年齢不詳な若人が唄の話を中心にアレコレと・・・


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カテゴリ:歌・唄・うた( 87 )

唄に歴史あり 「山小舎の灯」

昭和22年夏、近江俊郎は悩んでいた。
昭和11年に武蔵野音楽学校を辞めて以来抱き続けていた
"一流歌手になりたい""ヒットを出したい"
という夢が、前年の昭和21年発売「悲しき竹笛」(奈良光枝とのデュエット)で叶った。

街中を歩くと、ある者は口ずさみ、あるものはじっとラジオで流れる「悲しき竹笛」に聞き惚れている。
そんな光景を目にし、近江は心の底から喜んでいた。
しかし…それまで張り詰めていた糸がプツンと切れたような気持ちもまたあった。

10年イバラの道を歩き続け精魂尽き果てたというような疲れと、もうこれでいいという満足感
に陥り、それに加え、今後歌って行ってもこれ以上のヒットはもう出せないのでは無いか、という不安にも襲われた。

「念願のヒット、しかも古賀メロディーでのヒットだ。もう思い遺すことは無い」
「ヒットも出て一人前の歌手なったのだ。お袋も兄貴(大蔵貢)も文句は言わないだろう」
すっかり弱気になり、進退を考えていたそのとき、ある人が近江を訪ねた。

「こんにちは…近江ちゃんのお部屋はこちらですかァ?」
その日は家にいた近江、"誰だろう?でもどこかで聞いた声だな…"と思いながら玄関の戸を開けた。

「あっ!?ヨネさん…」
―今にも栄養失調で倒れそうな顔をして、ほころびだらけの国民服にゲートル姿の男。
ポリドール時代、親友の仲だった作曲家の米山正夫である。

「やっと日本に帰ってきたんだよ…」
その言葉を言うや否や倒れそうになる米山を抱きかかえるようにして、近江は部屋へ入れた。

米山正夫は戦争中にポリドールから満州/奉天中央放送局へ移り、現地で召集されシベリヤで約2年抑留、先ごろやっと日本へ帰国できたところだった。

「お~い慶子、家中の食べ物持ってこい」
近江はせかすように、台所にいた、妻の慶子に言った。

「向こうにいるとき、日本じゃ食糧不足で餓死者がどんどん出てるって聞いたぜ、いいのかい?」
「いいんだ、歌手の有難さでいろいろと物資は手に入るんだよ、親友が戻って来たお祝いだ」

見るからに心身共に弱っていた米山だが、差し出された食べ物を腹に入れたことで少し元気になった。それを見て、近江は尋ねた。
「ところでさ、ヨネさん。何か作ったものあるかい?」
「うん、1曲だけね。でも今の終戦で何もかも変わった世の中にに受け入れられるかな…」
聞けば、その曲を米山はシベリヤの収容所で、飢えと寒さに震えながら、学生時代登った山のことを思い出しながら書いたという。
「俺はこの唄を遺書のつもりで書いたんだ…」
そう話す米山の目には涙が滲んでいた。

近江は米山が差し出した五線紙を黙って見た。
すっかり黄ばみ、ところどころに消した鉛筆のあとがあった。
譜面を読み、歌詞を読んでいるうちに近江の胸にさまざまなことがよぎった。
「これ、オレに歌わせてくれるか?」
近江は真剣なまなざしで米山を見つめ、言った。

「歌ってくれるのか?」と米山。
「歌わせてくれ、きっとこの唄を世に出してみせる」
―もう、近江の心に歌手引退などという文字はどこにも無かった。
"この唄をヒットさせたい"その気持ちで一杯だった。

数日後、早速近江は『NHKラジオ歌謡』の担当プロデューサーの三枝健剛のもとへ行き、この唄を使ってくれと迫った。
三枝と近江の付き合いは古く、戦時中ニュース歌謡を歌いにくる歌手と放送担当者という間柄から親しくなり、ざっくばらんに話せる仲だった。

「朝っぱらから"黄昏"とか"君を偲ぶ"とかいうのはどうなんだろうねえ…」
三枝の反応は鈍かった。
「なに言ってるの。このメロディー、実に爽やかでしょ。このメロディーは朝の空気にピッタリ。ラジオ歌謡にピッタリ。絶対ウケますよ」
近江は執拗に食い下がった。
その熱意にほだされ、三枝はとうとう折れた。
「今回は近江ちゃんに免じてやってみよう」

こうしてNHKラジオで毎日「山小舎の灯」は流れることになった、勿論近江の歌声で。
三枝の予想を裏切り、この歌への反響はすさまじかった。
コロムビアでは、「作詩/作曲者はフリー、歌い手はウチの近江、売れること間違い無し」
ということで早速レコード化した。

近江にとっては2曲目、米山にとっては最初の大ヒット曲だった。
そして近江はコロムビアに「(米山と)専属契約して欲しい」と頼んだ。

しかし、当時のコロムビア文芸部長/伊藤正憲は
「たった1曲のヒットで、いきなり専属には出来ないよ。いくら近江ちゃんの頼みでも…。せめてもう1曲あれば話は違うけどね」
と近江に諭した。

