年齢不詳な若人が唄の話を中心にアレコレと・・・


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松島詩子・略歴

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松島詩子(1905-96)
本名:内海シマ、旧姓:松重。
明治38(1905)年5月12日、山口県玖珂郡日積村(現:柳井市)の生まれ。
実家は雑貨商兼業の農家だったという。
柳井高等女学校卒業後、代用教員として教壇に立つ傍らで、松島が歌好きであることを知った先輩教員の勧めがきっかけで文部省中等教員検定試験(文検)合格を目指し、苦学の日々を送った。

昭和5年、大正13年以来の目標を果たし、難関であった文検に合格。
その報告に、恩人である静岡師範学校の原田彦四郎のもとへ訪れる。ここで彼女の人生が大きく変化していくことになった。たまたま、そこに原田の知人で、作曲家の佐々木すぐるが居合わせたのである。
そこで松島の歌声を聴いた佐々木は流行歌手にならないかと強く誘って来た。
熟慮を重ねた末に
「(クラシックや流行歌という区分に囚われず)私はただ歌の勉強をしたい」
と、周囲の反対を押し切り、上京。佐々木のもとへ身を寄せる。

昭和7年、コロムビアから「ラッキーセブンの唄」でレコードデビューを飾り、以後昭和11年頃までの間は、様々な芸名(変名)を用いて、多数のレコード会社で吹き込みを行っている。
このこと自体は当時普通に行われていたことだが、それでも松島の芸名の多さはずば抜けて多い。
柳井はるみ(デビュー当時の芸名)、広瀬陽子、千早淑子、東貴美子、ミス・アサヒ、島歌子、伊藤麗子、山田時子、島ユリ、広田満須美、藤田不二子…挙げた以外にもまだまだあるというし、なんと幾代という芸者の名前で発売されたレコードも存在するという。

なお、松島詩子という芸名だが、これは佐々木からの依頼で、山田筰作が命名したもの。
山田は姓名判断の名手としても知られていたことから、命名主となった。この名前はデビュー1年目である昭和7年の時点から使用されている。
この時期、流行歌はもちろん、洋楽などへも果敢に取り組み自家薬籠のものとして、のちに大成する礎を築いている。
恩師といえる佐々木すぐるの代表作であり、日本の叙情歌の傑作「月の沙漠」(「月の砂漠」という表記、実は誤り)を最初にレコード吹き込みを行ったのは松島(昭和7年、ヒコーキ、柳井はるみ名義)であるということも記しておきたい。

松島詩子の名が一般層まで広く知れ渡るようになったのは、昭和9年。
キングレコードで吹き込んだ「潮来の雨」、そして「女の友情の唄」がヒットしてからである。
昭和11年頃には、井口小夜子・三浦房子と、キング三人娘と称されるようになり、昭和12年からはキングの専属として、芸名も松島詩子一本へと統一する。この年、念願であったリサイタルを日比谷公会堂で開催。このリサイタルは松島のライフワークとして晩年に至るまで年1回ほどのペースで行われていく。
そして、彼女の代名詞といっても差し支えない「マロニエの木蔭」の発売もこの昭和12年である。マロニエ~は、昭和15年・21年の再発売を経て巷に浸透、息の長いヒットとなった。

『贅沢は敵だ』という標語が街中に見られるようになるなど、戦時色が濃くなり始めていた昭和15年には「上海の踊り子」がヒットし、「広東の踊り子」「南京の踊り子」と続く踊り子シリーズが誕生している。松島本人は広東~がお気に入りであったという。
この年、歌手の内海一郎(1892-1972)と正式に結婚。出会いはニットーレコードで吹き込みを行っていた頃だという。内海は既に歌手を止めており、亡くなるまでマネージャーとして松島の活動のサポートを行った。

やがて、流行歌の世界でも軍国歌謡が大勢を占めるようになり、松島もそれらの楽曲を吹き込む機会が回ってくるが、それらも見事に歌いこなし、昭和17年には「鐘の鳴る朝」という美しいタンゴ(タンゴは友好国アルゼンチン音楽であるとして、ジャズなどと違い迫害を逃れていた)の名唱を残している。

戦後も引き続き活躍。
21世紀の現在まで続く『NHK紅白歌合戦』へも第1回から第11回まで通算10回出場(ほかに第40回では証言者としてゲスト出演)。
松島はまだ権威も箔もついていなかったこの番組を気に入り、第2回の交通事故での欠場を本当に悔しがっていたという。

昭和20年代半ばから30年代前半にかけては、中野忠晴や渡久地政信、細川潤一らと組んで、和製シャンソンというジャンルの確立に挑み、「マロニエの花咲く頃」「私のアルベール」では日本の流行歌には珍しいヴァースを取り入れた歌作り、「マロニエの並木路」を以てマロニエ三部作の完成、そして「喫茶店の片隅で」のロングヒットという実績を残した。
他にもカルメンを題材とした「スペインの恋唄」など、円熟した歌唱力で意欲的に歌へと取り組んでいたが、そこには根っからの歌への求道ぶりは勿論だが、同世代の淡谷のり子らの活躍も大いに励みになっていたという。

昭和40年代の懐メロブームでも、新録音のアルバムを発売し、多くの歌番組へ出演するなどし、健在ぶりを示し、昭和53年には勲四等瑞宝章を授章。この際に、それまで明治43年生まれとしてきたプロフィールが同38年生まれであったことが図らずも発覚する。「勲章貰ったのはいいけど、おかげで本当の歳が判ってしまった」と松島本人は苦笑していたが、この年齢詐称はデビュー当時、年齢が不利に働かないようにという関係者側の配慮によるものとされている。
一部関係者の中では既知の事実でもあり、別段バッシングされるような事態も起きず、このプロフィール訂正後は(淡谷のり子よりも年上である)歌謡界の長老として、さらに重きを成していくこととなった。

昭和59年には、バラエティ番組『ライオンのいただきます』(フジテレビ)へ出演し、その愛嬌あふれる言動などで、一躍若年層にまでその知名度は拡大。翌60年の自身の傘寿記念リサイタルは、当時現役最長老歌手であり、戦前に浅草オペラの舞台で共演した田谷力三がゲスト出演。
ギネス級長老デュエットと大いに話題をさらうなど、晩年に差し掛かり、ふたたび華ひらいたひととして大いに話題をさらった。
このあたり(の前後から』キャリア初期のように、再びピアノの弾き語りでステージに立つようになっていく。
「マロニエの木蔭」のカデンツァのイントロを力強いタッチで演奏し歌う姿は、バラエティでのとぼけた姿から到底連想出来るようなものではなかった。
八十路に差し掛かっても衰えを知らぬ歌への強い求道ぶりは、生涯変わることがなかった。

