までカツオ役を担当しています。

1998年10月末、お台場のホテルで開かれた「サザエさん」三十周年パーティーには、病状が小康を得ていたことから高橋も参加が叶いました。
車椅子で登壇し、「磯野カツオただいま戻って参りました。御迷惑をお掛けしました」と、持ち前のサービス精神を発揮させ、カツオ声で挨拶。会場は拍手と歓声、涙につつまれました。
公の場に姿を現したのは、これが最期となりました。

入院中も、前向きに「病気を治して、またカツオをやりたい」と闘病し続け、亡くなる数日前にも「今度新しいセーターを買ってあげるわね」と長男に話しかけるなど、家族への愛情・仕事への情熱を持ち続けていたそうです。

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声優業というものも辛いもので、声の仕事をしない俳優ならば他で補えますが、声優には喉の不調は命取り。
永井一郎も癌の手術後、しばらくの間声が出にくくなり、引退を考えたこともあったそうです。
心配した若い声優仲間から飲み会に誘われて、ワーワーと騒いでいるとき、居合わせた人から「声、出てますよ」と指摘。それから数日は声がよく出たものの、また同じ状態に戻り、呑んだら声が出た。
以来収録の際には、愛飲している芋焼酎を自参するようになったそうです。

同じ話が高橋和枝にもあります。
テンションの高いハスキーボイスで演じるカツオは、3時間も続けるとめまいや喉の不調がやってくるときがある。そんなときに備えて、ブランデーを入れた小瓶を自参。具合が悪くなったときは、それを舐めて録音を続けたそうです。

2013年「サザエさん」は「最も長く放送されているアニメ番組」として、ギネス世界記録に認定され、9月5日に認定式が行われました。
このときのインタビューでもサザエ役の加藤みどりが、「ここに高橋和枝先輩がいらしたらなぁ」「生きていらしたら80歳(ちょっと)。(ギネス記録を)とても喜ばれたと思う」「二人で絶対に(放送が終るまで)やり遂げようと誓い合った」と高橋和枝に言及しています。

加藤みどりにとって、高橋和枝は大恩人にあたる先輩。
「サザエさん」収録現場のムードメーカー。自身の失敗談を持って来ては笑わせるタイプ。
劇中ではサザエと共にのテンション高く番組を牽引する役どころ。
「台詞のやり取りで、たとえばサザエが暴投しても、きちっと補って正確に投げ返してくる。サザエを作ったのは和枝さんなんです」とも、加藤みどりは話しています。
1951年にはラジオバラエティ「とんち教室」(NHKラジオ)への出演で人気を得ており、ラジオの放送劇や吹き替え、アニメーションと多く活躍し、主役の演じ方も脇の演じ方も大いに心得た、「サザエさん」初期の出演陣ではもっとも知名度があった、手練の持ち主。
加藤みどりにとって、どれだけ助けられたし、勉強になったことがあったのでしょう。
こうやって亡くなっても、折に触れて話題に出すということ、有難いです。

声優アワードでも冠の賞が設けられた高橋和枝。
もっと語られて欲しいです。

最後に、高橋和枝が仕事に対して抱いていた思いについて紹介して〆ます。
生前、講演を頼まれた際に書いた原稿にあった言葉だそうです。

「私は、いつも私の声を聞いてくれた人が、悲しみから立ち上がるきっかけになってくれたら、生きる希望を持ってくれたら、どんなに嬉しいだろうと念じながら、自分の心をグッと上に持ち上げて、楽しくて仕様が無いように演じています。生きていることの喜びをいっぱい持って!」
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by hakodate-no-sito | 2014-02-03 00:10 | つぶやき | Comments(0)

永井一郎の死に想う / 北廉太郎を知っていますか

先日、永井一郎氏の訃報が届いた。心より哀悼の意を表する。
私の生まれる遥か前より活躍されていた方で、物ごころ付くときには既にブラウン管の向うに居て、親しみを感じていた。テレビッ子、アニメッ子だった子供の頃。本放送末期や再放送で見たアニメでどれだけ永井一郎に接したか。「らんま1/2」や「うる星やつら」をビデオ、テレビにかじりつくように見ていたあの頃は、「サザエさん」を含め、毎日永井一郎に接していた。気付いていないものも含め相当触れていたと思う。