近江は燃えた。
"親友のためにもここはもうひと頑張りしないと"
こうして、次に近江×米山コンビで作ったのは「南の薔薇」
「今ウケるのは明るい曲じゃないかな」
「日本じゃない、どこか南国を舞台にした明るい曲でいこう」
こうして出来たのが、この軽快かつ情熱的なパルドブル形式の1曲である。

同名映画が作られるほどのヒットとなり、米山はめでたくコロムビアに迎えられ、激貧生活から脱出し、また近江もソロ歌手として完全に独り立ちできたのであった。

なお、この歌のヒットで作者も想っていなかった注文が飛んだ。
この歌の歌詞(2番)に出てくる
 暮れ行くは白馬(しろうま)か
  穂高(ほたか)は茜(あかね)よ

この部分である。
こんな山、穂高はおろか、どこにも無いというのである。

しかし、この歌は発表後60余年経った今も合唱などで愛唱され続けている。
歌は心、である。
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by hakodate-no-sito | 2008-03-12 00:01 | 歌・唄・うた | Comments(0)

高英男さんが好き

「シャンソン歌手で一番好きなのは誰?」
―こう聞かれると返答に困ります。
男性歌手より女性歌手の方が好きな私、女性シャンソン歌手っている人だけでも
淡谷のり子センセを別格にしても、越路吹雪、岸洋子、中原美紗緒、深緑夏代・・・。
とてもじゃないですが一番は選べません。

男性歌手なら即答できるのです、「高英男です、断然高英男!」と。

高さんが持つ、あの独特のムードがたまらないのです。
これを世間ではアクといい、好き嫌いがハッキリ別れるのですが…。
縞の着流し姿から、フリルの着いた衣装まで何でも高英男流に着こなし、そして魅せる。
"歌は3分間のドラマ"を地で行く、歌声。オリジナルのスリシリーズ(「三人のスリの歌」「一人のスリの歌」ほか)や「小さなひなげしの花のように」などはまさにソレ。

私が初めて高さんを知ったのは2005年2月。
スタジオにいた高さんは、御歳なのですっかり御爺ちゃまになっておられていましたが、VTRを見てぶったまげました。
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顔はヅカばりのメイク、衣装は街灯のアップリケがついたギンギラギンの着流し・・・まるでサンバを踊るマツケン状態のイデタチで「雪の降る町を」を歌っている!!!

それを見て以来、私は高英男ファンとなりました。
そして、高さんのあの衣装はマツケンよりも早いことも、終戦直後から背中に羽根つけて歌い踊っていたこと…なども判ってきました。

非常に残念なのは、戦後のシャンソンブームの立役者であり、一世を風靡した大スターであるのにも関わらず、ソフト化されているものが非常に少ない。

そのため、今や高英男=ゴケミドロで石井輝男映画に出てくるアヤシイ俳優
というイメージを持つ人か、単純に知らないかどちらかしかいない…。

あの昭和20~30年代の軽やかな美しい歌声、40年代~50年代頃の円熟した妖しげな歌声、それ以後の年齢を感じさせる歌声・・・殆ど整理/復刻されることが今のところ無い。

多少音質が悪くたってイイ、何とか残っている音源をソフト化して欲しい…と私は願っています。

歌は聴いてナンボ、歌ってナンボです。
高さんのような偉大な歌手がこのまま忘れ去られるのは、私には納得いかないのです…。
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by hakodate-no-sito | 2008-02-29 22:09 | 歌・唄・うた | Comments(0)

今日は縁日ご命日

2月22日は、作詞家/作曲家/アレンジャー米山正夫の御命日。
昭和60年、1985年2月22日に72歳でお亡くなりに…。

米山さんの経歴はコチラをご覧下さい。

この米山さんという方は、現在聴いても新鮮な、大変ユニークな楽曲を多数作った方で、こと美空ひばりとの相性はバツグンでかなりのヒット曲を生み出しています。

リンゴ追分」「津軽のふるさと」「日和下駄」「やくざ若衆祭り唄」「長崎の蝶々さん」「花笠道中」「ロカビリー剣法」「べらんべえ芸者」「車屋さん」「ひばりのドドンパ」「関東春雨傘
・・・と有名ドコだけでもコレだけの数。

他の方に書いた曲ですと
関の追分(青葉笙子)
森の水車(高峰秀子/荒井恵子/並木路子)
山小舎の灯(近江俊郎)
南の薔薇(近江俊郎)
タンカーの男(若山彰)
村の一本橋(二葉あき子)
365歩のマーチ(水前寺清子)
真実一路のマーチ(水前寺清子)
いつでも君は(水前寺清子)
花はおそかった(美樹克彦)
赤いトラクター(小林旭)
みれん町(美川憲一)
三面記事の女(美川憲一)
おんなの朝(美川憲一)
恋のGT(西郷輝彦)
涙をありがとう(西郷輝彦)
初恋によろしく(西郷輝彦)
ヤンマー天気予報のうた(ヤンマーCMソング)