平成8年11月19日、心不全のため没。91歳だった。
平成6年、東京・明治記念館で開かれた自身の「米寿を祝う会」で3曲歌ったのが最後の舞台となったが、その後も発声やピアノの練習は怠ることなく続け、東京・小平の自宅で開いていた音楽教室「詩っ子会」での指導は亡くなる約1カ月前まで行っていたという。
入院中も自身のヒット曲を看護婦相手に披露するなど、歌へのつながりは切れることなく生涯現役を全うした。

没後、平成3年に名誉市民として選ばれるなど縁の深い故郷・山口県柳井市の町並み資料館の2階部分が松島詩子記念館として整備され、ドレスやレコード、譜面など彼女の愛用品が一般に公開されている。
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by hakodate-no-sito | 2011-12-18 03:22 | 歌・唄・うた | Comments(0)

由紀さおり「故郷」考

私の好きな歌手の中のひとりに由紀さおりという人がいます。

先日、ふと「自分の中で、由紀さおりのシングルA面曲をあげるなら何だろう?」ということを考えて、ある方から「私はこの歌」ということを言われたんですね。

「ああ、成程、確かにイイ歌。イイところを突いてるなあ」
と思いながら、久々に聴き直してみました。

本当に良い歌だなあ、としみじみ。
そして、何という奥深い歌なんだろうか…と。

この「故郷」は昭和47年(1972年)発売の歌謡曲で、作詩:山川啓介、作編曲:大野雄二という、その道のプロ中のプロと言い切っても差し支えない匠によって作られた歌。この二人に由紀さおりって時点で、もう既にある程度、質の高さは保障されていることは見る人が見ればわかる、ぐらいなものです。

http://j-lyric.net/artist/a00056f/l01d2c5.html

大野雄二による曲がちょっと儚げな感じとても良くて、当時流行だったディスカバリーソング(ふるさと歌謡)の一種にしてはちょっと捻っていて、さすが大野雄二と絶賛したくなるのですが、それはちょっと置いておいて、問題は詩。

初めて聴いたときから、ずっと気になっていました。
「どういう情景なんだ、これ」って。


"別れた男よ、もし私のことが恋しくなったら、私のふるさとを訪ねて欲しい。汚れる前の、無垢な心を持った15の私がそこにいるから・・・"


極めて簡単に要約すれば、こんな内容。

由紀さんのヒット曲に「生きがい」という歌がありますが、その歌の姉妹篇といえなくもない。

http://j-lyric.net/artist/a00056f/l011fee.html

この歌は
「もう別れてしまったふたりなのに」「遠く離れてしまったふたりなのに」私はあなたとしか生きられない・・・と別れても、なお"生きがい"として男のことを想い続ける一途な女の心情を歌っています。

渋谷毅の曲とアレンジ、そして由紀さおりの歌声はただただ聴き入るばかりですが、ふと山上路夫による詩だけに目を通してみると、なかなかコワイ。
そういう女だから、男は別れたんじゃないか、と毒づきたくなったり。
まあ、そんな想いを彼女の歌声や曲は抱かせません。
あくまでな一途な、そして健気な女の心情をさらりと歌い、聴くものをしんみりとさせ、時にはふと涙を誘います。
サラリがポイントであって、これがアップテンポで堂々高らかに歌い上げるような曲だったり歌い手だったら、稀代のストーカー歌謡だのメンヘラ歌謡なんて言われていることでしょう。

「故郷」もしかり。
でも「生きがい」と違って、こちらは深みが一段違うように思います。
少なくとも、オコチャマの関係であった二人じゃない。
「生きがい」はある程度、こどもの独り相撲でも成り立つシチュエーションのように思いますが、「故郷」って、ちょっとそれでは無理のように感じてしまうんですよね。

愛に傷つき、生活に疲れ、離れ離れになる最後に見せた最後の愛情・・・。
それにしては「もしも私が恋しくなったら、私のふるさとへ行ってみて欲しい。何も知らない15の私がそこにいるから」とは尋常ではありません。

私はこの歌、女の遺言じゃないのか、と思います。
別れるとき、実は既に病に冒されて余命僅かであって、それを隠してのこととば。
・・・または、平然とした顔をしていてもすべてに疲れていて、もう自ら死ぬ覚悟を決めたうえでのことば。

どちらにせよ、この歌は4分足らずの歌の中に
一見穏やかな、優しさに満ちているようでいて、その実は深く、どこか凄みのある、座った情念、執念や愛情もそこに秘めている。
究極の大人のラブソングではないでしょうか。

たとえ、今は判らなくても歳を重ねれば重ねるほど、沁みて来るような類の・・・。
いや、わからない人には一生わからないかも(笑)

今、こういう歌は多分書ける人はいないし、また出せない・・・。
もし出るならば「本当に泣ける歌」というようなキャッチフレーズが付いて、ひたすら長い詩がついて10分近い歌になってしまうような(笑)

・・・余計なこと、言いました。
話を元に戻します。
こんな難しい歌を23歳で歌いきってしまう由紀さおりってタダモノじゃない。
これは声を大にして言いたいです。

ちょっと深読みしすぎたかもしれません。
でも、そういう様々な解釈が出来るのは、名曲の証だと思います。
たかが歌謡曲、されど歌謡曲。
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by hakodate-no-sito | 2011-11-03 04:04 | 歌・唄・うた | Comments(2)

上から読んでも下から読んでもヨノナカバカナノヨ

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2011年8月12日のことだった。
暑さで身体が汗びっしょりになり、帰宅早々シャワーを浴び、ようやく一息入れたところで、ネットをチェックすると、ある歌手の訃報が目に入って来た。

-日吉ミミ。

「男と女のお話」を唄う際の、あの投げやりで、退廃的な、捨て鉢な唄い方は、あまりにも有名だ。
だからといって、あの歌唱法しか出来ない人ではなくて、ひたむきに未来を信じるような唄い方も実は出来た人だった。
寺山修司から愛された歌手、中島みゆきを自分の世界へ引き寄せて唄い切ってしまう人だった。

よく一発屋と呼ばれるが、実は一発屋では無いし、百歩譲って、仮にそうだとしても、その1曲で40年芸能界を生き抜いたのだから、やはり確かな才能の持ち主であることは間違いないだろう。

人生八十年・九十年の時代に、64歳の死は惜しい。早すぎる。

私は彼女の生歌を1度だけ聴いたことがある。
過去の日記を確認すると、それは2008年4月1日だったらしい。
その日、新宿で「ちあきなおみ・喝采蘇る」の出版記念イベントがあった。
面白い話が聞けるらしい、何かゲストが豪華らしいと聞いて、ちあきなおみも好きだし・・・と行くと、ゲストとして一番最初に出て来たのが日吉ミミだったのだ。

