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題名のない音楽会 雪村いづみ わが心の歌

「題名のない音楽会」というテレビ番組があります。
現在でも続いていますが、この番組というとやはり初代司会者の黛敏郎の印象が強くあります。
クラシックにとどまらず、非常に多種多彩なかたちで音楽の楽しさ・素晴らしさを伝えた名番組です。

黛が亡くなって久しく、未だCSでの再放送もなく、観る機会はなかなかありません。
私の愛する歌い手も多く出演していますし、何とか拝見の機会がないかと思っているのですが、なかなか難しいです。それでも様々な方々の御好意で、数度その機会を得ることが出来ました。
以前、高英男出演の回を備忘録がわりに記しましたが、今回は雪村いづみ出演の回を記しました。

なおこの頁は、特にYさま、Mさまのおかげで書くことが出来ました。本当にありがとうございます。

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オープニングを飾るのは「テネシーワルツ」
雪村が「親友と呼べるのはこの人だけ」と語る、江利チエミの代表的持ち歌。
江利の歌唱とはひと味違う、伸びのある歌声で懐かしのポピュラーソングを聴かせます。
江利の歌声は言うまでもないですが、1985年にNHKホールで公開録画が行われたテレビ番組「思い出のメロディー」で、雪村と雪村のデュエットで披露された「テネシーワルツ」は忘れることは出来ません。美空の歌声のサポートに徹する雪村の歌声は実に輝いていました。

続いて「リンゴ追分」
こちらは三人娘の盟友・美空ひばり。
オリジナル準拠ながらもジャズ度が高い編曲は前田憲男のものではないかと思われます。
雪村の、まるで白人歌手のようなな歌い方も相成って、米山正夫の曲の良さが引き立っています。

ジャズ調の間奏に乗る、司会者・黛敏郎の語り。
「江利チエミうたうテネシーワルツ、美空ひばりのリンゴ追分。
戦後荒廃した焼跡に流れた、この二つの歌声によって、心を慰められた日本人は決して少なくなかったはずです。
この、チエミ・ひばりと並んで三人娘と言われた雪村いづみが『想い出のワルツ』を引っ提げてデビューしたのは昭和28年。雪村いづみ16歳のことでした」

「想い出のワルツ」
黛の語りでも紹介されています、雪村いづみのレコードデビュー曲です。
ポピュラーソングにクラシック音楽を合わせたような編曲、おそらく前田憲男なのでしょうが
これもソフト化されていないアレンジ。
2006年に私が観た舞台での話ですが、舞台へ出て来た雪村、どうも風邪気味だったらしく歌にキレがありません。
ところが、この歌をうたうとき、それまでの不調を吹き飛ばすような張りのある歌声を披露したことを今でも忘れることが出来ません。
雪村にとって、この歌は声質にも有った大事な持ち歌なのでしょう。

ここまで3曲、ワンコーラスづつ、メドレーでの披露でした。
舞台後方に三人娘が写った拡大パネルが掲げられていまして、1曲ごとに持ち歌にしていた歌手の顔がアップにされ、カメラに映し出されています。

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黛:「雪村いづみさんです。
今年になりましてから、雪村いづみさん、この番組に1度出て頂いたんですが、そのとき彼女は重大な発言を致しました。
"この3月20日で、ワタシ50の声を聞いちゃうのよ"と、こう言うんですね。
こういうことを言う日本人歌手はまことに珍しい。屈託のない彼女の人柄がにじみ出ているんですけども…本当にそうなんですか?」
雪村:「本当は四十なんです」
黛:「ああそう。四十にして随分老けてらっしゃいますね」
雪村:「ウワッ(と笑う)」
黛:「ま、とにかく歌い始めて35周年というのは本当?
雪村:「はい、そうなんです」

1987年6月の段階で、三人娘は江利チエミは既に亡く、美空ひばりは病いの床に伏していました。
その淋しさ・哀しみのなかを、笑顔でひとり歌い続ける雪村に、節目ということの他にエールを送る意味でも、番組でお祝いの企画を組もうと考えた黛敏郎の見識にまず感服。
「題名のない音楽会」は音楽の楽しさ・素晴らしさを紹介する名番組で在り続けた理由は、黛の尽力によるものであったことを実感させられます。
失った人の大きさが年々判って来ます。

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続いて黛、雪村いづみの芸名の由来の裏話や、初代三人娘の素晴らしさを指摘し、日本人で初めて「Life」誌の表紙を飾ったことに触れます。
黛:「歌唱力も演技力もあるいづみさんですから、日本のミュージカル界が放っておく訳はないんで、日本のブロードウェイミュージカルの確か第2作ですよね。
マイ・フェア:レディをチエミさんがやって、そのすぐ後ノーストリングスを、これを貴女がお演りになった」
雪村:「はい、菊田一夫先生がね、(まだ)お元気で、演出して下さいました」
黛:「昭和39年だったと思います」
雪村:「あっ、そうですか」
黛:「僕あのミュージカル、好きでね。とっても小粋な、洒落たね…当時大ぜい出てきて歌ったり踊ったり派手なのが多かったなかで非常に小粋な、登場人物も少ないし、音楽の編成も小さいし、まあ室内楽的なミュージカルでね、僕は貴女にぴったりだったと思うし…」
雪村:「粋だったですね」

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ここから雪村出演の名作ミュージカルのナンバーより4曲がメドレーで披露されます。
舞台後方には、出演時のスチール写真が拡大されパネルに張られ、設置。
曲の始まりの際には、1枚づつカメラに映し出されます。
なお、4曲共に英語での歌唱です。

ノーストリングスより「The Sweetest Sounds」
メイムより「Mame」
ウェストサイドストーリーより「Tonight」
マイウェアレディより「I Could Have Danced All Night」


「ノー・ストリングス」は1964年に芸術座で初演が行われました。
歌の訳詩は雪村本人が手掛けた、これだけでの雪村の熱意が伝わってきます。

水谷良重は、この舞台をアメリカで6回も続けて観るぐらいに気に入り「これをやらせてもらえるなら」という菊田一夫との口約束で松竹新派から東宝演劇部へ移籍します。
ただ、主演でという話は反故にされてしまい、水谷(良重)は菊田に涙の直談判を行い、菊田じゃ平謝りで「他の役なら何でも演らせるから」というヒトコマがあったとか。

これが遺恨を呼ぶ・・・となればゴシップ好きにはたまらないのでしょうが、ふたりは映画「青い山脈」で競演して以来の友人関係にありました。雪村も出来た人ですが、水谷も出来た人です。
それはそれ、これはこれ。サッパリと、楽しく舞台づくりをしたようです。

話がそれたついでに、水谷がラジオで話していたことを書きます。
数年前、NHKのテレビ番組の企画で水谷と雪村が競演したときの話です。楽屋が少ないということもあり、水谷は七光り三人娘の同士である朝丘雪路に東郷たまみと、楽屋が一緒になりました。
久しぶりに顔を合わせた三人、話はするものの、昔のように和気あいあいとはいかず、どこか距離感があったそうです。
そこへ、雪村がドアを開けてポーンと入って来て「アンタたちは良いわねえ、アタシたったひとりになっちゃった」(水谷、雪村が舞台でのトークで話しているような口調を真似ています)と言ったのだそう。それを聞いた途端、三人ズキンと応え、水谷はふたりがとてつもなく愛おしく思えてならなかったのだそうです。

この話、水谷はあくまで出来ごとと自分がそのとき思ったことだけを話していたのですが、私は憶測で物を言います。どうも、雪村が、三人の様子を察するか入口の前で眼に入ったか聞こえて来たので、それとなく機転を利かせたんじゃないかと思えてなりません。また、水谷もそれに勘付いているんじゃないかと思います。

「どんなにかトンコさんが淋しいだろうな」と、話す水谷の口調はあたたかさに満ちていました。

話を戻します。
出演者は雪村いづみ、高島忠夫に、先述の水谷良重(現:二代目水谷八重子)、藤原義江というのは知られていますが他にも浜木綿子、久慈あさみ、岡田眞澄、ジェリー伊藤、山田芳夫、早川令子といった顔ぶれが出演しています。前田美波里は、この舞台でのエキストラ出演が初舞台となったそうです。

「メイム」は1973年に日生劇場で上演されました。
これはもとは越路吹雪主演で幕が上がっていたのですが、肋骨を痛め舞台へ出演出来なくなります。
(製作側と何らかのトラブルが発生し、越路が怪我を理由に舞台を降りたという一説もあります)
急遽雪村へ代演の話が持ち込まれ、たまたま江利チエミから切符を譲られ初日の舞台を観ていたことも助けとなり、3日間で台詞や歌に踊りを叩き込み
幕を上げることが出来たという、雪村いづみ史でも有数の伝説です。

そして、この舞台が縁となり1974年、浅利慶太から「ウェスト・サイド・ストーリー」へマリア役での出演の話が持ち込まれます。
ミュージカルで使用される音域と、自分の音域の違いにボイストレーニングを行い必死で格闘し、上演中は足の指の骨折というアクシデントに見舞われながらも
演じ切ったというステージでした。