…半端じゃない多彩さ。
日本調に演歌、ポップス、和製ラップのさきがけまでありとあらゆる歌の総合百貨店。

今、米山正夫の名はすっかり忘れ去れていますが、生み出した楽曲は未だに瑞々しく、まばゆい光を放っています。

今日は縁日・御命日@日和下駄
遺した歌に耳を傾けるのも一興かと・・・。
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by hakodate-no-sito | 2008-02-22 00:01 | 歌・唄・うた | Comments(2)

儚く美しい女の一生

私は月を眺めるのが好きだ。
いつからかは記憶に無いが、月を見ていると、ロマンに美しさ、そして儚さを感じる。
そして、ふと唄を口ずさみたくなる。
それは例えば、「お月さん今晩は」であったり、「月がとっても青いから」であったり様々であるが、一番口について出るのが

♪河岸の柳のゆきずりに 
   ふと見合わせる顔と顔
    立ち止まり 懐かしいやら 嬉しいやら
      青い月夜の 十三夜
(作詞:石松秋二 作曲:長津義司 「十三夜」より)

この唄だ。

この唄を歌っていたのは榎本美佐江という歌手。
唄の世界そのもの…というような、儚く美しい大正のおんなでした。

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榎本美佐江(えのもと・みさえ)
本名榎本ミサエは大正13年3月13日、埼玉県川口市で生まれた。
父は鉄工所の職人。バクチ狂いで家庭をかえりみるような人ではなく、ミサエが物心つくころには母は父と別れ、ペンキ職人と再婚した。
ミサエは義父の実子として入籍され、やがて妹が生まれ、母が弟を身ごもっていたとき、義父が病死。ここから、ミサエの波乱万丈人生が本格的に始まる。

女手ひとつで一家4人を養う―昭和初期では並大抵のことではない。
この間、ミサエは小学校を4度転校している。

そんな状況を見かねたのか、別に暮らしていた父がミサエたちを迎えに来た。
父は再び母と再婚し、ミサエは他の兄妹同様父の義子として入籍した。
しかし、父の行いは以前と全く変わることは無く、家計の貧しさは相変わらずだった。

昭和9年、小学校5年のとき、ミサエは口減らしのため、浅草へ奉公に出される。
学校は浅草へ手続き上は移ったが、通うことは殆ど出来なかったため、卒業はしていない。

奉公先は、浅草六区にあった演芸場/帝京座・玉木座の劇場主のところだった。
勝手もとの手伝いの他に、芸事も仕込まれた。
同じ境遇の少女は3人いたが、ミサエが一番年少で小柄だった。
真冬でも足袋ひとつ履くことも許されず、両足はあかぎれだらけになり、辛さと親許恋しさに三畳の小部屋でひとり泣き崩れたことは一度や二度ではなかった。

時折、弟や妹をおぶって母が奉公先へ訪ねてきた。
ミサエは、それが嬉しくもあり、懐かしくもあり、そして胸の底がひやりとするときだった。
母の用事はいつも前借だった。
母たちの帰るのを、六区の池のほとりまで送っていくとき、ミサエは「うちに帰りたい」と母に繰り返し訴えるが、母はいつも「すまないが、我慢しておくれ」としか言わなかった。

やがて、ミサエは仲間の少女らと共に舞台へと出され、踊った。
一日5銭の小遣いが貰え、その5銭玉を握り、「五十番」という支那ソバ屋でシューマイライスを食べることが、唯一の楽しみだった。

初潮を迎えた13~14歳の頃、ミサエは金沢の別宅へと移り、そこから小松の映画館でモギリ嬢として通いで働き始める。
そのうち、奉公先の主家筋から養女にしたいという話がでた。
さすがの父親も驚き、それだけは…と断った。

だ、貧乏人の子沢山でバクチ狂いの父…となれば金は常に入用、借金はかさむ一方である。
昭和13年、日中戦争のさなか、15歳だったミサエは石川県能登で芸者に出された。
最初は舞妓だったが、唄の素養があり、器量良しだったこともあり、早い内に水揚げさせられ、芸子となった。

水揚げの相手は、親ほども年の違う呉服商だった。
明日は和倉の温泉地でいよいよ…という前日、ミサエは半日便所へ閉じこもり泣いた。
北国の便所は大きく深い、こと色街の便所は小座敷の広さだという。
いくら泣いても、親兄弟のためには私が我慢しなければ…という殊勝な娘。
なおさら逃れる道は無かった。
翌日、何一つ好きになれない男に連れられ歩いているとき、遠くの暗い海から海鳴りが聞こえた。それを聞いたとき、ミサエはただただ涙がこぼれた。