このイベント、ゲストが日吉ミミ、伊藤咲子、中村中、ギャランディーク和恵。
日吉ミミの友人として、途中まで客席にいたのが倉石功夫妻。
飛行機遅延のため出演は叶わなかったが、すぎもとまさとも出演予定だったという。
蛇足だが、これでお代が1200円。

何だか信じられないような話だが、本当の話だ。
さて、トップバッターの日吉ミミ、長年のキャリアで培ったとっておきのエピソードを、磨きのかかった話術で笑いを交えながらたっぷりと披露してくれた。

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「涙の艶歌船」(こんな題名じゃ売れないわよね、と笑いながら振り返る)でデビューはしたものの全く売れず、日本キャバレー巡りを譜面が入ったトランク片手に行っていた頃にちあきなおみと出逢い仲良くなった。

売れなかった頃、自殺未遂を図るなどギリギリの果てに出たヒットが「男と女のお話」だった。

紅白へは江利チエミの辞退に伴う繰り上げで出場出来て、司会の美空ひばりからラッキーガールと紹介された。

80年代後半、歌番組などで再び歌い始めたちあきなおみが"大きい人"に「てめえ、今更戻ってきてンじゃねえよ」と掴みかかられているところを偶然目撃してしまった。

共通の友人でもある美川憲一と、ちあきさんと私と憲ちゃんで3人ジョイントライブ出来ないかなと、最近話をしている。
----------------------------------

そんなことをひと通り語った後に「男と女のお話」を歌い始めた。
一瞬、わが耳を疑った。
ヒット当時とまったく遜色ない、いや深みと味が出た今の方がよほど良い歌声になっているのではないか、と思うような素晴らしい歌声だった。
「原キーでしっかり歌えるように鍛えてますから」
とサラリと語っていたが、よくありがちな声の出なくなってきた歌手の強がりなどでは全く無く、その言葉に嘘は無い見事なものだった。

あのイベントはゲスト全員が、ちあきなおみへの愛情と敬意を表しながら自分の魅力を出す、良い仕事を見せていたが、何と言ってもトップバッターの日吉ミミの掴みっぷりが、イベントの成功を決めたといってもいい。

記憶がセピア色に褪せるというよりも、既に忘却の彼方へと去りつつあるのだが、ゲストの中で日吉ミミが一番カッコ良かった。話に重みがあったし、またその重みを重みと思わせない軽妙な話術。
イベント終了後、一番興奮したのは中村中であったはずだが、今では何を話していたのか思い出せない。
時間を経て、記憶に残っているのは、日吉ミミなのだ。
----------------------------------

あのイベントから約1年後、彼女は膵臓癌に倒れ手術を受けた。
そのことを公言したのは今から1年半ほど前だったろうか。
「あれだけ歌えたひとが…まさか…」
そう思いながらも、病が病、覚悟をせねばならぬと思ったのも事実。
不安は的中してしまった・・・。

本人は嫌がるかもしれないが、人生経験が歌に生きていた人だと思う。
歌手にしろ役者にしろ、芸人の華やかな世界の裏側、下地には、私には計り知れないようなものがある。

哀しみの中に有っても絶えず希望をどこかに抱いて生きている人を歌える人で、コミカルな歌もイケる人。
そして、どこか影のある、陽の当らぬ場所に居続ける人を唄うことが何より長けていた人。

と彼女のことを思っていたけれど、それはつまり彼女自身のことだったのかもしれない。
彼女自身の体験・経験、見聞し肌で感じて来たこと、それがより生かされる年齢に差し掛かった中での逝去。
我々の損失も大きいが、何より日吉ミミ本人がさぞ悔しかったろうと思う・・・。

何の力も無い私に出来ることは、時折彼女が遺した歌を聴いたり口ずさみ、話の話題で日吉ミミという名を出すこと。そして、心の中の想い出にそっと遺していくこと。

目をつむり、耳を澄ますと、あの歌声がどこからか、聞こえてくるようだ…
そっと歌を口ずさみながら、CDいやレコードを再生しながら、献杯を捧げ、静かに今夜は偲びたい。

サヨナラ、ミミ…。
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by hakodate-no-sito | 2011-11-02 04:03 | 歌・唄・うた | Comments(0)

佐良直美「いのちの木陰」、ドラマ主題歌採用へ

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昨年11月発売の、佐良直美のシングル「いのちの木陰」が、2011年9月25日放送のTBSドラマ『居酒屋もへじ』の主題歌に採用されることが発表されました。

この『居酒屋もへじ』では、主題歌にとどまらず、音楽担当として参加。
「いのちの木陰」のレコーディングへも立ち会った、本ドラマプロデューサーの石井ふく子の要望で、新たに挿入歌を自ら書き下ろし、唄ったということも明かされています。

37年ぶりのドラマ主題歌、と報じられていますが、これは誤り。
水前寺清子に代わり、京塚昌子とW主演を務めた『ありがとう(第4シリーズ)』(74-75年 TBS)の主題歌「ありがとう」以降もいくつかのドラマ主題歌を唄っていて、81-82年放送の『ちょっといい姉妹』(TBS)主題歌の「ちょっといいもの」以来の30年ぶりというのが正しい。

それにしても、主題歌起用だけじゃなく、作曲家・佐良直美としても復活するとは嬉しい限り。
70年代半ばからは、自身で唄う曲の作曲に限らず、『東芝日曜劇場』などのドラマや舞台作品の劇伴音楽の作曲も行っていた佐良直美。
活動休止後の90年代-00年代でも、舞台では(旧作の流用の可能性もありますが)「音楽:佐良直美」というクレジットを見かけることがありました。

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「石井ふく子がドラマで主題歌か挿入歌で起用しないかな」
なんて、発売当初に空想していましたが、1年経って実現するとは思ってもみませんでした。
さらに、作曲家としてドラマへも関わり、新たに挿入歌2曲まで書き下ろすとは、これはまったく嬉しい誤算、想定外。

まあ、この挿入歌云々というのは、昨年の新曲発売にまつわるエピソードが報道された記事とまったく違っていた、ということがあるので今ひとつ信じ切れず、「『いのちの木陰』のカップリングだった『銀河の子守唄』に未発表になっている『おかえり』の2曲が流れるのでは?」と疑っていたりします(笑)

…どう転んでも喜ばしいことには違いないです。
『いのちの木陰』に続く新譜も期待できるのでしょうか。
「さりげなく、ニューアルバム」も待っています(笑)
これを追い風にして、旧作復刻もなされることも期待したいですね。

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『居酒屋もへじ』
2011年9月25日 PM9:00-
TBS系で放送
http://www.tbs.co.jp/izakaya-moheji/
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by hakodate-no-sito | 2011-09-16 10:14 | 歌・唄・うた | Comments(0)