20世紀から21世紀となり、ブラウン管から液晶テレビへ入れ替わり、セル画からデジタルに変わっても、永井一郎は現役のまま、特に意識せずとも、どこかで声を聞く機会が有り続けた。
タイ子さん役の声優が代わったと聞き、2週ぶりに「サザエさん」を見た次の日の訃報。最初はインターネットのいわゆる「釣り」だろうと信じられなかった。今でもまだどこか実感が沸かない。2月9日放送分までは「サザエさん」の収録を終えているということだし、他にもまだ放送されていない仕事もあるだろう。
居て当たり前だった人が居なくなる喪失感は、もう少し先に襲って来るのだろう。

様々なことが脳裏をよぎる中で、火曜日に再放送していた「サザエさん」。オープニングの後に入るCMにサザエ(おはぎで知られる菓子製造会社)や、先日亡くなった小林カツ代の出ているグリコ・熟カレーだったことが思い浮かんだ。
火曜日のサザエさんの再放送が終ったことも、カツオ役の高橋和枝も亡き人となったことも、随分経っている。
つい先日のはずだった1990年代が遠い昔になって来ていることに改めて気付いて、ぞっとした。

学生には3・11以前が断絶感のある過去に感じている、と聞いたことがあるが、確かに00年代(2001-10年)も充分昔になっている感覚は否定出来ない。
これでは、昭和が遠くなっているのは当たり前であり。懐かしがる人がどんどん減るのも無理もなく、題材に取られ描かれた世界がファンタジーになっているのも仕方ないのかもしれない。
だからこそ、忘れてしまわないようにとりとめのないことでも話題に出していくこと、知っている人はなるたけきちんとした情報を発信すること、知ろうとする姿勢が、今後より重要になって来るだろう。


今、私の部屋で再生しているCDは、ぐらもくらぶというレーベルから発売された「伝説の歌声シリーズ 北廉太郎"ヴォルガ哀愁"」(G-10008)というアルバム。収められた23曲の音源は昭和12(1937)年から昭和15(1940)年発売のものばかりだから、70余年前の作品を聴いていることになる。

北廉太郎は、大正9年の生まれで昭和15年没。
もはや歴史の彼方にある人と云っても、言い過ぎでは無くなっているだろう。
「懐メロ好きなんです」と言っている人でも、SP盤収集を行っている人でも無い限り、名前ぐらいしか知らない、または2-3曲しか聴いたことがないという人が多いのではないだろうか。
ただ、北の哀愁あふれる歌声は一度耳にしたら忘れ難く、よくは知らないが気にはなっているという人もまた、少なくないと思う。

この「伝説の歌声シリーズ 北廉太郎"ヴォルガ哀愁"」は、北廉太郎の歌声をまとめて聴くことの出来る、初の一般向けCDアルバムになる。

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ぐらもくらぶCDとはなんぞや?と言うことですが、これはザックリと言ってしまうとSP盤(蓄音機で聴くレコード)時代をメインに様々な音源を、開放してもよいと言う有志と共に世に送り出そうというものです。
ともあれ、明治・大正・昭和期の音源で、埋もれたものでも選りすぐってみると、現代でも楽しめる、また意義のあるものは沢山あります。これらを時代の垣根を飛び越えて皆さんで楽しめたらどんなによいだろうか、と言うのがこのCDのコンセプトです。
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というコンセプトのもとで活動を続け、2012年から2014年1月末の現在までで7タイトルを送り出しているぐらもくらぶでは初となる(王道的な)流行歌を大フューチャーしたアルバムが北廉太郎の本アルバムだ。

キタレンとは、いかにもぐらもくらぶらしい目の付けどころだし、これまた意義のあるものを出したなァと頭が下がった。

近年の和ジャズブームで戦前ジャズの再評価や復刻(こちらも、ぐらもくらぶが関わっている)が進んでいる。ただ、同時期の流行歌はというと、一歩も二歩も三歩も遅れているのが現状だ。
流行歌史を見てゆくと、気軽に聴けない歌の何と多いことか。溜息が出る。
その遅れがちだった最右翼のポリドールの流行歌が、昨年12月に第一弾として「戦前オールスター・ヒット・パレード大全集」「はたちのバタヤン大ヒットパレード"大利根月夜"」と2タイトル各2枚組CDにまとめられた。
希望の光が見えて来たのである。