そんな能登の生活も一年を超えた頃、やっとミサエは東京の実家へ戻ることが出来た。
しかし、娘も親も会話を失い、もう実家は自分の住む場所ではなかった。
居心地の悪さを感じはじめた1ヶ月後、今度は大井町から芸者に出されることになった。
昭和15年、太平洋戦争の始まる前年のことである。

この大井での芸者時代、ミサエはお座敷で、万城目正と西條八十に見込まれ、コロムビアでテストを受けることになった。が、肝心のその日声が出なくなり、話は流れた。
後日、「十三夜」で美佐江が売り出したとき、西條は「あっ、あの時の・・・」と語ったという。

折角のチャンスがふいになった後、ミサエに落籍の話が出る。
花柳界の泥水に一向になじめないでいたミサエを、軍用飛行機の計器工場を経営していた客が救う気になったのだ。遊びなれた32歳の男だった。

「そんなにこの世界が嫌なら、やめて嫁にいきなさい」
そう言われてミサエは首を横に振った。
親兄弟のため、まだまだ稼ぐ必要があった。
しかし、その客のことは決して憎からず、また惹かれていた。

こうしてミサエは大井の芸者稼業から足を洗い、一軒屋を持たされ、女中も付けられて、ままごとのような、妾としての生活が始まった。

男は、妻子を別に、ほかに妾が二人いて、ミサエのもとには週に一度泊まりに来るような生活だった。

18歳のとき、身ごもり、男の子を出産した。
日陰の子供なので、両親の子、つまり弟として届けた。
その子は達彦と名づけた。
しかし、産後の肥立ちが悪かったのか、生後まもなく亡くなってしまった。

達彦が亡くなった後、ミサエは大村能章の日本歌謡学院へ入学し、本格的に、好きな、唄の勉強を始めるが、戦況の悪化に伴い、殆どが軍隊や工場への慰問だったという。
その中でも霞ヶ浦で、少年航空隊の前で歌った事は忘れられないと語っている。
また、この時期、テイチクが外地(ビルマ)へ送る慰問レコードを塩まさると吹き込んでいると、塩まさるが語っている。

昭和21年10月、父が心臓弁膜症のため、51歳で死去し、ミサエは母やきょうだいを引き取る。
それもあり、肉親が気を遣い、ミサエは日陰者の辛さが身にしみた。

昭和22年、テイチクから「あなたにはわからない」でレコード・デビューを果たす。
また女優としては新東宝に所属となった。
同年、映画「東宝千一夜」に出演予定だった市丸の代役として急遽出演が決まる。
このとき、持ち歌が無かった美佐江に、テイチクから渡された曲が「十三夜」だった。この唄は昭和16年、小笠原美都子の歌唱で世に出たが、さしたるヒットには繋がらなかった曲である。

この映画の宣伝のため、映画館での実演で各地で「十三夜」を歌ううちに、榎本の人気は高まり、「十三夜」は榎本のヒット曲として広く認知された。しかし、当時の持ち歌の概念などから、この曲を吹き込むことは無かった。

昭和24年にはビクターへ移籍。
これと前後する頃、大井以来の男とは別れた。
「楽ではないけど、どうにかやっていけると思う。こういう生活を続けているの辛いから、別れて下さい」、美佐江はこう言って別れを切り出した。
男とは争いになることもなく、また持ち家もそのまま渡してくれた。

昭和25年、あきれたぼういずや暁テル子らと共にハワイ興行へ。
このとき、初めて芸者姿で歌い喝采を浴びた。以後この芸者姿はトレードマークとなる。
そして、時代は朝鮮戦争による軍需景気で、お座敷ソングが流行を見せ始め、榎本の人気はさらに高まっていった。
昭和27年には鶴田浩二と歌った「弥太郎旅唄」がヒット。
翌28年には「お俊恋唄」がヒットし、初主演映画「初恋おぼこ娘」が公開。
まさに人気絶頂だった。

そんな榎本に再び転機が訪れる。
昭和29年の夏、テレビ番組の仕事で国鉄スワローズの選手だった金田正一と出会う。
美佐江に一目惚れした金田は、人の目をまったく気にせずアタックを続けた。
出会ったその日に後楽園球場へ連れて行き、試合を見せ、終わると食事へ連れて行った。
その後も映画や麻雀に度々誘った。
また、巡業先にもまめに顔を出し、衣装等の荷物はすべて金田が持って歩いた。
それが出来ないときは、長距離も気にせず電話をかけた。
誠意と真情を惜しげも無く示す金田に、今まで大事にされた記憶の無い美佐江は徐々に心を開いていった。

9歳の年齢差、美佐江の過去、金田の国籍・・・こんな問題も何となく判りあい、金田のお膳立てに乗る形で、榎本は嫁いでいった。
式は昭和30年3月28日、東京・赤坂の日枝神社で行われた。
天気は雨だったが、榎本の心は幸福で一杯だった。