初めて「ろうきょく炭坑節」を聴いたとき

去年だったろうか、一昨年だったろうか。
「ろうきょく炭坑節」という不思議な歌を聴かせて貰ったのは。

『面白い歌があるんですよ』
そんなことを言いながら、知人が紹介してくれたその歌は1度目の視聴で
すっかり脳髄に染み付いてしまった。


炭坑節のメロディをちょっと崩して、月が印象的に出てくる浪曲の演目を歌詞に
してしまっている。
テケレッツノパ、テケレッツノパ・・・という何ともよくわからないお囃子。

このお囃子、明治時代で噺家の通称・釜掘りの談志という人の余興のお囃子言葉らしい。
歌を聴いてすぐ、偶然聴いた三遊亭圓生の遺した録音物から、発覚。
ほかにも落語では割とおなじみの迷フレーズとして、使われているらしい。
浪曲と直接の関係は無いみたいだが、同じ演芸という地続きから、たまたま耳にして、流用したのだろう。

話が横にズレた、元に戻そう。
当時の流行歌とは微妙に違う、日本マーキュリー(タイヘイ)サウンドとでも言おうか、個性的な編曲・演奏。
うまく解説が出来ないのがもどかしいのだが、何かが違うのだ。
ローカルカラーとも、一説には戦前・戦中以来の音楽作りがここの会社には生き残っているともいう。

このアクに加えて、歌い手・芙蓉軒麗花の歌声がサウンド同様、いやそれ以上に濃い。
長年、浪曲で鍛え上げられた見事な喉。

これは私が聴いてきた中で勝手に思っていることだが、浪曲出身の歌手には、譜面よりも自分の良い声の出を優先させることが
ほかの歌手に比べて強い。より良い舞台を、という芸人魂ともいえるのだろか。
それは良かったり悪かったり、たまらなく効果的な場合もあれば、泥臭くて叶わない場合もある。

ここではどうか。
その荒削りな歌声が歌とマッチして、類を見ない独特の迫力と味わいを醸し出すことに成功している。
加えて、テケレッツノパでマーキュリーサウンドだ。
こうして一度聴いたら忘れられない、スルメ、いやクサヤか、ともかく何とも不思議な歌の出来上がり。


気がつくと知人に
『芙蓉軒麗花、他に無い?』
と訊ねていた。
『無いんだよね、オムニバス盤にポンと入っているこれだけ』
『他の歌も気になるね』
『だろう』

その後、ちょっと調べたら、この「ろうきょく炭坑節」は斜陽になりかかった浪曲界から歌謡界への転進
が行われるようになった流れを作った、記念すべき歌であり、大ヒット曲。
今も大衆演劇その他の世界では息づいていて、歌われることが多いという。

こうなるとますます芙蓉軒麗花が気になる。
しかし、何もわからないまま時は流れ、その知人とも仕事その他の多忙さから疎遠となってしまっていた。

―忘れはしないが、このまま謎の森で彷徨っているんだろう。
なぞ勝手に粋がっていた矢先だった。
芙蓉軒麗花のCDアルバムが出る、という情報が別の知り合いから寄せられたのは。
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by hakodate-no-sito | 2011-08-02 00:33 | 歌・唄・うた | Comments(2)

ボニージャックスのアッチャン、死す

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(右から西脇さん、大町さん、鹿島さん、玉田さん)

国民的コーラスグループ、ボニージャックスのOBである大町正人さんの訃報。
今年1月のダークダックスのパクさんこと高見澤宏さんに続き、大町さんが亡くなったことで、三大コーラスの全グループが往年のメンバーを1人づつ欠くことになってしまったことになる。
約半世紀に渡って、素晴らしい歌を届けてくれた名グループの名歌手が鬼籍に入ってしまったことの寂しさ・・・。
ただ、ニュースを見ていても、大町さんの扱いがあまりに小さい。
ネット上でも、ネットユーザーとファン層が被らないのだろう、「訃報です」というだけで、ボニーについて、大町さんについて、どうこう言う人は見当たらない・・・。
ボニージャックスを退いていたからなのか、それともボニージャックス自体が軽視されているのか。
ボニーと大町さんは切っても切れない関係、あのボニージャックストーンと呼ばれた美しい声は大町の存在無しには成り立たない。
(今のボニーの歌声は、往年のそれとやはり別物である。第2期とでも言うべきだろう)
でも、憤慨する一方、私もボニージャックスについてどれだけ知っているのかと聞かれたら、心もとない。
一応、以前図書館で調べたこともあるのだが、調べ方が悪かったのか、あまり情報を仕入れられなかった。音源はCDやレコード合わせて30枚ほどは持っているが・・・。
ボニーは謙遜して「自分たちは知られていない」「ヒット曲が無い」などと言っているが、耳なじみの歌はいっぱい歌ってきている。
「この程度しか知らないのに、文句言うのか、お前は」
とお叱りの声があるかもしれない。だが、これは私の精一杯。
ボニーのあゆみについて、大町さんのあゆみや人柄について、御存知の方はぜひとも教えて頂きたい。ネットに載っていない、素晴らしい歌い手(コーラスグループ)のことをネットに載せて、もっと情報流通をさせたい。私自身も知りたい。
心からお願いする次第。

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大町 正人(おおまち・まさと)
昭和12年7月20日、旧満洲国・大連に生まれる。
父・大町正武はガス会社の重役(南満洲鉄道の一部門)。
小学2年まで奉天(現在の瀋陽)で育つ。
そこで見たソ連軍の合唱行進や、一部接収された自宅で毎晩行われる酒盛りで歌われるロシア民謡を耳にし、不思議な感動を覚えたのが歌に対する生涯の想いへと結実していく。

日本へ帰国後は東京に住まい、早稲田大学法学部へ入学し、学生合唱団:早稲田グリークラブへ入部。なお、父はグリークラブの前進である声楽部のメンバーであり、親子2代で部員。
持ち前の歌への熱心さと実力からたちまち頭角を現し、パート・リーダーを任せられるようになった。やがて、在学中からクラブの先輩メンバーである鹿島武臣、玉田元康、西脇久夫とカルテットを結成し、アマチュアで歌い始めた。
グループ名であるボニージャックス(愉快な仲間たちという意味だという)の命名者は当時早稲田グリークラブ指揮者であった磯部俶。

当時流行だった、素人のど自慢番組のひとつ「青春ジャズ大学」出演した際、聴取者からの反響があり、異例の再出演を果たし、一部からはダークダックスを越える存在の出現と話題を呼ぶ。
その後、司会の笈田敏夫が名門人気ジャズバンド・ブルーコーツのバンドマスター小島正雄を紹介。
さらに磯部俶による半年間の合宿訓練の末にプロデビューとなった。
ボニージャックスとしてのキャリアのスタートは、昭和33年11月25日、ラジオ関東開局特番にて無伴奏で歌った「懐かしのヴァージニア」とされている。