「マイ・フェア・レディ」は1976年に地方巡演というかたちで宝田明らとともに上演しました。
日本初演時、当初イライザ役は雪村いづみで行こうという話があったのですが、当時はアメリカで子育てに専念するつもりでいた雪村は辞退しました。
そしてイライザ役になったのは江利チエミでした。江利は、アメリカへ雪村のもとへ遊びに行った際も菊田一夫からのことづけを伝え出演を薦めたそうです。
そんな関係から、雪村は江利に悪いと悩みますが、既に江利が演じなくなって大分経っており、既に那智わたる、上月晃らも演じていたこともあり、引き受けます。
「踊り明かそう」は1965年にレコード吹き込みを行っており、CD化もされています。また近年もテレビ等でも歌われる機会があります。

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黛:「美空ひばりという人は演歌の女王であると同時に銀幕の女王でもありました。
また江利チエミさんは、ミュージカルのスターでありましたけれども、しかし、それよりもサザエさんその他で、お茶の間の人気者という色彩が強かった。
ひとり雪村いづみは歌ひとすじという感じがします。私も今、あの歌を聴いていて感じたんですけれども
たったひとつ彼女に欠点をあげるとすれば、それは歌がうますぎるということです。
あまり歌がうますぎるために、その…何ていうか…ついていけないような気持ちがする、ということが、たったひとつの欠点といえば欠点。
私、これ決して欠点ではない、最大の長所だと思うんですが、そういう感じがする」

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黛の、雪村への指摘はさすがです。
雪村いづみというひとは、90年代には自ら「コンビニ歌手」と称するほどに多種多彩なジャンルに挑戦し成果を上げて来ました。
ジャズ、ポピュラーソング、ミュージカルに、ニューミュージック、流行歌、シャンソンなどです。
音楽に対する人間の許容範囲は、残念ながら広い方ばかりではありませんし、好みがハッキリ出がちです。
それに加えて、日本人は何かのジャンルひと筋と絞っての活躍を好み、マルチな活躍をする人を軽んじる傾向もあります。

黛は言及していませんが、雪村は映画女優としても活躍しベルリン国際映画祭へも日本代表として参加した経験もある人です。
美空、江利の偉大さに隠れがちであることに加え、雪村の謙虚な姿勢で、なおのこと捉えにくいのですが、雪村いづみは偉大なひとなのです。

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黛:「リサイタルのときに、いつもお客が必ずリクエストする歌がある。それは『約束』という歌です。この歌を作ったのは当『題名のない音楽会』の構成者である藤田敏雄さんですが、藤田さんはご自分でこういうことを言っておられる。
"自分はこの歌を作るときに、ジャック・プレヴェールやポール・エリュアールのような、フランスの詩人たちがシャンソン・リテレールという歌を作った、そんな心構えでこの歌を作った"と言うんですね。
シャンソンリテレールというのは文学的なシャンソンという意味です。
そして、藤田さんはシャンソン・リテレールの精神と、さらに言うならば、たとえば『戦友』とか『孝女白菊』とか言うような日本の古い歌謡曲にある、あの物語性ですね、叙事性。日本の歌というものには叙情性はあるけれども叙事性が無いんです。物語が無い。ドラマが無い。
そういうドラマを、自分はこの歌に込めたかった。そして作ったのが『約束』という傑作の歌でした。
前田憲男さんが、まあほぼ処女作といっていいぐらいの、作曲を付けた歌です。
この歌は非常に長い歌なんです。ですから、テレビの番組ではなかなか歌ったことがない。
おそらく、あまりお聴きになった方もいらっしゃらないかもしれない。
しかし素晴らしい歌です。最後にこの歌をうたって頂いて番組を閉じたいと思います」

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昭和30年代半ばに作曲家の吉田正は歌謡組曲というかたちを試み、芸術祭参加リサイタル等ではそれが取り入れられるようになりましたが
一般的とまではいきませんでした。
それを破って登場したのが、丸山明宏(現:美輪明宏)の「ヨイトマケの唄」であり、雪村いづみの「約束」でした。
両横綱が開拓をおこなったのち、昭和40年後半に差しかかり、さだまさしが登場します。

雪村がさだまさしの唄に惚れ込み、さだ作品を唄うアルバムを出し、コンサートを行ったのは必然の流れだったのでしょう。
さだも先輩である雪村に敬意を表し、「虹 ~I'm a Singer~」という曲を書き下ろし彼女に贈りました。
これも雪村のコンサートでは欠かせない1曲です。

「約束」には多くのエピソードがあるのですが、長くなるのでここでは触れずにおきます。
歌唱力だけではなく、女優としての演技性も求められる大変難しい歌で、名曲として知れ渡っていてもカバーする人が殆どないのは、それを物語っているのではないでしょうか。
舞台で創唱した淀かほる(雪村盤が話題になった後、コロムビアからシングル盤が発売されました)、歌を広めた雪村いづみ、この両者のほかにはアルバムに岸洋子が吹きこんでいる以外に私は知りません。

今ふたたび脚光を浴びて欲しい1曲です。

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雪村いづみの歌い手としての顔はいくつもあります。
ただ、近年では三人娘のふたりの歌を歌い継ぐ面ばかりが強調されがちです。
そんな現状のなかで見たこの番組の充実ぶりは、ただただ、有難く溜飲が下がった想いに駆られました。
雪村いづみの顔でも、特に魅力的な面をクローズアップし、30分弱の時間を濃密し仕立て上げれていました。視聴していて、時代を超越した素晴らしいひとときを過ごすことが出来ました。

番組中で、黛は「彼女の歌には人生がある、豊かな人生経験がエディット・ピアフのように心の歌を歌わせた」と評し、「これから60歳になっても70歳になっても歌い続けて下さい」とエールを送りましたが、今年2013年雪村いづみは喜寿(数え年)を迎えますが、まだ唄っています。

昨2012年、雪村いづみは佐野元春プロデュースによる「トーキョー・シック」という新曲を発表し、現役ぶりを知らしめました。未発表の新曲もあるという話も聞いています。
不死鳥という名がふさわしいのは、本当には彼女なのかもしれません。

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「題名のない音楽会 雪村いづみ わが心の歌」(1987年6月21日放送)
出演:雪村いづみ
司会:黛敏郎

演奏:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
指揮:福村芳一

企画:黛敏郎
構成:藤田敏雄
編曲:宮川泰、鈴木行一、前田憲男
美術:板垣昭次
舞台:監督平井智喜
照明:鈴木秀
音声:中島健次
技術:江原淳一
カメラ:辻井明
調整:大塚隆広
プロデューサー:中島睦夫
ディレクター:安藤仁

曲目
01:「テネシーワルツ Tennessee Waltz」
02:「リンゴ追分」
03:「想い出のワルツ Till I Waltz Again With You」
04:「スウィーテスト・サウンズ The Sweetest Sounds」
05:「メイム Mame」
06:「トゥナイト Tonight」
07:「一晩中踊り明かそう I Could Have Danced All Night」
08:「約束」

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by hakodate-no-sito | 2013-02-13 16:36 | テレビ | Comments(0)

題名のない音楽会 高英男わが青春の歌

思いがけず、貴重映像を観る機会に恵まれて、未だ興奮冷めやらぬ状態にある。

私が、好きで好きで仕方ない歌い手・高英男の映像だ。
観たくて、聴きたくて、数年来の渇望していた歌を披露する高さんがそこにいた。
円熟時代の歌声と、私が実際に知っている晩年の歌声、様々なことが脳裏に浮かぶ。
あのときは見えなかったことが。今わかることが見えて来る。

以前、1995年に高英男が出演した回の「題名のない音楽会」についてブログ記事にしている。
今回、1982年放送の回を視聴する機会に恵まれたので、備忘録代わりにここに記しておきたい。

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「題名のない音楽会 高英男わが青春の歌」(1982年1月17日放送)
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司会の黛敏郎によるピアノ伴奏で、高英男が唄う「蘇州夜曲」から番組は始まる。
黛は、若かりし頃、名門ビッグバンド・ブルーコーツのピアニストでもあった。
1コーラス目は日本語(オリジナル通り、「鳥の唄」の歌詞で歌唱)、2コーラス目はフランス語で披露。

右手にマイク、左手に扇子。
紫の着物、ラメがちりばめられ、背には三日月。
西洋人が印象する日本人のイメージを体現したような姿の高英男である。

「マツケンサンバII」を唄う松平健じゃないか、とお思いの方がおいでだろう。
言うまでもなく、高が先である。それも数十年も前にやってのけている。

「暴れん坊将軍」以前、松平健はレビューの殿堂・日本劇場と縁がある。
松平の歌のステージの振付師の真島茂樹は、日劇ダンシングチームでトップダンサー。
高英男は、日劇の歴史に欠くことの出来ない大スター。

松平の扮装ひいてはステージは、高英男ら日本の華やかなレビューを作り上げた先人たちへのオマージュでもあるのだ。

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黛)
高英男さんの唄う「蘇州夜曲」でした。この曲には私、個人的な思い出があるんです。
今からちょうどもう30年前になりますが、昭和26年、パリで留学しておりました私のところに、同じパリに住んでいりました高英男さんから、ある日電話がありました。
実は、そのモンマルトルのクラブだったか劇場だったかで、そのオーディションを受けなくちゃならないんで、ピアノの伴奏をしろというわけです。
で、私は仕方なしに出掛けていきましたところ、何と唄う曲が「蘇州夜曲」なんだそうです。
で、ただいまのような次第で伴奏をさせられました。
そのときもね、高さんは、まあ、今ご覧になるようなキンキラキンの着物を着られて。