その復活の露払いが、実はこの北廉のアルバム(昨年6月発売)である。
ポリドールの流行歌音源(正しくは数曲タイヘイ音源も収められている)がこれだけまとまって、きちんとしたリイシュー盤として一般向けアルバムで発売されたことは殆ど無いのだ。

意義や価値ばかりをつらねてしまったが、勿論内容は素晴らしい。
何せ、ぐらもくらぶのアルバムだ。太鼓判を押された作品を選りすぐっているいることは言うまでもない。
ぐらもくらぶレーベル始動当初よりも、さらに音質が上がり、流行歌のサウンドがこれでもかと浸ることが出来る。特にアルバムの表題にもなった「ヴォルガ哀愁」冒頭、コーラスのハミングには震えが来る。田端義夫が後年カバーした「夢のゆりかご」や「出船の唄」も収められているので、田端音源を持っている人には聴き比べという楽しみ方も可能。

思い込みというフィルターを少し外していくと、楽しみが増える。
歴史、文化、音楽・・・古くたって良いものは良いのだし、たまたま発表された時代が古かっただけということも大いにある。新しいものが正義ではないのだ。

様々な可能性を秘めた、色々気付かされるきっかけにも、このアルバムはなり得ると思う。

演歌でもない、歌謡曲でもない、流行歌というサウンドが再び評価されることを祈ってやまない。
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by hakodate-no-sito | 2014-01-30 17:25 | つぶやき | Comments(0)

芦野宏と、石井好子と、永六輔と

久しぶりに石井好子に会えた。
たまたま読んだ本、テレビ番組に、立て続けで石井が居た。
本は、親交のあった永六輔の著書「永六輔のお話し供養」(小学館)
テレビ番組は、「あの人に会いたい」(NHK)だ。

「あの人に会いたい」は、10分のミニ番組。
既に石井好子は取り上げられているし、勿論拝見している。
今回私が見た回は芦野宏。
番組ラストで流れた映像が、かつてのパリ祭。
芦野宏と共にシャンソン「パリ祭」を歌う石井先生の姿が映った。
大木康子らの姿も画面にあった。

芦野宏と石井好子の関係は深い。
ともに戦後のシャンソンブームの立役者であり、日本シャンソン界を生涯に渡って牽引し続けた巨星。芦野は、石井音楽事務所の所属歌手でもあり、自叙伝でも石井への敬意を表している。
最晩年、体調を崩した石井が身辺整理を進めていた際、自ら手紙を認め、日本シャンソン協会の引き継ぎを頼んだ相手が芦野宏だった。「あなたの友情を信じます」と手紙に記されていたことを、石井没後の談話で芦野は明かしている。
石井からのバトンを受け取って約2年後、芦野も鬼籍に入ったが、協会は芦野の次男が代わって支えている。

健在だった頃は当たり前の光景としか思わなかったが、今このツーショットを見ると胸にこみ上げるものが隠せない。
加えて、早世した大木康子(この人も芦野と同じく石井音楽事務所所属だった)も傍にいる。
テレビの前で「ああッ」と思い切り声を上げてしまった。
喪ってわかる、その人の大きさ・・・。

「永六輔のお話し供養」は、本当の意味での人の死はその人を知るものがいなくなったとき。
それまでは知る人の心に記憶として宿っている。歳月の中で忘れがちになっている故人の話を時々しよう。それもまた供養のひとつだ。というコンセプトで編まれた1冊。
8項目のなかのひとつに石井好子の項があった。

項の題名は「お嬢様の底力」。
以下、内容を要約。
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石井は怖かった、よく怒られたがその理由がわからないことが大半。
石井の前で民謡を口ずさんでいたからだ、と言われたこともある。
良くも悪くも自分中心のお嬢様だった。
石井とは学生時代の頃からの付き合い。石井の父・光次郎(外相, 衆院議長)が地元出身の学生の面倒をよくみていて、家に行けば腹いっぱい旨いものが食べられるという話から、中村八大に誘われ、モグリの久留米人として、石井邸に通った。
後に、嘘が石井にバレ、以来頭が上がらなくなった。
石井が渡米し、そこからパリへ行き、名を上げて、帰国した際には迎えに行った。帰朝公演の演出もした。
石井からパリ祭の司会を依頼され、最初断ったら「私の家で何度ご飯食べたのよ」と凄まれ、引き受けざるを得なかった。作務衣姿での司会にNGを出され、ピーコを呼び、タキシードを作らせた。
高額の請求書がピーコから来た。作れと言ってピーコを差し向けたのは石井だ、彼女に払って貰おうと請求書を回したら、「自分で払わないと着こなせません」と一筆つきで戻って来た。
後年、難民問題に関心を持ち、難民救済のチャリティーコンサート開催のかたわら、デモに参加し座り込みも行っていたが、デモ参加については生前自分の前では一切口にしなかった。
一部の悪口など歯牙にもかけず、己の心に忠実に「私は私」を貫いた力強い女性だった。
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永六輔の話には、良く思う関係ゆえの軽口や読み手へのリップサービスがあるので、そのあたりの行間を読む必要が求められる。これは放言じゃないのかと思う箇所もあったが、六輔講談・石井好子として興味深かった。