人一倍淋しがり屋の金田は結婚後も美佐江が仕事を続けることは不満だった。
勿論、榎本にも契約上の問題、人気面、そして面倒を見なければいけない家族がいることは承知だったが、不満と寂しさは隠せなかった。
このこともあり、結婚3ヵ月後に榎本は芸能界を去り、家庭の人となった。

結婚後、金田は亭主関白となった。
世話女房になりきったミサエをどこでも連れて歩き、また平然とのろけもした。
やがて、おしどり夫婦と世間から評されるようになった。

野球選手の妻としての苦労は絶えず、ミサエは気が休まる日は無かった。
しかし、幸福だった。

昭和35年2月、金田は帰化し、ミサエとの婚姻届を出す。
しかし、この直後から夫婦生活にひびが入り始めた。

昭和36年、金田は愛人とのもとに男児をもうける。
のちの金田賢一である。

「どうするつもりなの?」
「お前とは別れる気は無い。このまま辛抱してくれ」
ミサエは金田を信じてひたすら耐えることにした。

翌37年、今度は金田は女児をもうけた。
賢一出産前から愛人の存在はひろく知られており、ミサエのもとには週刊誌の取材が殺到した。が、その攻勢をひたすら笑顔でかわし続けた。

昭和38年1月、ミサエは単身ハワイ旅行へ1ヶ月間出かけた。
気持ちの整理のためである。心は既に決まっていた。

その直前、ミサエのもとに、金田は息子を連れてきた。
馴染みの無い空気に赤ん坊は泣き止まなかった。
明日の試合に差し支えてはと、一晩中抱いたりおぶったりして過ごした。
「子供に罪はない」―ミサエは人知れず涙を流した。

そして、ミサエは金田の財布の中から、違う女性の写真を見つけてしまった。
「それがはっきりしたとき、もうこの人とはやっていけないと思ったんです」

帰国後、チャンスを見計らい、「別れて下さい」とミサエは言った。
金田は別れてくれるなとも言わず、もう引き止めなかった。
4月末、身の回りにものだけを運び出し、鏡台などは残したまま、家を出た。
金田はその4ヵ月後の8月、その愛人と再婚した。

慰謝料は一千万、ただしハワイ旅行代と実家をアパートへと建て替える際の資金合わせて300万をその中から金田へ返した。
―派手な生活の実情は、家庭を預かっていたミサエが誰よりもよく知っていた。

週刊誌は「石女の悲劇」と書きたて、糟糠の妻として尽くしてきたミサエに同情的で金田への風当たりは強かった。しかしミサエ自身は金田への批判等は一切しなかった。

古巣/ビクターでは、吉田正や市丸の後押しもあり、再デビューの話が持ち上がった。
女中奉公でもしてくらそうと思っていたミサエは感謝の気持ちで一杯だった。
再デビュー曲は「後追い三味線」に決まった。

同情株もあったが、ミサエの心境を歌ったかのようなこの唄は大ヒットし、歌手/榎本美佐江は見事カムバックに成功した。続いて出した「お別れさのさ」「三味線一代」もヒットした。
昭和40年には満を持して「十三夜」を吹き込んだ。

昭和40年代に入り、世に懐メロブームが起き、榎本は引っ張りだこになった。
当時、榎本のギャラは大御所である淡谷のり子らと同格だったという。
懐メロブームの沈静後は、ムリに仕事をせず、仕事は月10日程度に抑えた。

元気だった頃、榎本はこう語っている。
「歌えるかぎりは歌って、あとはなりゆきまかせ。あまり年もとらないうちに誰の迷惑にもならないうちに死にたい」
自分の半生を嘆き哀しむことは一切せず、淡々としていた。
「弱いようで、強いんです、私」

平成5年、美佐江は心臓を患う。
このときは回復し、仕事に復帰したが、平成10年に大腸ガンであることが発覚、入院。
しかし、既に病状は悪化しており、9月23日没。享年74。

元夫の金田正一のことについては
「金田ともう少し一緒に暮らしていたら、きっと憎みもしたし、嫌いにもなったと思う。そうならないうちに別れて良かったとつくづく思うの」
「街で思いがけず、(金田に)会うと何だか恥ずかしく照れちゃうのよ。『どう。元気?』って言われてもなかなか声が出ないの。…まだ好きなんですね(笑)」
…生前、こう語っている。

そんな金田だが、子供とはテレビやCM競演などを数多くこなしているが、再婚した妻の露出は極力避けた。金田なりの榎本への配慮である。

そして、最晩年、美佐江の病状を聞き、何度か見舞った。
「見舞いに行ったのは当然のことです。他人ではなかった人ですからね。病状も進んでいましたが、可愛らしい雰囲気は変わっていなかった。20分ほど、いろんな話をしました。…ワシが来たことをすごく喜んで、涙ぐんで手を伸ばしてね。今はワシにも家族がありますけど、でも、終生、大事な人でした」
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by hakodate-no-sito | 2008-02-21 05:23 | 歌・唄・うた | Comments(4)