高)
これはね、おふくろがね・・・。
もうね、終戦間もないでしょう、まだ、あの当時。
無い一張羅のね、羽二重でもって作って、至急送って来て・・・縫ってくれたんですよね。

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今回、黛の要望でこの衣装を着てきた高。
あの頃はほっそりしていていたが、熟年の今は太って、着るのに大変だったという。
黛も絶賛していたが、30年前の衣装をきちんと残していることにも驚く。

衣装のキラキラとした部分は、一緒にパリ留学していた中原淳一のアイデアで、チョコレートや何かの銀紙を張ったものだという。

衣装替えの後に歌ったのは「巴里の屋根の下」「詩人の魂」。

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黛)
もともと高さんという人は武蔵野音楽学校を出られて、クラシックの声楽の素養をつけられたバリトン歌手でありました。
ところが30年ほど前、私と同じ頃にパリへ行かれて、そこでフランスの空気に触れてから、主としてシャンソンを唄われるポピュラー歌手に転向されることになったわけなんですが、御本人に直接伺ったところによりますと、なぜそんな転向が起こったか、やはりパリへ行ったということがひとつの大きな転回点になっているのだそうで。

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黛の話によると、高がパリになぜ行きたくなったかという、若かりし頃に見たルネ・クレールの名画の数々が胸に深く残っていて、それがパリ留学という選択に繋がったなのだそうだ。

「巴里の屋根の下」はそんな青春時代の思い出の1曲。
西條八十の詩もお気に入りで、ステージでも良く歌っており、レコード吹き込みも行っている。
(中原淳一の詩によるレコードも存在し、こちらは昨年発売されたCD「Romance」に収録されている)


クラシックからの転向は、戦後中原淳一のプロデュースによるリサイタルを行い、NHKなどにも出演するなどしているうちに「クラシックよりライト・ミュージックの方が良いな」と思うようになっていったのだという。

黛の紹介によると、高英男は「詩人の魂」という歌は、レコードではなく、街中のアコーディオン弾きの歌声で初めて耳にしたのだという。

別のインタビューによると、「枯葉」は、借りていた部屋に居る時、外から歌声が聞こえて来て、窓を開けてみてみると、物乞いの老婆が歌っていたのだという。
古い街並みのなかに響くしわがれた歌声が、実に良くあっていて、まさにルネクレールの映画そのもののような情景で、忘れ難い思い出になっているという話を披露している。

それらの経験から、街の歌であるシャンソンを歌いたいと思うようになり、また留学先のソルボンヌ大学で習うことは、既に武蔵野音楽学校や日本大学で習っていたことと変わらなかったこと、日本から「今、日本ではジャズブームが起きている。次は欧州の音楽が流行になるなどから、3年間の留学期間を繰り上げて帰国することにしたのだそうだ。

「徹子の部屋」への出演時、「街の歌は習うものではありません」と語った高。
50年代の巴里でたまたま遭遇した光景が、シャンソン歌手、歌い手という生業の芸人・高英男を誕生させるきっかけのひとつになっているのは間違いない。

文化とは何か、街の色とは何か、感性とは何か。
この話には、様々なものが詰まっているように思う。

ここで着用している茶のジャケットは、「ビッグショー」(NHK)でも着用しており、NHKで高が取り上げられる際には、この衣装で「雪の降る街を」を歌う映像が流れることが多い。

私も一度、この衣装を着た高を三越劇場で見たことがあり、楽屋で至近距離で目に入ったときには「この衣装は」と興奮したことを思い出す。

現在、これらの舞台衣装や資料等はシャンソン歌手の清水康子女史が保管しておられるという。
散逸の可能性を間逃れることが出来たのは本当に有難い。

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(黛)
先程もちょっと触れましたけれども、高さんにとって事実上の青春のはじまりはクラシック歌手への想いであったわけですし、夢はオペレッタに出演することであったといいます。

昭和25年といいますと、高さんが最初にフランスへ出掛ける1年前の年ですけれども、東京で上演された和製オペレッタに「ファニー」というものがありました。
このなかでの男性の主役を演じたのが、ほかならぬ高英男さんであったわけです。
で、巴里へ行きましてからも、シャンソンをいろいろ唄うようになっても、やはりオペレッタへの夢というものを高さんは捨てたわけではなくて、8年間の長いパリ滞在の間に、何回もオペレッタに、向こうで出演された経験も持っています。
そういう高さんが一番好きなオペレッタは何かという問いに答えて、それはほほ笑みの国だということでありました。

フランツ・レハール、あのメリーウィドウを作りました、有名なウィーンのオペラ作家の、もうひとつの傑作である「ほほ笑みの国」というのは、ウィーンと北京を舞台にした甘美な恋物語でありますが、この中から高さんがもっとも好きだと言われる「君こそ我が心のすべて Dein ist mein ganzes Herz」、これを歌って頂くことにします。

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1960年代、高はパリに居を構え、フランスを中心にヨーロッパで歌手活動を行っている。
日本へも年に数ヶ月間滞在し、その間に日本劇場などへの出演を行っている。
国際派としての顔が完全に確立された時期になる。

黛の指摘した、高のオペレッタ出演とは、いつ・どのようなものであったか、現段階では私にはわからない。
高英男を知る、研究していくには、このフランス滞在時代のことは欠くことが出来ないように思う。
また、歌い手としては絶頂期ではなかったか。

イギリスのBBCへ出演したという話もある。毎回歌を披露する短時間のラジオ番組を担当していたという。この時代の高の映像は日本ではいくつかの(劇場・テレビ)映画や不鮮明なキネコ映像でしか残されていないが、海外にはもしかしたら素晴らしい高の名ステージの映像や歌声が人知れず、ひっそりと眠っているのかもしれない。

それにしても、このオペレッタを歌う高英男の魅力的なこと。
私はクラシックにまったく門外漢だが、こんな歌い手を知ったらクラシックファンになってしまうかもしれない。高英男のまた違った面を見ることが出来て、本当に有難いし、嬉しい。

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「君こそ我が心のすべて Dein ist mein ganzes Herz」を
フォーマルなタキシード姿で歌いきる。乱れ髪が艶っぽい。
タイミングを見計らって、黛が舞台中央に現れる。

「オペレッタはオペレッタの雰囲気を持つ人が演らないとオペレッタにならない」
「そういった意味で、オペレッタ的雰囲気を持つ数少ない歌い手」
と讃える黛。
はにかんだ表情で高「そうですか、まだ演れますか」
黛「勿論」。会場拍手。

続いては「雪の降る街を」。
日本帰国後の活動の大きな記念碑的なもの、と紹介する黛敏郎。
中田喜直とのつながりについて訊く。

高)
「あれはちょうど帰りましたときに『詩人の魂』とか『枯葉』とか『ロマンス』をね、しょっちゅう歌っておりましてね。
そのときに放送で、中田喜直先生が聴いていて、『この歌はあいつに歌わせて下さい』というお名指しで、歌わせて頂きました」
「楽譜見ましたら、あまりにも見事な綺麗なメロディなんで。歌い手の隙間が無いんですね、要するに。
『うわー、難しくて困ったなあ』と思いまして。…もうあれも30年、この方、歌っております。」

黛)
「確かあれはNHKのラジオの『えり子とともに』ですか。内村直也さんの連続劇の…」
高)
「そうです、詩が内村直也さんのあれです」
「10回レコード吹き込みいたしました。いつも印税がわずかながら、今でも入ってまいります」
黛)
「いやいや、わずかどころか、莫大なものでしょう」
高)
「いやいや、もう…(とテレ笑い)」

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「雪の降る街を」は、高英男とは切っても切れない作品。
訃報の見出しも、『"雪の降る街を"高英男さん死去』というものがあったぐらい。

ただ、中田喜直本人は高の歌唱よりも男声合唱のダークダックスやボニージャックスが
歌うそれの方がお気に入りであったという噂もある。
中田の志向を考えると、それはデマとは思えない。

確かにあのメロディの魅力を十二分に引き立たせるのは、譜面どおりきっちり歌う合唱団の方が良いだろう。
しかし、あの完璧な譜面からは見出せない情感を引き出している高英男の力量は素晴らしいものだと思う。
歌の妙味を教えてくれるのが高英男の歌唱だ。

「雪の降る街を」と、"高英男の「雪の降る街を」"は、=(イコール)にあらず。
それは作曲家である中田にとっては、快いものではなかったとしても不思議ではない。

「雪の降る街を」のレコーディング回数は、ここでは10回と語っているが後に11回と称している。
私が確認した限りでは
・ラジオ放送盤
・初吹き込みSP盤
・ダークダックスとの共唱版
・中田喜直のピアノ伴奏版
・フランス語歌唱版
・鹿児島清志編曲版
・ライブ版
以上の7テイク。
以前、長年高英男のマネージャーを務められ最期まで看られた佐々木孝子女史に伺ったところ、
「レコーディングではなく、舞台用の譜面も含めての数ではないのか」という説を頂戴した。