メンバーの愛称は
・西脇:六さん
(当時、小型タクシーの料金が60円であったことから。でも性能はいい、という意味もあるという)
・大町:アッちゃん
(当時の人気漫画(岡部冬彦「アッちゃん」)に似ているから)
・鹿島:トラさん
(体格の良さから、大型トラックとかけて)
・玉田:のぼさん
(のんびりの"の"、ぼんやりの"ぼ"、と本人の性格から引っ掛けての命名)
である。

以後、今日までのレパートリーは5000曲を越えるという。
ジャンルも幅広く、CMソング、ジャズ、黒人霊歌、ロシア民謡、童謡、唱歌、ホームソング、叙情歌、歌謡曲、コミックソング、テレビ主題歌、フォークソング、JPOPまで古今東西・多岐多彩。
ハーモニーの見事さには特に定評があり、主に叙情歌など歌う際の美しく繊細な声色を評して、ボニージャックス・トーンと呼ばれている。
先輩格のコーラスグループ、ダークダックス、デュークエイセスと並び、日本三大コーラスと称され、2000年代には3グループによる合同ツアー公演が毎年行われていた。

デビューの年に、新しい子供の歌を作る会であるロバの会製作の「カバさん」で芸術祭文部大臣賞、「子供音楽物語・チュウちゃんが動物園へいったお話」が、第13回芸術祭賞(レコード部門)を受賞するなど、以後「ちいさい秋みつけた」でレコード大賞童謡賞(昭和37年)、サトウハチロー追悼リサイタルによって芸術祭優秀賞(昭和49年)など、数多くの賞を受賞。
近年では、平成21年に第30回松尾芸能賞優秀賞を受賞している。

海外公演も多く、旧ソ連へも昭和44年、46年、51年、55年と4度公演旅行を行い、いずれも大好評を博している。55年の公演では、当初モスクワ五輪及び日ソ交流活性化のための企画として国際交流基金から助成金が支払われる予定であったが、ソ連軍のアフガン侵攻によって見送られ、自粛ムードが漂う中「こういうときだからこそ、世界でひとつの共通語である音楽で交流を果たそう」と演奏旅行へ踏み切っている。
同55年、旧チェコスロバキアにおいて、日本人初のポピュラー音楽公演を果たした。

デビュー当初から、老人ホームや障害者施設の慰問を継続して行っており、後に障害者を持った子供が書いた詩にメンバーが曲をつけて歌うという試みを行いはじめ、昭和56年にLPアルバム「車椅子のおしゃべり」を自主制作。静かに評価が広まり、のちにビクターレコードから一般発売されている。平成に入ってから続編のCDアルバムも発売された。

平成15年、45周年リサイタルを目前に結成以来のメンバーであった大町はかねてから患っていた肝炎を悪化させ、肝硬変で倒れ、ボニージャックスを離脱し、吉田秀行と交代する。

「歳を取って歌えなくなってもこどもに感動を与える仕事をしたい」と大町はボニーの活動とは別に、横浜でイベント企画会社ジャパンプログラムを経営。帆船日本丸名誉船長。

ボニーを脱退後も「そう長くない命だが、歌えるうちはあらゆるチャンスを掴んで歌って生きたい」と、入退院を繰り返しながらも、平成6年から行っている帆船日本丸男声合唱団の指揮・指導や、妻の大町ますみ(クラシック歌手、二期会会員)との年1度のジョイントリサイタルを行うなど、音楽活動を生涯続けた。
平成17年には「長年、1度一緒に歌ってみたかった」とダークダックスの遠山一(ゾウさん/テノール)とのジョイントコンサートを開催している。

2011年7月8日日午前2時13分、肝臓癌のため、横浜市内の自宅で死去。73歳。
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by hakodate-no-sito | 2011-07-12 02:18 | 歌・唄・うた | Comments(0)

「巴里の空の下オムレツのにおいは流れる」(石井好子・著)文庫化

歌手・石井好子がエッセイスト・石井好子、料理愛好家・石井好子、"オムレツの石井"としても知られるようになったきっかけとなった、エッセイ集「巴里の空の下オムレツのにおいは流れる」が河出文庫に収められ、装い新たに発売されたそうです。

暮しの手帖社から発売されたのが昭和38年(1963年)ですから、約半世紀を経ての待望の文庫化。
一般に読まれる寿命が短い(絶版にされやすい)とされるエッセイとしては異色ともいえる、約50年も長きに渡って読まれて来た隠れたロングセラー。古典的(古くて新しい)名作として磐石の地位を築いています。
石井好子は生涯20冊以上の本を出していますが、これほど長く読まれている著書・発売され続けている著書は他にありません。間違っても、一歌手の御手軽エッセイ、などでは無いのです。

勿論、本人が長生きで生涯現役だったというのもあるでしょうが、亡くなったのが80歳代後半であることを考えると、それが一番の理由であるとは思えません。
エッセイストとしての活動が盛んであったのは昭和時代ですし、歌手として長く現役でメディア露出も多い人ではありましたが、若年層にまで認知されていたかといえば、それはまた微妙な話・・・。

本の話に戻ります。
だいたい、歌手や役者、タレントが書く本はどうしても本職の方と比べられて、1段も2段も低く見られがち。
本人へのインタビューをもとに編集者やフリーライターがまとめたものが大半ですし(ただ、そういう形であっても、話す内容が面白ければ、ある程度読むに値するものになっていくと思います)、読み物としてレベルが高いかというと、これもまた微妙であったり、その著者に興味の無い人には何の魅力も無い内容であったり・・・。
発売から5年も経てば在庫も無くなり、絶版で中古市場を探すことになるのが相場でしょう。

勿論、筆の立つ人や含蓄のあることが書かれているものあります。
高峰秀子、池部良、沢村貞子、森繁久彌、中村伸郎、八代目坂東三津五郎、花柳章太郎、中村メイコ、宮城まり子、内海桂子、三國一郎、益田喜頓、徳川夢声、黒柳徹子、檀ふみ、冨士真奈美・・・のようにエッセイストとしても地位を築いた方、小説やショート・ショートも書いた方、ベストセラーを出した人もいますが、やはり数はそう多いとは言えません。
ここに名前を挙げた人たちでも既に著書の入手が難しくなっている人も結構おります。残念なことです。

あまり知られていないようで勿体無いのですが、当代水谷八重子、旧芸名水谷良重のエッセイ、私は好きです。彼女の自叙伝「あしあと」や井上ひさしとの往復書簡は良いです。各所で書いたエッセイを集めて、犬やネコ、食べ物、旅、舞台、役者・・・テーマ別に分けて、それをちょっと加筆や修正して、ぎゅっとまとめれば良いエッセイ集が出来るはず。どこか、やりませんか?