今もなお胸に・・・ お恵ちゃんの想い出

私は所謂懐メロ番組というのが大好きで、そういう番組が放送されると録画した上で視聴…ということをよくやるのですが、お恵ちゃんが亡くなってからは以前ほどの熱は覚めました。

今も懐メロ番組は見ているのですけども、どうしても虚しさがこみ上げるんです。
「ここでお恵ちゃんが出れば盛り上がるのに…」
「どうしてお恵ちゃんがいないんだろうか…」
特に「思い出のメロディー」「夏祭りにっぽんの歌」「年忘れにっぽんの歌」を観ると…。
気がつけば泣いているときすらあります。

私が初めてお恵ちゃんを観たのは、NHK-BSで放送していた立川談志の番組にゲストで出た時。これが記憶にある最初だったと思います。

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「何なんだ、この人は!?」
確か真っ赤なドレス(勿論、例の落下傘スカート)で『未練の波止場』か何かを歌ったような記憶があります。
愛媛訛りの、でも笑顔が素敵な若々しい可愛らしい人だな…そう思ったことを覚えています。

それから数年後、懐メロ番組を積極的に観るようになり、そこには常にお恵ちゃんがいました。
「なんでいつも同じ3曲のローテーションなの?」
と選曲に不満を持ちながらも、その歌声、そのパフォーマンス、衣装…楽しみにしていました。

高校3年の秋、さすがに大学受験でバタバタしていて、懐メロ番組のチェックも疎かになっていました。

そんな時、私の知人がこんなことを教えてくれました。
「お恵ちゃんが歌の間奏で『あともう少しだけ命を下さい』とか言ってたよ…」

確かにここ数年痩せては来ていましたし、「体調良くないのかな?」と思うこともありましたけど、すぐ元気そうな様子を見せてくれていたので、「まさか…」と思っただけでした。

2005年12月31日、「年忘れにっぽんの歌」にお恵ちゃんが出てきました。
…さすがの私も不安になりました。顔に生気が無い、痩せ過ぎている。

しかし、それでも「たまたま体調が悪かっただけだろう…」と私は思ったのでした。
今、その映像を観ると死相が滲み出ていますし、間奏のコメントも意味深で、「覚悟があったのかな」と思うのですが…。

そして、2006年3月19日、衝撃的な、そして決定的なニュースが飛び込んできました。
"松山恵子、テレビ番組収録中、肝臓癌告白"

衝撃でした。本当にショックでしたし、一瞬めまいすら起きました。
「あのサービス精神の権化が、並外れた芸人根性を持ったお恵ちゃんが、こういうことを言うなんて…ただ事ではない、これはもう…」
ひたすら奇跡を信じる想いで、再起のニュースがあることを待ちました。

でも…その願いは叶いませんでした。
2006年5月7日、お恵ちゃんは旅立ってしまいました。
翌日、そのニュースを聞き、腰が抜けました。
しばらく言葉を失いました。

亡くなってから、お恵ちゃんの素晴らしさというか、偉大さというか、存在感/華がいかにあったか…様々なことを痛感します。

生前「こんな歌手はオンリーワン、ちゃんと目に焼き付けておかないと…」と思って見てはいましたが…。

私にとって「プロ」とは何ぞや、「ホンモノ」とは何ぞや、そういうことを教えて頂いた、そんな歌い手でした。

生涯独身(亡くなる少し前に長年共にしたマネージャーを養子にして、財産を残してあげたそうですが)、お父さんは交通事故死、お兄さんのひとりは失踪、交通事故での輸血が原因で肝炎を患いそれがやがて癌に…と決して恵まれていたとはいえない私生活。

でも、そんな影は微塵も見せず、いつも笑顔で、楽しいステージを見せてくれたお恵ちゃん。
頭が下がる思いです。

「ゆっくり休んで欲しい…」
そう思うべきなのでしょうが、今はまだ、そうは思えないでいます。

「もう一度逢いたい」
「もう一度あのステージを見たい」
叶わぬ夢と知りながら、懐メロ番組を見る度にこう思い、切なくなります。

もうじき3回忌…。
去るものは日々に疎しと言いますが、"松山恵子という素晴らしい歌手がいた…"ということは忘れて欲しくありません。

せめて私だけでも、胸に留めていきたい…そう思っています。
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by hakodate-no-sito | 2008-02-20 02:29 | 歌・唄・うた | Comments(0)

深緑夏代を聴く

私は、中学3年に越路吹雪さんに魅せられて以来、シャンソンも少しかじるようになりました。
あちらの歌手だとジルベール・ベコー(ほかにも聴きますけど)。
日本の歌い手だとコーちゃん、高英男さん、岸洋子さん、中原美紗緒さん…。

もっと聴いてみたいと思わないでもないのですが、なかなか機会がなく…。
シャンソンは実力が無い歌い手だと自己陶酔にしか、私の目には見えないのです。
CDを…と思っても、人によってはCDアルバムはまともに出ていないのです。
こうなると「もっと知りたい、聴きたい」と思ってもどうにもならず…。