果たして、真相はどこにあるのか。
キングレコードには、人知れず秘蔵された高の「雪の降る街を」がまだ眠っているのか。
それとも、海外でレコード吹き込みを行って、そのなかに「雪の降る街を」が含まれているのか。

ぜひとも知りたい。

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(黛)
高英男という人にとって青春とは、それは過ぎ去ってしまった回想の中にあるのではなくて、現在も生々しく息づいているに違いないという気が私にはします。
年齢のことは言いたくありませんけれども、高さんという方は田中角栄さんと同じ歳です。
ということは、60をもういくつか越えているということになりますが、それであの若々しさを失わないでいるということ、これは私、素晴らしいことだと思う。

それから、また、芸人魂といいますか、30年前に、あの紫色のキンキラキンの着物を着て、「蘇州夜曲」をうたった、その見上げた芸人魂というものをいつまでも失わないでいる。

私はこれもまた、皮肉でなしに素晴らしいことだと思うのです。
かつてミスタンゲットとかモーリス・シュバリエとかジョセフィン・ベーカーとかいう歌い手たちがいました。この人たちは皆ファンテジストと呼ばれて、ただ歌をうたうだけではなくて、ステージの上で歌を生きていると、歌を魅せた、歌を演じることのできる人たちでした。
そういう歌手たちが、いま日本にどれだけいるか。歌のうまいへたということは別として、そうした雰囲気を身につけている人ということで、私はやはり高英男という人の存在を無視するわけにはいかないと思うのです。

そして、先程も申し上げましたけれども、日本における、本当に不遇なオペレッタ的な雰囲気を身につけている、ま、稀有のひとりとして、高さんの存在はやはり貴重であると言わなくてはならない。

しかし、残念なことに日本ではオペレッタは今や死に絶えようとしています。レビューも駄目になりそうになりました。現に日劇は既に取り壊されてしまいました。

そういう逆境のなかにあって、やはり高さんは自分の音楽を本当にたくましく怖めず臆せず唄っておられる。これを私どもは声援したい気持ちでいっぱいになります。

最後は、そうした"青年・高英男"を満喫する演目をもって閉じたいと思いますし、それは日本から消え去ろうとしているオペレッタ、レビュー的雰囲気への挽歌となるかもしれないけれども、不死鳥のように羽ばたこうという祈りも含めてみたい気持ちが、そのなかにはあります。

日劇ダンシングチームの参加を得まして、高さんが最後に唄い演じて下さるのは、「サ・セ・パリ」です。

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両袖から日劇ダンシングチームが3名づつ、計6名が登場。
そして、舞台中央階段から、オーストリッチの羽を付けた銀色のジャケットに純白のカンカン帽、スラックス、厚底のブーツという、サヨナラ日劇のステージと同じ姿の高が颯爽と降りて来る。
ダンサーたちとともに、舞台狭しとばかりに唄い踊り、華やかなフィナーレ。

かつて、スランプに陥った高が相談した古川ロッパが「高君ね、そんな羽つけて、歌い踊って、大劇場満員に出来るパーソナリティなんて、他の人にはないんだから。僕なら一生それでやるよ」と
言ったそうだが、まったくその通り。

日本で、こんな個性を持ち得たのは高英男だけだろう。

フランスでも「コウは、ジャポンに帰ったらタカラヅカに出るのか、カブキに出るのか」と大真面目に歌手仲間から訊かれたという話もある。
フランスでも東洋の異色歌手として、独自のパーソナリティをしっかり発揮していたことが伺える。

高英男、ここにあり。
この番組での30分は、短時間であることを逆手に取り、濃密に、そして確実に高英男という歌い手を捉えて、紹介することに成功していたように感じた。

黛敏郎という、高のよき友人・理解者に、30年のときを越えて、深く感謝したい。

(そして、拝見する機会を与えて下さった方にも!)

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「題名のない音楽会 高英男わが青春の歌」(1982年1月17日放送)

曲目)
01:「蘇州夜曲」
02:「巴里の屋根の下 Sous les toits de Paris」
03:「詩人の魂 L'âme des poètes」
04:「君こそ我が心のすべて Dein ist mein ganzes Herz」(オペレッタ「微笑みの国」より)
05:「雪の降る街を」
06:「サ・セ・パリ Ça, c'est Paris」

指揮)
手塚幸紀
演奏)
黛敏郎、東京交響楽団

企画)
黛敏郎

構成)
藤田敏雄

編曲)
伊部晴美
福田一雄

美術)
板垣昭次

舞台監督)
倉田昭生
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by hakodate-no-sito | 2013-02-08 15:07 | テレビ | Comments(1)

ブックダイバー讃歌

昨日「高田純次の年金生活」(BS JAPAN)というTV番組で、神田神保町の"ふるぽんや"ブックダイバーが取り上げられていた。番組紹介によると「ハッピーシニア」の店主・Sさん(元日生まれの73歳!)の姿をテレビ画面越しながら3年ぶりに見る。

この店、知る人ぞ知る有名店。結構メディア登場率が高めで、去年は「カウンターのふたり(第8話)」(BS12)や「13歳のハローワーク(第1話)」(テレビ朝日)と、テレビドラマのロケにも使用されていた。

18歳の年から、ダイバーさんには本当にお世話になりっぱなし。
足を向けて眠れないという言葉も嘘ではないぐらい。
一昨年の3.11のとき、テレビでニュースを見たとき、安否についてまず最初に脳裏に浮かんだのはここのお二人だった・・・といえば、私の気持ちがわかってもらえるだろうか。

別のSNSで奥さんのHさんから時々様子は伺っているし、公式ブログもチェックしているが、近影は拝んでいない。
「御無沙汰している間に老けちゃったかなァ?」とちょっとだけ不安だった。
が、要らぬ心配だったらしい。

画面に映るSさん、赤いチェック模様の帽子にアスコットタイ、と洒落っ気のある服装で登場。
高田純次たちに古本のアドバイスをするSさん。
相変わらずパキパキと頭が回り(実は高学歴の持ち主)、相変わらず良く通る大きい声。
元気そうで本当に嬉しい!

脱サラして店を始めたという話に加え、淀みないしっかりした喋りっぷりから、出演者から「60歳ぐらい?」と訊かれるSさん。
「いやいや、ボクはもうじき73(歳)ですよ」とサラリ。 

ええっ!見えな~い!
テレビでよく見かける驚きアクションの定番だが、これは演出に非ず。

Sさん、今年70歳ぐらいだと思っていたが、もう少し歳を召していたらしい。
番組は去年末の収録だろうし、確か田端義夫と同じ誕生1月1日の生まれ。
水谷八重子の1歳下。
ということは干支は私と同じ辰になるのか。すっかり忘れていた。

ブックダイバー公式ブログ(http://bookdiver.exblog.jp/)に掲載されている、今年の抱負によると
"今年は「価値が分かる人のための古本屋」を前面に出していきたいと思います。それと取扱いジャンルを「硬派なサブカルチャー」から「軟派なカウンターカルチャー」まで広げて、全面展開するつもりです"
とのこと。いつでも何かワクワクさせてくれる店はますます健在。
今年も引き続き勝手連応援を・・・いや、違う。私は北海道支部長(公認!)だから広報活動をしていこう。

皆様、神保町に来たらブックダイバーへどうぞ。


More
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by hakodate-no-sito | 2013-01-07 16:41 | テレビ | Comments(0)

最後のカチンコ

久々に、いいもの見たなあ、という気分になりました。

10月14日放送、NHK-BSプレミアム「最後のカチンコ~新藤兼人・乙羽信子~」。
乙羽信子の遺作となった映画「午後の遺言状」の撮影風景を中心に描いたドキュメンタリー・ドラマ。

当日の昼すぎに、番組の宣伝映像をたまたま見かけて、これは期待していいのではないか、と思い出し、見終わったときにはしばし放心状態。

再現ドラマ、ということもあるのでしょうが、新藤兼人役の加藤武、乙羽信子役の大谷直子、この二人が恐ろしいぐらいまでにハマっている。

ビジュアル面も似せ過ぎと言いたくなるぐらい、一挙手一投足まで本人たちを感じさせます。
特に加藤武は、写真だけ、音声を消したら、本人かと見間違う人が続出するのではないかというぐらいに。

私がこのドラマを見ようと思ったのは、新藤・乙羽夫妻に関心があることは勿論なのですが、ご贔屓様がお出になっていると知ったから。
ご贔屓様の名前は水谷八重子、二代目。

水谷八重子が杉村春子の役を演じる。
杉村春子、日本女優史上五指には余裕で入る、永遠の大女優。女優の中の女優。先生付けで紹介せねばならぬ御方。大女優という名称がふさわしい人。

水谷八重子は、良重時代とは違って、今では押しも押されぬ大女優の位置にある方。
でも、依然として大女優であることを拒絶している人。

今年の夏ごろ、でしたか、舞台「華岡青洲の妻」の宣伝でテレビ出演していたのですが、そのときのイデタチがパンク。
着物。赤髪。腕に大ぶりなデジタル時計。
"新派の大女優"という古色蒼然とした既成概念を、敢然と拒絶してのける。
こういうところが「良重チャン」たる所以であって、私が大好きなところ。
あ、舞台では勿論、赤い髪して出ているわけではありません。