あと、本人が筆を執ったのかは定かでは無いですが、音曲漫才トリオ「かしまし娘」の長女で女優の正司歌江の「女やモン」も良かった。生まれたときからの芸人・旅暮らしの日々、恋、修羅場、ヒロポン中毒、芸者への転進・・・かしまし娘として再起するまでの半生を赤裸々に綴った名著。昭和芸能史の貴重な証言であり、薬物中毒の恐ろしさも描かれている。差し障りのあることでも実名表記されているので、なかなか難しいのかもしれないが、これもどこかで復刻して欲しい。

そういう脇の理由ならば、安易に品切れ・絶版にせず増刷を繰り返し行って来た、暮しの手帖社のおかげでしょう。
同社の社長の大橋鎮子は石井の学校時代の先輩で生涯親しい関係。
また創業者の一人で「暮しの手帖」編集長の花森安治の慧眼無くしては石井へ「暮しの手帖」への寄稿依頼は無く、また「巴里の空の下オムレツのにおいは流れる」の連載も無く、本の出版も無かったのですから。

もっとも、ひとつの信念を持った出版社である暮しの手帖社であっても、これだけ長い間発売されている単行本は他に無いようです。
やはり、「巴里の空の下~」が今日まで発売されて読まれているのは、それに値するだけの魅力を持った本であるから、でしょう。

(もしかしたら石井の歌のCDより入手し易いかもしれません。石井の遺した音源のCD化はあまり進んでいませんし、本人の魅力をしっかり捉えているとは言い難いベスト盤という名のCDが出ているぐらいです。CD時代のアルバムはそれぞれ魅力的ですが、入手が難しかったり品切れ・廃盤だったりします。)

残念ながら、この本の魅力のひとつといえる、花森安治による個性的な装丁は河出の文庫本では別のものに変わっているのですが、花森の装丁が苦手という方には助かるのかもしれません。

有り難いことに、引き続き(?)、今のところ単行本は暮しの手帖社から発売されているようなので
「花森装丁が良い」「文庫だと字が見にくい」という方は単行本を
「持ち歩きしやすい方がいい」「より手軽に読みたい」という方は文庫本を
という形で、うまく棲み分けされれば良いですね。
私は、やはり花森装丁に心を残している身なので、両方所持して気分によって読み分ける、という方法を取ろうと考えています。

暮しの手帖社・単行本
http://www.kurashi-no-techo.co.jp/index.php/books/b_1007.html

河出書房新社・河出文庫・文庫本
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309410937
◎解説=犬丸一郎(元・帝国ホテル社長)、堀江敏幸(作家・仏文学者)
犬丸は石井の弟である石井大二郎(実業家。昭和海運・元社長。1925-2005)の同級生で、姉である石井(好子)とも親しい付き合いがあり、石井のエッセイへも犬丸についてはちょこちょこと書かれています。

なお、来月には同じく河出文庫で、続篇・姉妹篇ともいえるエッセイ集「東京の空の下オムレツのにおいは流れる」が発売予定だとのこと。
http://www.yoshiko-ishii.com/yoshiko-ishii.com/information.html
こちらも併せて、手許に置いて楽しみたいものです。

石井好子の料理系のエッセイは、この2冊に文春文庫の「パリ仕込みお料理ノート」、まだ他にも
石井好子のヨーロッパ家庭料理(1970 文化出版局)
「石井好子・水森亜土の料理の絵本」シリーズ
  (卵とわたし/ご飯とわたし/サラダと私/ポテトと私 
         1978-80 女子栄養大学出版局→角川文庫)
があります。

あと、これは料理系ではありませんが、エッセイストとしての視点が光る
「私のプチ・トレゾール(小さな宝もの)」(写真:リウ・ミセキ 講談社 1987)
や、相次いで見舞われた、最愛の父と夫の死とそこから再起を誓うまでを描いた
「レクイエム涙」(1983 文藝春秋→文春文庫)
あたりも捨てがたいものがあり、これらの著書へも「巴里の空の下~」に続いて、再び光が当たることを希望して止みません。

もうひとつ。
石井好子は雑誌等の対談でも光り、エッセイとはまた違うかたちの石井好子の魅力があります。亡くなる3-4年前から随筆については急激に筆が鈍ってしまわれたようですが、話し言葉でのスピーチやその他短いコメント、インタビュー、口述では最期まで冴えていたようです。
もし叶うなら、それらの対談やインタビューを集めて、新たに編集して単行本や文庫本として出して貰えたらな、とも思っています。
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by hakodate-no-sito | 2011-07-07 01:29 | 歌・唄・うた | Comments(0)

エッセイスト・石井好子

「文藝別冊 石井好子 追悼総特集 シャンソンとオムレツとエッセイと」(KAWADE夢ムック/文藝別冊)
河出書房新社 (2011/3/15) 1260円

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「石井好子 追悼総特集 シャンソンとオムレツとエッセイと(KAWADE夢ムック/ 文藝別冊)」という本を読んだ。作り手や書き手の、石井への愛情・敬意が伝わってくる良書だと思う。

”オムレツの石井”の異名を得る程、食のエッセイへの人気は、自分が思っている以上なのだな、と
改めて感じ入り、また驚かされた。
石井好子がペンを握っていなかったら…たとえどれだけ優れた歌い手であっても、こういう本が出たかというと、哀しいかな、疑問だ。

石井を知らない、石井が書いたエッセイだけで、感じたことを綴る執筆者たち。
本屋の店員が自分の好きな本を並べるコーナーに石井の「巴里の空の下~」を置き、売れ行きがそれ以上なったという話。
「物語のない、あっさりとした読み物」ではなく「物語があった」と思うだろう、という話。
歌手の合間に書かれた、またはその延長線上にあるエッセイという捉え方ではなく
純粋に、一人の優れた書き手としての石井好子を捉え、読んで感じて評価している。
これにはハッとさせられた。
確かに私は石井好子のエッセイの類は気になる存在だったが、やっぱり歌手の石井という前提から見ていたと思う。
歌手でありエッセイスト、というような。
であり、を取っ払った、エッセイスト、だけでは見ていなかったのだ・・・

確かに、石井の食のエッセイは良い。
美食家によくありがちな「××は××じゃなきゃダメ」という押し付けが無い。
「裏ごしは面倒」とハッキリ明言、インスタント食品でも良いものは良いと取り入れる・・・。
読んでいて、肩身が狭くなるようなことは絶対に無い。
その一方で、情景が浮かんでくるような文章。
本当に食べることが好きで、また料理を作ることが好きだ、ということが伝わってくる。
最近、よく耳にする言葉に「ライフスタイル」というものがあるが、まったく石井のエッセイは
憧れのライフスタイルの見本といって差し支えないんじゃないだろうか。
考え方ひとつで、つまらないことも面白くなっていく、ということが説教がましくなく、自然なかたちで伝わってくる。