石井晩年のライフワークのひとつが有楽町朝日ホールで開催していたチャリティコンサート。亡くなる2年前に体調を崩すまで10数年続けていた。バラエティに富んだ人選はパリ祭とはひと色もふた色も違い、本業の歌い手は勿論、普段シャンソンを歌わないような人、歌とは無縁の人たちをも、石井自ら誘い出し、ステージに上げていた。

石井の難民問題への関心は、親ぐるみの幼なじみ・緒方四十郎(緒方竹虎の三男)の妻・緒方貞子の存在がきっかけとされている。
周囲の環境に加え、長いフランス生活から国際情勢への関心は人一倍あったはずであり、デモ参加も左翼的な捉え方ではなく(石井はむしろ保守派である)、当然の流れとして行っていただろう。

石井好子は線引きのしっかりした人で、これは自分の口から話していいこと悪いことをしっかり決めて、その線を越えることは無かった。
だから知る人ぞ知る、石井の逸話は、まだまだ沢山眠っているように思う。

そのあたりの話を採録整理した上での石井好子の評伝の発表を、没後以来ずっと願っている。
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by hakodate-no-sito | 2014-01-27 13:03 | つぶやき | Comments(0)

逢う

ネットで知り合った同郷の同世代と話して来ました。
同じ昭和の歌を愛する人でも、あちらはバリバリのナイアガラ~はっぴいえんど系統のヲタ。本人にも言ったのですが何だか異国の人を見るような面白さで、楽しい時間でした。
お祖父さんは樺太にディックミネ呼んだとか、そういう音楽好きがジャンルは変わりながらも三代続いているというのですから筋金入りです。
貴重ジャケの写メを拝見しながら「サラブレッドな正統ヲタだなぁ、コレクターだなぁ」と関心しながら、改めて自分の突然変異さにハッとしました。どうやって今日に至ってるんだろう、と。

いびつというか、今時の音楽好きとも、歌謡ヲタとも、流行歌ファンとも違う。
不思議なバランスで成り立っているよなぁ、と。
属するような立ち位置が無いんじゃないかと。
我が事ながら、よく判りません・・・

こんな私が興味関心を抱いた音楽をたっぷり聴いて来れたのは、私自身がそうしたいと思ったからなのは勿論そうですが、何と言ってもそれを(も)よしとして目をかけてくれた方々のおかげ。そのおかげで、こうやって「お逢いしませんか」と声がかかったりと、いろいろ有難い話がやってきます。
人が苦手なくせに、好奇心旺盛で、ひとりが好きで、淋しがりやの私にとって、それは時に畏怖、異敬、億劫でもあるのですが、何のかんのでやっぱり嬉しいのです。
本当に良い夜でした。

だから、言わせて下さい。
今は縁が切れてしまった人、疎遠になってしまった人、今も見守って下さっている方。
「おかげさまです」
「ありがとうございます」
そして「ごめんなさい」と心から申し上げたい気持ちでいっぱいです。

私の身勝手でいい加減で弱い人間ぶりで、どれだけ人に迷惑をかけたか。
普段は考えているけど、考えていない、いえ、そんなことを思う余裕が無いのです。
素直になれないのです、醒めているくせに、そこだけ思考停止になりがちなのです。
あれだけ良くして貰いながら・・・
あれだけしてもらったのに・・・
時が経ち、冷静になって振りかえられると、悲しくて情けなくて申し訳なくて。

読んでおられないでしょうけど、ここで一言お詫びのことばを。
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by hakodate-no-sito | 2014-01-09 00:40 | つぶやき | Comments(0)