そんな彼女が、「大女優」で、私の先生と尊敬している杉村春子を演じるとあっては、八重子ファンとしては楽しみで仕方ない。

彼女も良かった。
憑依したかのような加藤武、大谷直子両名に比べると、演技の質が違う。
水谷八重子なんです、でも杉村春子なんです。
そして、物語が進み、映画のラストシーンである海岸でのひとコマ。
台詞ありません、動きだけ。
・・・完全に、あの映画のときの杉村春子でした。背中で演技していました、何気ない動きひとつひとつが杉村春子でした。

うまいなあ、当たり前のことなのですが、洩らさずにはいられませんでした。
もうひとつ、このドラマを見るときに念頭に入れて見てみようと思っていたことをすっかり忘れていました。

実は、このドラマで杉村春子を演じる予定だったのは、先日亡くなった馬渕晴子だったそうです。
クランクイン数日前に体調を崩し入院して、叶わぬこととなりました。

彼女が演じていたら、どうなったか。
それを考えながら、もう一度、改めてドラマを見返しました。
おそらく、加藤・大谷同様、杉村春子が憑依したかの名演を見せてくれたに相違ありません。

馬渕晴子というと、いつだったか何てことのない題名すら覚えていない安っぽい2時間ドラマに彼女が出ていたのをたまたま見かけ、ひとりドラマで輝きを放っていたことが印象に残っています。
あまり縁が無くて、代表作と呼ばれるようなものを全然見ていないのですが、良い女優だと思っていますし、好きな女優でした。

杉村春子も乙羽信子も、あの新藤兼人すら、いなくなってしまった現実。
さらに馬渕晴子というひとりの素晴らしい女優がいなくなってしまった哀しみ。
今となっては、すべては夢まぼろし。

でも、水谷八重子が素晴らしい女優であることを確認できる、という喜ばしい出来事がありました。
夢まぼろしの人になってしまった人のことを忘ることなく、今いる素晴らしい人にも目を向けていかねばならない。
現在・過去・未来すべて大事にいつくしんでいきたい。

放送から数日経った今、こう思っています。
「最後のカチンコ」、私にとりまして、いろいろ考えさせられる、いい作品でした。
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by hakodate-no-sito | 2012-10-18 17:24 | テレビ | Comments(0)

ダークダックス IN 徹子の部屋

5月24日の「徹子の部屋」にダークダックスが出演していた。

ダークダックス、といっても今はゲタさん(喜早哲)とゾウさん(遠山一)の二人きり。
マンガさん(佐々木行)は病に倒れて久しく、パクさん(高見澤宏)は去年亡くなってしまった。

黒柳徹子とダークダックスは、若かりし時代縁があった旧友・戦友の間柄。

大学時代の黒柳が今後どう生きていこうかと悩んでいたときに観て、芸能界の道へ足を踏み出すきっかけになったという舞台「雪の女王」。
この舞台で唄っていたのがダークダックスだったのだそうだ。

ゲタさんはトットちゃん時代の黒柳徹子を知っている人。
黒柳も当時のゲタさんとは面識こそ無いが、家は知っていたという。
番組では触れられていないが、黒柳が退学になった小学校の先輩でもある。

だから60周年だった去年、部屋への出演がないものかと期待していたのだが、ご存知の通りパクさんの訃報と、しばしの活動休止と相成って、叶わなかった。

今年に入ってから、ダークの2人はコンサートへ出るなど、活動を本格的に再開。
それを後押しするかのような、今回の「徹子の部屋」への出演だった。

黒柳徹子をチャックと呼ぶような御二人だからなのだろう、徹子もエンジンかかって、よく喋っていた。
先月27日に玉突き事故に逢った黒柳だが、この番組は事故から3日後の30日に収録されたものだそうだ。
元気そうで何より、ホッとした。

元気といえば、ゲタさんゾウさんのふたり、若々しく、話も面白い。シャンとしていた。

2000年に、3人ダークで出演したときのVTRを見た黒柳が、メンバーのすっきりとした身体を讃えていた。
「70ぐらいなのに、あんなにキチンと身体をしてらっしゃるのは凄いと思う。もう70ぐらいになるとスッキリしなくなるじゃない。人の前に出る人間はこうじゃなくちゃと私、思うんですけど」

「(洋服の)仕立てがよかった(笑)」
と返す81歳のふたり、今もそれを保っている。
ゾウさんは1日45分のストレッチ、ゾウさんは平均1時間ほどのウォーキングをそれぞれ行っているという。平然とそれを語る2人。それが苦にならないから長年唄っていられるのだろう。

今はNHKで歌のおねえさん役などをやってきた歌手のしゅうさえこと共に活動をしているダークダックス。

しゅうさんはお綺麗だし、歌もとっても素晴らしいんだけど・・・と前置きしながらも、あのダークダックスサウンドが(パクさんの死によって)無くなってしまったことを惜しむ黒柳。
ファンからすれば、我が意を得たり、という発言だろう。
私は、マンガさんのリタイアをもって、ダークダックスサウンドは記憶と記録のなかのものになってしまったと思っているのだが・・・。
ともかく前向きに、活動を再開したおふたり、素直に応援したい。
ゾウさんはソロコンサートを計画していると聞く、ぜひ行ってみたい。

亡くなったパクさんは本当に心やさしい方でしたね、と語る黒柳。
何気ない言葉に、育ちの良さを感じて、今も忘れられないという。

ダークダックスのメンバーでも特に頭脳明晰で博学のパクさん。
晩年、体調を崩して入院した際に、医者から「貴方は医学部を目指されていたような人だから、ご自分でも
ご存知だと思いますが」と余命を告げられたらしい、という話が二人から明かされる。
訃報記事によれば、パクさんは家族に看取られ自宅で亡くなったのだそうだが、これは本人の意思によるものだったのかもしれない。

パクさんが亡くなったときのゲタさんは見ていられないぐらいに悄然していたが、今は心に折り合いをつけたらしい。パクさんの話や映像となると目をうるませていたものの、それ以外ではゾウさんいわく「くちぐせ」という軽口をポンポン放ち、見ているこちらも大いに笑わせて貰った。

ニコニコ飄々としながら、絶妙のタイミングでポンとおかしい言葉を放つゾウさんも舌好調。
「恋する女房のところへすぐ帰りたがる」と、ゲタさんの軽口を逆手にあざやかにシュートを決める。
何となくだが、ダークのメンバーで一番長生きするのはゾウさんのような気がしてならない。

なお、ダークダックス4人の中で、一番結婚が早かったのは、意外?にもゲタさん。
ダークダックス・吉永淳一編「愛のメルヘン ダークダックスの20年」(集団形星)によると、結婚は昭和29年11月。金婚式はとうに過ぎている。

かつての「徹子の部屋」といえば、サロン的空間でもあって、それが番組の大きな魅力だった。
今回は、往年のムードにあふれていた。
徹子の部屋はこうじゃなくては、と言いたくなる回だった。ダークダックス、さまさま。

ダークダックス、これからのますますの活躍を祈りたい。
またテレビへも顔を出して、楽しい話を聴かせて欲しい。
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by hakodate-no-sito | 2012-05-25 20:05 | テレビ | Comments(0)

SONGS 長谷川きよし

NHKの人気音楽番組に「SONGS」がある。
番組のコンセプトは、公式サイトに記されている文を引用すると

>大人の心を震わせる新しい音楽番組です。
>1960年代から現代にいたるJ-POPの名曲を中心に、
>クオリティの高いサウンドと映像で
>”いい歌をたっぷりと”お届けします。

まさしく今回は、この言葉通りの番組内容だった。

長谷川きよしは昭和44年デビューの歌い手。
村上春樹の小説や、由紀さおりのCDアルバムなどで、近年着目されている1969の体現者。

この歌手の凄いところは、あくまで「今」「現在」の感覚で、良い・素晴らしいと聴き手に感じさせる点。
過去は必要ない。

歴史を感じせさせない、時間軸を超越した、良い意味での軽みを持っている強み。

無国籍的な色合い、何を唄っても長谷川きよしの世界。

何も言う必要はなく、ただただ賛辞を送りたい。

今秋には新アルバムが発売されることで、今後メディアへの露出も増えるのではないかと期待している。
(当初の予定では5月ごろの発売だったという)

見逃した方は、再放送でチェックして頂きたい。
素晴らしい歌声とギターの音色が堪能できること、うけあいだ。

総合 5月18日(金) 午前1:40~2:09
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by hakodate-no-sito | 2012-05-16 19:44 | テレビ | Comments(0)

『襲名!二代目水谷八重子 涙と苦悩の365日』(その2)

1995年1月2日の新橋演舞場の様子が写る。
>「今年正月の新橋演舞場は新派公演で幕を開けました。
>いよいよ二代目八重子襲名の年です」
というナレーション。

新派では、芝居だけではなく、舞踊も披露されるときがある。
久々の初春公演だからか、舞踊が披露されたらしい。
セリ上がりにスタンバイする水谷と波乃久里子。

波乃を紹介するナレーションが入る。
波乃は、新派における水谷の好敵手で名コンビで対の存在なのだ。

波乃は、母方の祖父は六代目尾上菊五郎、父は十七代目中村勘三郎、弟は十八代目中村勘三郎
という芸能一家のサラブレッド。
母は初代水谷八重子、父は十四代目守田勘彌、義弟(父の養子)は五代目坂東玉三郎という水谷
と比べても遜色ない。
今の新派にとって欠くことのできない中心人物だ。