高英男さん、中原美紗緒さん、深緑夏代さん
…私が敬愛する(日本の)シャンソンの歌い手で、なかなか音源も映像も見ること/聴くことが叶わない人です。

もう、中古レコード屋を覗きにいっては探しますがなかなか…。

そんな、垂涎の歌い手だったひとり、深緑夏代さんのCDアルバムが最近やっと入手出来ました。何と公式サイトで販売していたのです。

深緑さんは「私はシャンソンが好きなの。レコード歌手じゃなくてシャンソン歌手でありたいのよ」
と、あまりレコード/CDの類を出していないのです。
発売された数少ないレコードやCDも殆どがライヴ録音です(宝塚時代のSP盤、それは別にして。でも、あの時代はバンドとの一発同時録音だからスタジオライヴと言えなくもない)

なので、この3枚組もその殆どがライブ音源。
レコードからの起こしや、資料用音源から・・・だったりで音質的にはGOODとは言えませんが深緑さんの迫力/凄み/パワー・・・その他もろもろは充分過ぎるぐらいに伝わってきます。
こういう歌い手がいる、そして現役で今もなおエネルギッシュに歌い続けている。
…もう奇跡としか言いようがありません。

私、去年深緑さん(と妹の千秋みつるさん…多分)と少しの時間だけお話させて頂いたことがありますが、もう年齢を感じさせない若々しさ。歩くスピードからして違います。
受け答えもピンシャンしていて…。ざっくばらんに応対して頂きました。

あまりにパワフルな姿に正直、自分の知ってる経歴は間違っているのかと目を疑いました。

そのとき観たステージも、感動モノでした。
(それなので、どうしても本人にお会いして一言御礼を申し上げく、おしかけたのです)

深緑さんはトリで2曲歌いましたが、1曲は舞台中を駆け回りながらの軽快なナンバー(パリ・パナム)、もう1曲は深緑夏代しか歌えないナンバー「生きる」。

この「生きる」が素晴らしかったのです。

好きなように生きた私だから
死の訪れなど怖くなかった
やり残したことは沢山あるけれど
やる事はやった人の倍ぐらい
生きる 生きる 今になって私は
生きることの貴さを知った
(訳詩:矢田部道一)

凡百の歌い手なら、歌いきれるものではありません。
でも…深緑さんの実力、シャンソンを歌い続けて半世紀を超えるキャリア、そして年齢(86歳)、張りのある歌声…ありとあらゆる状態が密接に絡み合い…。

会場はすすり泣く声、ブラボーの掛け声、唄の衝撃のあまり呆然とする人・・・様々でした。
ステージが終わった後も「いや~最後のお婆ちゃん、凄かったわね…」と口口に大絶賛でした。

一昨年、「パリ祭」で深緑さんが『愛の讃歌』を歌ったときも全く同じ現象がNHKホールで起きました。

今流行りの言い方ですと歌力・・・これが半端じゃないのです、深緑さんは。

…このアルバムを聴きながら、ふと自分が見たステージがフラッシュバックして、グッと来ている私です。

このアルバムの全曲目は公式サイトには載っていないので、私の方で紹介させて頂きます。

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現在(いま)、わたしは
1996年 FNCD-001~3 8000円

Disk1 歌・この不思議なるもの
01水に流して
02ジプシーの恋歌
03不思議ね
04アコルディオン弾き
05愛の道
06商売やめた
07セ・フィニ
08生まれなかった子供への手紙
09それぞれのテーブル
10愛の讃歌
11雪が降る
12インシャラー
13愛は君のよう
14メランコリー
15死刑囚
16すりきれたレコード
17白衣
18神様


01~09)「歌・この不思議なるもの」(西武パルコ劇場/1983年)
10~14)「愛の讃歌」(日本コロムビア/1975年)より [スタジオ録音/LP起こし]
15~18)「深緑夏代リサイタル」(郵便貯金ホール/1972年) [発売:コロムビア/LP起こし]

Disk2 芸術祭賞受賞記念
01子供の頃
02英霊たち
03激戦地
04二つのドイツ
05にもかかわらず
06娘に
07永遠の絆
08老夫婦
09死
10無関心
11逝きにし人達
12雨のブリュッセル
13帰り来ぬ青春
14愛しい悪魔
15ベッシイ
16通り過ぎる男達
17私は私
18生きる

※深緑夏代リサイタル「歌・この不思議なもの」(1992年10月) 
※芸術祭賞受賞

Disk3 現在、わたしは
01セ・シ・ボン
02パリ野郎
03知らない街
04真珠色の思い出
05二人は恋人
06私は出来ない
07ローラのベッド
08神の思いのまま
09貴婦人
10人生の輪
11春を待つ
12首吊り男
13私の孤独
14パダムパダム
15私の村は水の底
16恋の友達
17それが愛


01~10)新録音
11~17)深緑夏代レコーディング・ライヴ(1988年)