たかがエッセイ、されどエッセイ。
深い人間性に裏打ちされた、石井好子のエッセイ。
この本に触発され、改めて読み直してみて、唸らされた。
背伸びをしたがる10代の学生から、酸いも甘いも噛み分けた大人まで、それぞれの世代が読むのに耐え得ると思う。

歌はとかく好みだけで判断しがちだが、活字は歌よりはそうじゃないように思える。
石井好子という人の素晴らしさを知るには、活字から入るのもまたアリなのだろうか。
石井好子という素敵な女性がいた、ということを人へ紹介する手だてとして、この本に「巴里の空~」のようなエッセイ集あたりを添えると、判って貰える率が上がるのかもしれない。
いろいろと考えさせられる1冊だ。

この本は、エッセイスト石井好子に重心を置いているので、歌手石井好子としての面はいささか弱い。
だが、石井とつながりのあった人たちのインタビューや寄稿文は、それぞれの石井好子像を窺い知ることが出来て興味深かった。
親しい仲というのと、理解者というのは必ずしも=にはならない。
淡い付き合いで、多少袖すりあった程度の人の方が、かえって的確に捉えていたり、また遠くにいるからこそ見える面があったりするから、人は面白い。

だが・・・やはり、それはそれとして、この人にとっての石井好子とは、とじっくり聴かせて欲しい人はいる。キーマンともいうべき人たち。
ピーコ(対談集「サワコとピーコ」には阿川佐和子と共に石井好子についての話を数多くしていて、これは一読の価値がある)、永六輔、長瀧達治あたりには座談会なりロングインタビューというかたちで、もっと多くの話を聞かせて欲しかった。
石井のエッセイにも度々名前が載っている、今道仁美という長年石井好子の下にいた方の話は、ぜひとも聴きたかった。

もっとも、年表は勿論、ダイジェスト的な(残念ながら完全版では無い)ディスコグラフィーや著作一覧紹介もあり、歌手石井好子を追うための資料として充分価値あるものに仕上がっている。
歌手としての石井好子が知りたい人も資料本として、しっかり保持しておくことを薦めたい。

いつか歌手・石井好子へ重点を置いた本も発売されることを願う。
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by hakodate-no-sito | 2011-05-23 03:15 | 歌・唄・うた | Comments(0)

私的「虹~Singer~」考

ある日曜の昼下がり、岩崎宏美が「虹~Singer~」という歌がテレビから流れていた。この歌を聴くのは2度か3度目だったが、かなり心をゆすぶってくる。

岩崎宏美というのは、大好き、とまではいかないものの、割合好きな歌手だ。
デビュー曲「二重唱(デュエット)」に「ロマンス」「悲恋白書」「思秋期」「すみれ色の涙」「聖母たちのララバイ」「家路」「決心」「月光」・・・名曲をいっぱい持っている。

10年ほど前に喉を痛めて以降、美しい高音を張って歌っていた曲を裏声を使って歌うようになった。もう随分経っているのにそれに未だに馴染めず、テレビで観ると虚しい想いにかられるときがある。でも一方で、ふっと唸らされるときもあって、そう力は入れていないがチェックをしている。

「虹~Singer~」という歌は、さだまさしが雪村いづみの歌手生活40周年に書き下ろしたもので
雪村のコンサートでは今や欠かせぬ歌。さだ自身もアルバムに入れるなど歌っている。
バックステージもの、というのか、華やかな歌手の苦悩や内面を描きながらも「それで私は歌う」というタイプの歌だ。

こういう歌はヒットこそしないが、ある程度のキャリアの歌手ならば誰でも1曲や2曲レパートリーに入っていて
ファンの心をくすぐっている。
口の悪い人間からすれば、お涙頂戴ソング・自己愛讃歌、という。
それだけに、この手の歌の場合、歌手の力の他に、ある程度の聴き手側のその歌い手への感心や思い入れが求められる場合がある。一種の踏絵のようなものだ。

「虹~Singer~」は
ベテラン歌手が自分の"可笑しくて哀しくて美しい人生"について開幕15分前にふと想いを寄せる・・・
とものだが、高らかに歌い上げる歌手人生肯定ソングではまったく無い。

http://j-lyric.net/artist/a000487/l022f5d.html

雪村いづみの歌手人生そのもののようにも思えるし、雪村のために書き下ろされたのだから、"あて書き"なのかもしれない。
だが、長く歌っている歌手ならば、誰でも当てはまるような、普遍的な、それでいて見事な、歌い手の内面が見事に描かれている。名曲だと思う。
さだまさしの詩人としての才能が、この1曲だけでも理解できる。

でも、どうしてなのか自分でも判らないが、この歌はずっと私の中で消化されないままだった。
良い歌だと思うのにしっくりこないのだ。

雪村いづみは良い歌手だったと思う。
何度もコンサートへも足を運んだ。
CD、ライヴ、ライヴ映像・・・いろいろ聴いて観た。

でも、全然しっくりこない。
コンディションによっては、詩を追うこと・曲を追うことだけで精一杯で「10数年欠かさず歌っている割に全然唄いこなせていないじゃないか」 と腹立たしく思ってしまったことすらあった。

さだの歌によくある、曲に比べて詩が字余りという典型、と冷ややかに見たときもある。
しかし、それで片付けるには釈然としない。
作り手のさだまさし本人の歌唱ではどうだろうと聴いてみた。私の場合さだの歌唱は歌によって合う・合わないがハッキリしている。この歌は"合わなかった"。

もやもやが晴れない。
絶賛している人とも、酷評している人とも違う微妙な感情に、「どう」と聞かれても何とも言えず笑って誤魔化すより、しようがなかった。

それが去年の末だったか、岩崎宏美の歌声で聴いたとき、自分の中でスッと歌が入っていくのがわかった。
初めて、素直に、胸の心底から、この歌を「素晴らしい」「良い歌だ」と肯定出来た気がした。
「私がこの歌に求めていたのはこの唄い方だったのか」何となく、そしてやっと得心した。

後日、あるところでこの話をしたところ、唄い方の指摘を受けて"何となく"から"明快"になった。
・・・こう書きながら、どう指摘されたか、忘れてしまった。
岩崎は、何と歌っているかがきちんと聞き取れる。
音楽のリズム、ノリというものだけではなく、言葉の響きというものを大事にしているからではないか。
耳心地の良い、美しい日本語で歌うことが出来る。歌と日本語の発音というものが矛盾無く並立できている。
それはやはり松田トシという人の教えが良いかたちで生きているということではないのか。
ということであったような気がする。