小走りで花道へと移動する舞台裏が映し出される。
裏方の人手不足をめいめいの努力で補うのだそうだ。

画面は変り、別演目「婦系図」の「湯島境内の別れ」へ。
水谷良重のお蔦、青山哲也(2006年没)の早瀬主税。

水谷のお蔦は親子二代の当たり役。
『静岡は箱根より遠いの?』という台詞が泣かせる。

続いて、3月16日の湯島天神詣での様子。
新派では毎年恒例の行事なのだそうだが、この年は劇団存亡が懸かっているとあって、
新派幹部全員での参拝。
水谷良重、波乃久里子、安井昌二…今は想い出の人となった菅原謙次や花柳武始の顔も見える。

新派と湯島というと、境内には新派碑が建立されている。
これは本来、昭和52年に新派90周年を記念して初代水谷八重子および松竹によって、新橋演舞場の玄関前に設立されたものだが、昭和54年4月26日に、新橋演舞場改築計画に伴い移設された。


初代八重子のフィルム映像が映る。
昭和44年、新橋演舞場。
楽屋入りの様子、楽屋での化粧の様子。
舞台稽古の様子、舞台袖でじっと若手役者を見つめる様子。

初代は語る。
>「こういうお仕事は、自分でどこまで出来てるって判る仕事ではございませんし
>自分が…まあ死んだ後で、どの辺までやれてたかということは、
>観た方に評価して頂くより、ないものですから」

晩年の水谷親子の会話が紹介され、昭和54年、初代水谷八重子の葬儀の様子(フィルム映像)が映る。
まるで魂が抜けている、涙も枯れ果てたような水谷良重の姿がそこに映っている。

襲名にあたって、より一層、母のことを考えることが多くなったという水谷。
「母が喜んでくれるのかな、このことを喜んだり、何かまだしなきゃならないことを注意してくれたりして
本当にこう…今まで家族というものは煩わしいものと思っていたんですけど
こうなってみると、分かち合える、っていうのかな。
私に家族があったなら、どんなリアクションをしてくれるのかな…って思うんですよ。
そういうときに、こうポコっと…深い淵に沈む、みたいなね」

そんな想いの中、襲名準備を行う水谷良重。
襲名の際の引き出物をチェック。
引き出物は、手ぬぐい、焼き物、扇子の3つで1セット。
焼き物には水谷の水の字を。
手ぬぐいの意匠の、二代目水谷八重子の字は…先代のサインの流用。
どうしても字が描けなかったのだという。


9月26日、清水市民文化会館・大ホール。
地方巡業中、水谷良重では最後となる舞台。
「千秋楽おめでとうございます。水谷良重、長いことお世話になりました」
全楽屋を、ユーモアたっぷりに明るく挨拶周りをする水谷。

そして、駆け回るなか、廊下でボソッとつぶやく。
「何だか郷里に帰るみたい(笑)」
こういうところは、まさしく水谷良重の面目躍如。

この挨拶周りの間、舞台では彼女のために垂れ幕などをコッソリ設営していた。

舞台「明日の幸福」上演後、波乃久里子が仕切ってアフタートーク。

波乃:良重という名前にお客様と劇団員一同からお疲れ様と言ってあげたいと思います。
全員:お疲れ様でした!
(拍手)

ボンッという音のあと、垂れ幕や紙テープ、紙吹雪が落ちてくる。
盛り上がる会場。嬉しそうな顔をする水谷。

終演後、幕が降りた舞台上では、打ち上げ。

波乃:もうね、どっかにいると、お姉チャマいるから言えないのよ。
水谷:おしゃべりがいない!
波乃:いないねー。この劇団は凄い。ヤマちゃんとね、昨日打ち合わせた。

波乃のマシンガントークが炸裂する中、「何にも言えない」と眼をうるませる水谷だった。


8月26日、京都。
猛暑の最中、芝居の贔屓筋を一軒一軒、襲名挨拶へ出かける水谷。
「この度は襲名をさせて頂くことになりました…」
1週間かけて、回ったという。

まったく恐れ入る。
新派が歌舞伎に継ぐ歴史を持つことを改めて実感させられる一コマ。

夏の終わり、川口アパートメント。
水谷の自宅。
"八重子の部屋"で、初代八重子の舞台『鹿鳴館』のビデオを観る水谷。
襲名興行で演じるのだ。

ビデオは昭和47年上演のもの。記録用に先代が遺したものだという。
>「アタシが言うのもおかしいけど、本当にこんな女優いないね。
>誰も代れないよ、これは…」

画面はアパートの地下階へ。
『鹿鳴館』の台本、昭和37年の初演を探すためだ。
初代八重子の演技プランの書き込みがあるのはこのときのものだけだからだという。
捜索に当たるのは、先代最後の弟子で今も新派に所属する俳優の田口守。
整理はされているので、箱をどかすだけで済むが、それでも膨大な量。
1時間かけて探し出した。
その脚本を読み演技プランを練り、初演以来使っている衣装に手をやる水谷。

初代八重子、出演作のうち、戦後からの台本はすべて残っているのだという。
『鹿鳴館』は台本のほかにも、三島由紀夫による台本読みの音声テープなども残っているそう。
水谷と三島。
もとは先代との付き合いから縁がはじまったという。
水谷の著書「あしあと」によると、歌舞伎座の先代の楽屋へ、三島が顔を出した際、コロッと
なついて、夜まで一緒に遊びに連れまわしたのだという。
三島の主演映画「からっ風野郎」(1960年・大映)では、競演しラブシーンまで演じている。


番組もいよいよ大詰め。

10月18日、浅草寺境内。
襲名披露のお練りを行っている様子が映る。
道道から、ミズタニ、ミズタニと大向こうが掛かる。


水谷にとって、浅草は想い出深い土地なのだという。

http://funnygirl.exblog.jp/15379422/
ふたたび、水谷八重子ブログ「ないしょばなし」から流用してみる。

>浅草・・・良重から八重子に変わった町、浅草・・・
>襲名の色々なキャンペーンの中、
>「水谷良重って一体どこに消えてしまうの?」って想いで一杯だった。
>それが、浅草、浅草寺のお練りをしている時、浅草の人達の「八重ちゃ〜ん」って声を、聞くうちに
>「私は八重子になったんだ」って、初めて思った。
>疑問がかき消えた。
>二代目・水谷八重子はここから生まれたように思う。

浅草は二代目生みの土地なのだ。


11月1日。
新橋演舞場。
楽屋には、初代八重子の鏡台を持ち込んだ。
演舞場の楽屋口、今日からは八重子として入る。
神棚へのお参りも、普段より長い。

舞台『鹿鳴館』の幕が上がる。
寺島しのぶ、市川新之助(現:海老蔵)、英太郎(はなぶさ・たろうと読む)、中山仁らが映し出される。

良重改めて二代目が台詞を謳い上げる。
先代とは違う、二代目の影山朝子がそこにいた。

終演。
カメラを見つけ
「アラ~、カツラもう取っちゃった~」
と、ご機嫌の水谷。

楽屋で、贔屓客からの願いで、やっと水谷八重子とサインを書く水谷。
「ダメね、まだ…」

―終無始無―
先代の鏡台に刻まれた言葉を見て、語る水谷。
>「字の通り、終りも始まりも無い道、なんでしょうね。
>これは母の鏡台なんです。私の鏡台にはこれは付いていない」

こうして番組はエンディングを迎える。
水谷親子のツーショット写真を映し出されるなか、ナレーションは友人からの言葉を紹介する。
>「もう少し楽をしなさい」「また恋をなさい」という…。


水谷八重子襲名、2012年の今年で17年経つ。
当時の意気込み、少しだが伝わって来た。
確かに盛り上がったのだろう。翌1996年は、前年同様新橋演舞場で2ヶ月連続で公演があり、
国立劇場での1ヶ月公演も復活するなど、新派は勢いに乗っていた。

現状と比べると、まったく羨ましい。

…それはさておき。
映像を見ていて思ったのは
新派は、松竹が少し力を入れて宣伝し、メディアで煽れば、潜在ファンが浮上してくるのではないのか。
ということ。
新派百年の記念年(87年~88年)も、そうだったように思える。

それとも、もう潜在ファンはいないのか。
興味はあれど踏ん切りがつかないという人はいないのか。

今の新派に必要なのは、若手が育つ・育たないなどではない。
メディアを利用できる、メディアにアピールして宣伝して貰うことが出来る人材(ブレーン)
を得ることに尽きる。
大江良太郎や川口松太郎のような逸材が、新派に付くことを願ってやまない。
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by hakodate-no-sito | 2012-05-12 03:01 | テレビ | Comments(0)

『襲名!二代目水谷八重子 涙と苦悩の365日』(その1)

―ここ1年ちょっと、新派にハマっている。
なんて、話をしていたら、新派好きな友人から
貴重な映像や書籍、雑誌、写真をいろいろ拝見する機会が何度か与えられた。
『運が良いな』と思うし、嬉しいし、何より有り難い。