勝手ながら…公式サイトも紹介させて頂きます。
http://www.fukamidori.com/

http://ja.wikipedia.org/wiki/深緑夏代

最後にひとつ戯言を…。
Disk1に収録されている、コロムビアから出たレコード2枚を手掛けたのは、東元晃さん。
深緑さんのお弟子で、のちにはテイチクの社長にもなった方。
この方が担当した歌手のひとりに、ちあきなおみさんがいます。
1981年にちあきさんと東元さんのコンビでシャンソンアルバム「それぞれのテーブル」がビクターから発売されていますが、ちあきさんも何らかの形で深緑さんのステージ見ているのかも知れませんね。
ちなみに「それぞれのテーブル」はお二方とも同じ訳詩(訳:まさきみき)で歌っています。
まったく違う解釈で歌っているのが興味深いです。
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by hakodate-no-sito | 2008-02-17 23:37 | 歌・唄・うた | Comments(2)

私と江利チエミ

2月13日は江利チエミの命日。
なので、ちょっとチエミの話を・・・・

私が初めて江利チエミの歌を認識したのは確か中学3年の頃。
毎年、NTVが年末に放送する「天国のスタァ」という番組ででした。
私はその年(2002年)亡くなった村田英雄の映像見たさに番組を見ていたら、チエミの映像が出てきました。

「カモナ・マイ・ハウス」を歌う映像にチエミ紹介のナレーションがかぶさり、やがて「テネシーワルツ」の映像が。

♪I was waltzing
with my darlin to the tennessee waltz

横文字がまるで駄目な私なのに、何かグッとくるものがありました。
そして、うるんだ、あの人一倍大きい目に惹かれた。

「これが三人娘のひとり、江利チエミか・・・」
それまでは何かの本かテレビで見た、"脳卒中で嘔吐物が吐き出せずひとり窒息死"という悪夢のような亡くなり方だけが私の頭にインプットされていなかったのですが、こうして認識が変わりました。

とはいえ、その時は高校受験真っ只中でそれっきりで…。
高校入って、少ない小遣いヤリクリして、何とか全曲集を1枚買ったのですが「マァマァかな…」でチエミへの熱は再び冷めてしまいました。

それから数ヵ月後、あれは夏頃だったと思います。
父が友人から、レコードプレーヤーをタダで貰って来て私にくれました。
「何か貰ったんだけどよ…。ま、動くから何かレコードでも買ってかけてみろ」

しかし、私は日々の生活に追われてバイトひとつ出来ない貧乏高校生。
中古レコード屋で1枚買うと他にはモノを買えない状態・・・。
「う~ん、アッ…」と、学校の近所にあるハードオフへ。
1枚50円の中古EP/LPコーナーをガサゴソ・・・。
そこで見つけて買ったのが、お千代さんとチエミさんでした。

チエミのそれは「酒場にて」というシングル。
A面はCDであるので、B面をかけました。
曲名は「陽気なスージー」、チエミさんのリズム感の良さに、まったくソレが無い私はグッときました。

それからほどなく江利チエミのファンサイトを発見し、書き込みして、ご常連の熱烈ファンの方々に大小さまざまに、江利チエミのことに限らず沢山のことを教えて頂きました。

やがて、歌に限らず、芝居、そして何より人柄へも惹かれていきました。

今もそのサイトはありますが、管理人のチエミへの考え方の問題で私は出入りを止めています。ただ、そのサイトで知り合ったファンの方たちとは今でも仲良くさせて頂いてます。
チエミの取り持った縁・・・ちょっとキザですが、そう思わせて頂いています。

実は何度かチエミに対して関心が全く無くなった時期もありました。
でも、いつしかふと気付けば、やっぱりチエミを聴いていました。

乱読ならぬ乱聴・・・って感じで、本当にイロイロ聴きましたが、今チエミは私にとってなくてはならない基本ラインの歌手のひとりなのです。これは一生モノです。

江利チエミは私の中に永遠に生きている
・・・こんなキザな台詞、私には全く似合いませんけども、偽りの無い本心です。
「リアルタイムじゃない人間がこんな台詞吐くな」
とお怒りになる人もいるでしょう。
…でも、私の中で江利チエミは動いているんです。歌っているんです。芝居してるんですよね。

チエミの命日にちょっと本音で想いを綴ってみました。

江利チエミ。
本名:久保智恵美
1937年1月11日生まれ
1982年2月13日没
戒名:天晴院詠誉才智恵美大姉

♪想い出なつかし あのテネシーワルツ 今宵も流れくる 
    別れたあの娘よ 今はいずこ 呼べど帰らない
♪去りにし夢 あのテネシーワルツ 懐かしい愛の歌
    面影偲んで 今宵も歌(うと)う 麗しあのテネシーワルツ
(訳詩:和田寿三)
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by hakodate-no-sito | 2008-02-13 00:01 | 歌・唄・うた | Comments(3)