岩崎宏美といえば、もう1曲、私にカタルシスを与えてくれた歌がある。
これは随分前になるが、中村中という歌手がマスメディア中心に脚光を浴びたことがあった。
セクシャルマイノリティ的なこと(本人が望んでいたかは別だが)で話題を呼び、紅白歌合戦にも出場した。
私はメディアの中村に対する、一見慎重に扱いながらも腹のうちでは色物的な扱い、をしていることが見透けたこと、猫も杓子も・・・的な状態が続いたことから、冷ややかな目で見ていた。
その頃は今以上に無知で、ただ闇雲に、嫌と感じたらそれが何にたいしてなのかも考えずに反発していた。

「友達の詩」については(どこかで聴き覚えのメロディだなあ)と思いながらも嫌いではなかった。
ただ、詩の中にあった"バレてしまうから"という表記がどうにも納得がいかず、後日アルバムで聴いて知ったのだが、元来極めて男性的な荒々しいボーカルの中村が裏声を使っての歌唱は音程的に不安定だった。
その歌声は、絶対的ハンディキャップの哀しさが滲み出ていて、今聴けばまた違う想いを抱くかもしれないが、あの頃は歌手の個性が歌そのものを味わうことの邪魔をしているように思えてしまった。

それが何の番組だったかは忘れたが、たまたまチャンネルを回したときに映った歌番組で岩崎宏美がこの歌を唄うのを見た途端、やはりスッと自分の中に堕ちて来て、聴き終わったときには「歌が行くべきところへ行った」と強く感じた。同時に中村に対しても見直していた自分がいた。

私にとって岩崎宏美というのは、そんな緩衝材的な・中和剤的な歌手なのだ。
自分の個性に染めるのではなく、楽曲そのものの魅力を立てて唄う、無個性的個性の歌手。
岩崎が歌う「友達の詩」や「虹~Singer~」、機会があればまたじっくりとしっかりと味わってみたい。
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by hakodate-no-sito | 2011-02-02 06:51 | 歌・唄・うた | Comments(0)

山下敬二郎の想い出

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山下敬二郎が亡くなった。
71歳没。

昭和30年代のロカビリーブームで一世を風靡し、ミッキー・カーチス、平尾昌章(現:昌晃)と共にロカビリー三人男と称された歌手。

若い頃は色悪な感じの人が、後年はスリムな体型そのままに父親譲りの頭髪となり、ミイラ・・・もとい仙人(久米の・・・)のような風貌となっていたが、こういうタイプはかえって長生きするのでは、と勝手に思っていただけに驚きだ。

♪君は僕より年上と周りの人はいうけれど
何ってたって構わない 君は僕に首ったけ

名刺代わりというのか、
山敬=というのか
残酷な言い方をすれば一発屋といういうのか
歌番組に出るとほぼ必ず歌ったのが「ダイアナ」

アメリカのポール・アンカのヒット曲で、私が時折行く飲食店ではBGMはアメリカの50S、60Sのビートルズ以前のオールディーズ音楽が延々流れていて、この唄を耳にすることも多いが、私の中ではやはりこれは山下敬二郎の歌というイメージが強く、イントロが流れると日本語詩が口について出てくる。

初めて山敬の「ダイアナ」を聴いたのはいつだったのだろうか。
記憶が妖しいが、確か中学3年だった。
初期の東芝音源独得な、ポップなサウンドの後に流れる山敬の歌声の若さと
情熱に溢れた歌声に一度でコロリとイカれてしまったことを覚えている。

当時、山敬の歌はあまり復刻もされていないし(これは今もだろう)、CDも見当たらなかったし、他にも興味のあるものがいっぱいあったので、山敬のことはそれ以上追いかけなかった。だから、どの程度録音を遺していたのかも、よく知らない。

それでも名前は脳裏に刻んでおいたので、テレビ出演は数度観ることが出来た。
初めて山敬をテレビで見たとき。
若い頃の写真と歌声だけしか知らない私、どれどれ・・・とテレビのチャンネルを合わせると、トリガラのようなヒョロヒョロしたオジサンが出てきたのには番組を一瞬間違えたのかと思った。

でも、それはそれで良かったのだから面白い。
歌は若い頃とは違う印象になっていたが、独得の味わいがあって、本人は「ロートルだから、古い歌、ロカビリーとかしか歌えない」と言っていたが、ただ懐メロを歌っているのではなく、実は今現在の魅力で勝負している人だったように思える。
あの風貌を逆手に取ったトークは、低迷期の間に練り上げられたのか一流の話芸と化していて、柳家金語楼のDNAが生きていた。
(4、5人いた夫人の中のひとりの子どもで、金語楼とは関わりが薄かったそうだが)
あと、時々・・・歌っているときが大半だが、ふっと艶っぽい顔が覗くときがあり、男ながらにゾッとさせられたことがある。
なるほど、これは何度も結婚を繰り返したり、ジゴロ・ヒモが出来る訳だ、と。そのとき、やっと納得出来たのだった。

今から数年前、横浜の音楽イベントで山下敬二郎を観た。
雪村いづみ、ウイリー沖山、弘田三枝子・・・と濃い顔ぶれが集まっていたが、山敬のステージもひときわ印象深いものだった。

「俺ももうじき御陀仏さんだ、くたびれたよ」
と言いながら「アイツラも長くねえ」と平尾昌晃やミッキーカーチスをネタにし「自分は数年後の××でのコンサートの予定が決まっているから、それまでは生きる。後は知らねえ、だから生きているうちに観に来い」
など、客席の笑いをしっかりとり、
「年とって、再婚して子ども出来たから、いつまで生きられるかわからない。だから俺は母ちゃんや子どももみんな連れてきているんだ。駄目だっていう人もいるが、この年だ。もう構わねえ。おーい母ちゃん」
と何度目かに結婚した、20歳以上年の離れた夫人(これがなかなかスタイルもバツグンな美人。このあたりも血は争えない)を呼び、デュエット。
夫人も歌手なので、歌に問題は無い。
笑いと宣伝を交えながら、楽しい、キチンとしたレベルのステージになっていた。

あのイベントは、前述した人のほかにも多種多彩なな歌手が出ていたが、歌の巧さはウイリー沖山、楽しさという点では山敬のステージがピカ一だった。
(余談だが、ウイリー沖山は山敬の歌の師匠である)

亡くなってみるとその人の大きさが判る、というが、山敬の死は一人のかけがいのない良い芸人を喪ったように思える。71歳の死はいささか早い。

そういえば、父の柳家金語楼も同じような年齢で亡くなったはず。
二人とも死の直前まで現役だった。
よくよく因縁深い親子なのだろう。
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by hakodate-no-sito | 2011-01-06 07:33 | 歌・唄・うた | Comments(1)