思うことはいっぱいあるのだけれど、うまく伝えられない。
ツイッターで一言つぶやくのも良い。
でも、少し長めに話したいときは、まとめておきたいときは…ブログだ。

いま、備忘録として遺しておこうと思ったのは
平成7年放送の
「スーパーテレビ 情報最前線『襲名!二代目水谷八重子 涙と苦悩の365日』」(日本テレビ)。

テレビ番組での取り上げで有り難いのは、やはり話題になる・しやすいこと。
そして、動画という形式。顔がある、体が動く、声が聞こえる。
イメージしやすいのだ。

もっとも、テレビ=正しい、という訳ではないが(意外とこれが判らない人が多いらしい)
あくまで参考資料と割り切ると、やっぱり有り難い。


さて、「スーパーテレビ 情報最前線」だ。
『その日、水谷良重は緊張の朝を迎えていました』…という羽佐間道夫のナレーション。
画面は仏壇を拝む水谷の姿。
この光景から番組は始まる。

平成7(1995)年11月1日。
新橋演舞場への楽屋入り、関係者の楽屋挨拶の様子が映る。
そして、舞台の口上シーンへ。
七代目尾上菊五郎、山田五十鈴の言葉が抜粋して一言づつ紹介され、良重の言葉。

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>尾上:この度の良重さんの二代目水谷八重子御襲名、心からお喜び申し上げ奉ります。

>山田:末永くご声援ご指導して頂きますよう、僭越ではございますが私からも心からお願い申し上げる
>次第でございます。

>水谷:水谷良重改め二代目水谷八重子でございます。
>(客席から拍手)
>母の果たしました役目を、何とか、果たそうと、懸命に精進努力致して参ります。
>どうか末永く、ご贔屓下さいまするよう

>菊五郎:隅から隅までずいーと
>(『音羽屋!』『水谷!』の大向こうが掛かる)
>水谷:乞い、願い、
>全員:上げ奉ります
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まったく、豪華な顔ぶれだと思う。
この月の公演演目は「風流深川唄」「鹿鳴館」。
NHKで放送された「鹿鳴館」に菊五郎は出ていないので、口上は昼の部だったのだろう。
昼は菊五郎、山田五十鈴、夜は團十郎・新之助(現:海老蔵)ほか。
八重子襲名がいかに力が入れられていたかが、よく判る。
カメラに映っている、演舞場を取り囲む人の山も頷ける。
私だって、行きたかった。


番組ダイジェストを兼ねたオープニングの後は
東京・中央区築地の松竹本社(当時)での様子が紹介される。
第二応接室へ入って行く水谷。
部屋にいたのは、永山武臣・松竹会長(当時)。
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永山:八重子襲名をするということで…ね、自ずから変ってきますからね。襲名ってものは。
人間を変えますからね。もうただ芸のことだけ考えて。
もうね、後には退けないんですから。
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画面は変る。
時の流れもさかのぼり、平成7年9月29日、「二代目水谷八重子決死の披露パーティー」会場の様子に。

ナレーションが流れる。
>「ひとりの女の、あずかり知らぬところで、歯車は回り始めていました。
>二代目水谷八重子、その晴れがましさと重荷が、いちどきに良重の肩に、のしかかって来ました。
>この頃彼女は、夜ごと自問自答したと言います。
>『私は本当に二代目水谷八重子にふさわしいの?』」

来場する客層は多種多様、華やかな顔ぶれ。
富司純子(尾上菊五郎・夫人)、市川團十郎、大橋巨泉、森繁久彌、永六輔、植木等、朝丘雪路の顔が見える。

永六輔は語る
「良重チャン時代に聞いた言葉のなかで
『明治・大正の風をいつだって新派の舞台から吹かせてみせる』という。
これをね、今、本当に大事にして欲しいと思うんです」

森繁久彌も言葉を寄せる。
「(初代)八重子さんのようになれといっても無理でしょうが。良重は良重のように、あの人間が、にじみ出るような芝居をして欲しいと思いますね」

パーティの間、どこか作り笑顔だったり、どこか不安そうだったり、淋しげな顔を見せる水谷。
そんななかで、若き日を共に過ごした古い仲間と話すのは、気張り続けなければいけない場のなかで、ほっと一息つけるひとときなのだろう、いつもの可愛らしい水谷良重の顔が覗いていた。

水谷いわく"戦友"のクレイジーキャッツの植木等とは「いつか新派に出てね」「そうね」と話している。
これは、どうも実現はしなかったらしい。勿体無い。
クレイジーキャッツと水谷は舞台やテレビ番組「若い季節」などで競演し、親しかった。
水谷の元夫・白木秀雄も、クレイジーと同じ渡辺プロダクション所属だった時期があるなど、縁は深い。

大橋巨泉と水谷とは往年のテレビ番組「あなたとよしえ」「夜をあなたに」で
メインホステスと構成作家という間柄だった。
大橋の著書「出発点」(講談社文庫)に、このときの様子が記されている。
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>金屏風前の良重に「ねえさん、来たわよ」と言うと、眼を輝かせた彼女は
>「かあさん、ありがとう」と言って両手をとり合った。
>これは当時競演の故藤村有弘がスタッフ内で流行らせたオカマ言葉の挨拶である。
>二人とも従って小声で言い合ったが、あとでテレビのレポーターに
>「良重さんすごくうれしそうに何か言ってましたけど、何をおっしゃっていたのですか」
>と聞かれて困った。
>良重はちっとも変っていなかったが、周りは松竹や財界の偉い人ばかりですっかり変ってしまった。
>八重子になったらもっと遠くなってしまうのだろうか。一寸さみしい。
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忌憚の無い、旧知の人の言葉である。


番組に戻る。
「あなたとよしえ」の映像が流れ、水谷良重のあゆみがかいつまんで紹介され、初代八重子の代表演目、通称"八重子十種"の舞台写真が映る。


番組中、水谷良重の初舞台は彼女が花柳章太郎に懇願して実現した…と紹介されているのが気に掛かる。
本人の著書「あしあと」や川口松太郎「八重子抄」では、水谷が新派主事の川口松太郎へ
『女優になりたい、でもマミー(初代・八重子)が許してくれない』と訴え、やっと実現したとある。
花柳へも、水谷が口添えを頼んだ可能性は充分考えられるが、主に尽力したのはあくまで川口のように、私は思う。
花柳と初代八重子の関係を考えれば、たとえ花柳が口添えしたところで初代が話を聞くとは到底思えない。


カメラは文京区・川口アパートメントの水谷の住む部屋(当時)へ。
年配の男性3人と麻雀に興じる、生き生きと楽しそうな水谷の姿。
その様子を、見つめるのは男女一人づつ。
おそらく、麻雀の控え要員なのだろう。
微笑ましく眺めているのは女性は、脚本家の服部佳。

そこにナレーション。
>「数少ない趣味のひとつは、やはり母譲りのマージャンです。
>良重さんのために集まってくれる男ともだちは、母の代からのお医者さんや演出家の先生方。
>見かけによらず、人の前に出ると気疲れしてしまうという良重さんが本当に気を許せるのは
>こんな70代のオジサマたち。いささか意外な現実です」


2012年現在、この麻雀仲間は全員鬼籍に入られたらしい。
ナレーションで紹介された演出家は戌井市郎のこと。
新派の名優・喜多村緑郎の孫。文学座代表でもあり、日本演劇界の重鎮。
新派との縁も深く、戌井最期の演出は、2011年の初春新派公演『日本橋』(三越劇場)だった。

水谷のブログに麻雀について書いている文がある。
http://funnygirl.exblog.jp/12625566/
ちょっとだけ引用してみる。

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>母は、大晦日の夕方から、必ず、麻雀の卓を囲んだ。
>母の一番尊敬していた喜多村録郎先生の未亡人、通称「バンバ」
>耳鼻科で母の生涯の主治医だった「杉村先生」
>文学座なのに喜多村録郎先生の孫、、って訳で新派の演出家の戌井市郎先生。
>そして二抜け(誰も抜けたがらないけど)に明治座の営業にいた「山戸さん」
>と、それに母、、、芝居は美味いけど、麻雀は酷い、母だった。
>このメンバーは、ネンマツの恒例行事として何十年間も母のオモリをして下さった。
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カメラに映った面子は、おそらくこの面子だったのだろう。


麻雀のシーンのあとは、
「誰にも触らせない部屋」が映し出される。
仏壇が置かれ、初代八重子の写真や賞状、舞台等を収めたビデオテープが部屋中に並んでいる。
『良重さんは今も母八重子と共にに暮らしているのです』のナレーションが活きる。


それにしても、あれだけのビデオテープ。
おそらく母親だけじゃなく、自分のものもあるのだろうが
あれだけ映像が残っているというのは凄い。
願えるならば、一度拝見させて頂きたい。宝の宝庫だ。


水谷が訥々と話し出す。
「八重子って風に名前が変るんだな・・・って、思った途端にね、
じゃあ良重って、一体何だったんだろうっていう思いが凄く強くて。
何か、初めて、その良重をアピールしたいな、このまま消えたくないなって」

新幹線が映り、時は平成6年年末、大阪へと舞台は移る。
良重では無くなる前に、良重でしか出来ないことをと考えた答えが"歌"だったらしい。
良重からの卒業旅行という位置づけらしい。

クリスマスディナーショーを行う会場で、リハーサルを行う水谷の姿。
伴奏を受け持つミュージシャンには、あのジョージ川口の姿もある。
ディナーショーのポスターにはツーショットが写っている。

会場は水谷良重に惹かれた人々であふれている。
水谷と同世代が集い、まるで同窓会のよう、とナレーションは紹介しているが、年上も多い。
若い世代も見受けられる。女性が多い。

ジョージ川口と軽口を交わし、ロビーへとスタンバイする水谷。
客用の出入り口から歌いながら登場する演出なのだ。
落ち着かない様子の水谷は話す。

>「いつも嫌なんですよね。こんなね、こんなドキドキする想いぐらいならいっそやんなきゃいいと
思うんですよ」
>「うちの母が、よく初日が怖くて怖くてたまらないって言ってたけど、キザだなと思ってたんですけどね…」

こう言いながらも、1曲目『ホワイトクリスマス』を歌って部屋へ入って行く水谷には
緊張は微塵も感じない。声も態度も堂々たるもの。お見事。

コミカルに仕立てた、越路吹雪の代表曲『ラストダンスは私に』も軽快で楽しい。
水谷は喜劇が本当に巧い。
ジョージ川口は、越路のバックバンドで長らくドラムを叩いていた。
水谷も越路を慕い、可愛がられていた。
二人に共通して縁ある人のナンバーだ。

ディナーショーのクロージング。
新派の仲間で、名脇役として知られる青柳喜伊子から花束を渡される。
『キーコ!』、水谷の声は歓喜に溢れている。

水谷は、眼に涙をいっぱい溢れさせながら語る。
>「良重っていう、ただ一生懸命、走った女優を、ほんのちょっとでも、心の片隅に覚えておいて下さい。
>水谷八重子だなんて、あんな大きな、大きな名前なんて継げやしないんです。中身はこのままなんですから。
>でも高い山を目指して、一生懸命、いい八重子になります。
>八重子になって生きていきます」

滝のように涙を流しながらも、話す言葉は明瞭に聞き取れるのはさすが。

私が会場に居たなら、間違いなくこの言葉にもらい泣きしている。
素晴らしいショーであったことは、細切れの映像からもひしひしと伝わってくる。
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by hakodate-no-sito | 2012-05-11 23:32 | テレビ | Comments(0)

石井好子INオランピア劇場

石井好子の人生のハイライトを考えて、これは欠かせないというものはいくつもある。
人によって、何を選ぶか違うとは思う。
だが1990年12月10日のパリ・オランピア劇場でのリサイタルについては
どなたも異論を唱えることは無いはずだ。

さして石井好子について関心が無かった頃、彼女を知りたてだった頃から、このことについて
は関心があった。
私はフランスやシャンソンについては、聞きかじりの知識ぐらいだが、オランピア劇場が凄い場所
ということは知っている。

日本人で初めてオランピア劇場に立ったのは芦野宏(1956年、東洋人としても初だったという)だが
個人でのリサイタルは石井好子が初だったという(その後2007年にTOMUYAという在仏の男性歌手が行っている)。

石井好子というよりも、ひとりの日本人が外国で格式ある劇場でリサイタルを行うことがいかに名誉か、ということに関心を抱いていた面もある。

シャンソン歌手がどうとイマジネーションが沸かない方は、こう置き換えてみたらどうだろう。
アメリカの白人が、来日して演歌を歌って、日本の歌舞伎座でリサイタルを行い盛況を収める。
・・・どれだけ凄いことか、おわかりになるだろうか。

昨年だったか一昨年、NHKの「あの人に逢いたい」という番組で、初めて石井のオランピア劇場公演の映像を観ることが出来た。
チラリと流れた程度だったが、光り輝いていた姿は確認することが出来た。
市販でビデオが無いものかと探してみたが無かった。再放送されないものかと思ったが、海外だと権利関係が複雑で難しいだろうと諦めるより仕様がないと考えていた。

「NHKで当時放送されたのだから、縁があったら成るようになる」、そう思って一旦自分の中で置くことにした。
有り難いもので、縁が出来た。
深く感謝しながら拝見した。

活字から抱いていたイメージとは違った。

オランピア劇場は歌舞伎座と新宿コマ劇場を足して2で割ったような、趣がある場所であった。
きちんと映像で観たことが無かったが、歴史を感じさせる良い劇場だと感じた。

石井のメイクが違う。フランス人のメイク師によるものだそうだ。
彼女の舞台化粧はふだん濃い目で、それが威厳をさらに引き立たせている。
だが、このときはたおやかさや美しさがよく引き出されていた。
オランピアのステージの合間に、パリ市内を回る見慣れた石井の顔が映るので、なおのこと感じる。

照明の力もあるのだろう。
ルヴェロリスというフランスの業界ではトップの腕を持つ人が担当したのだという。
普段あまり照明がどうということは、私は考えたことがないが、これを見ていると思わずにはいられなかった。
彼とのエピソードは、彼女の著書にいくつか記されている。
特に、生前最後の著書となった「さよならは云わない」(2005年)に掲載されているものは、ドラマティックで、興味のある方には一読を強く薦めたい。

ステージ。
私はパリのオランピア劇場だから、かなり気合の入った豪華絢爛なものを思い浮かべていた。
以前「あの人に逢いたい」でチラリと見た、何も知らないときの「凄い」という気持ちのままでいた。

でも、それは違った。
認識不足のまま考えたことを、そのままにして上書きをしていなかったことに気付いた。

確かに凄い、素晴らしかった。
でも、それはオランピアだからという特殊なものではない。石井好子のステージとしてなのだ。
どこまでも石井好子なのだ。準備万端で望んでいる、いつもの石井好子。
歌声のコンディションも完璧。気負いなど全く感じさせない。
違和感も無い、まるでいつもそこで歌ってたかのような佇まいすら感じる。

云うまでもないが、若いから出来たとか何も知らないから出来たとか、そういうものではない。
このとき石井好子は68歳である。
そして、オランピア劇場に立つということの凄さを、日本人では誰よりも知っている一人だ。
これだけの偉業をやってのけると、どこか厭らしさを感じさせる人も中にはいるが、彼女には該当しない。自然だ。

これがソフト化もされないのは、勿体無いという次元を通り越している。
ぜひ放送でカットされた部分も含めた完全版で、再放送なりDVD(ブルーレイ)化されることを強く望みたい。
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by hakodate-no-sito | 2012-02-25 19:47 | テレビ | Comments(4)

80歳の交響曲(その3)

しばらくぶりに、石井好子のDVD「80歳の交響曲・ROBAは一日にして成らず」を観ていた。
このDVDは、2002年11月4日、昭和女子大学人見記念講堂で行われた『都響スペシャル・パリの喜び 石井好子80歳/80人のシンフォニーと歌う』というコンサートの様子を収めたものだ。
石井好子が東京都交響楽団をバックにシャンソンを10曲熱唱している。

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アンコールナンバーとして、「二人の恋人(J'ai deux amoures)」を歌っているとき。
最前列の客席から、ひょこひょこと舞台に近い付いてくる人がいる。
片手を出して、石井と握手すると、すぐにバラの花一輪、差し出した。
このバラが、また舞台のアクセントとなって良いのだが、今までどうこう考えたことは無かった。

このコンサートの客席には、石井ファンの様々なジャンルの人々が集まっている。
岸朝子の隣りに秋山ちえ子がいる、ということは以前書いたと思う。
当時、石井の公式サイト(今は無い)では特別ページが設けられて、寄せられた絶賛の声を紹介していた。

DVDを見たあと、ふっとそこのページをまた見返したくなった。
インターネットアーカイブでこっそり覗いてきた。時々見られないときもあるが今日は無事見られた。

歌手の二葉あき子の文章に目が留まった。
掲載されているものを、そのまま引用する。

美しい偉大な歌手。私は先日の音楽会で心を打たれました。あんなに感激したことは数十年ありませんでした。
大きな舞台に、あなたはいつも中心に、強く、美しく存在しました。
一歩も、何にもゆずることなく歌いつづけられ、心の力、歌の力を出してゆかれ、空気さへあなたの前にぬかづいている様でした。
歌い方がどーのなんて言わせない。大きな演技。出てこられた足許からはじまって居りました。私は体がふるえました。美しいお姿は八十歳とは。三十台の女そのものの色気を感じました。
なんて、あなた、凄い方でしょう。楽屋ではやさしい、やさしい人ですのに。
大歌手とはあなたのことです。
一本のバラ、夢中で持ってゆきました。杖ついて、帽子かぶって、コトコトと、ハンドバッグ持って、コトコトと。みっともなくてごめんなさいね。おばあちゃんだから。

愛する愛する好子さま
十一月七日       あき子(二葉あき子さん)


二葉がその光景を見たかったなあ、と、それまでは呑気に思っていたのだが、今日あることに気付いた。
あの、薔薇一輪のひとは、二葉あき子ではないかと。
画面に映っている光景は、ちょうど遠景から映したもの。しっかりと顔は映っていないのだ。
だが、その人は帽子を被っているのは確認できる。
体型もこの時期の二葉とも一致する。
一本のバラもしかり。

私は二葉あき子で間違いないと思う。
本物は本物を知る、ということを示す良いエピソードではないだろうか。
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by hakodate-no-sito | 2012-02-20 00:12 | テレビ | Comments(6)