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菊池章子のはなし(その13)

テイチク上層部の考えをよそに「岸壁の母」は大ヒット。
当時歌謡界はふるさと歌謡全盛。
さらに歌い手の新旧交代がハッキリしだし、戦前・戦中派の歌い手によるヒットは殆ど無くなっていたのですが、そんな中で昭和14年デビューの戦中派の章子は存在感を見事に示したのです。
そして、テイチクレコードにとっても久々のヒットとなりました。この歌に菅原都々子の「月がとっても青いから」のヒットで傾きかけていた会社は持ち直したのでした。

章子はこのレコード発売にあたって、この歌のモデルになった人に逢ってみたくなりました。早速会社の人間に頼み、モデルの端野いせへ一筆したためました。
「私、テイチクレコード専属の歌手、菊池章子と申します。実は先だって貴女様をモデルに致しました”岸壁の母”という歌を吹き込み致しまして、さる11月にレコード発売致しました。つきましてはぜひ御一聴願いたく、御宅までお持ちしたいのですが如何でしょうか」

追ってすぐにいせから手紙が来ました。達筆で丁寧な文章でした。
「お手紙拝読致しました。有難い御話ですが生憎私には貴重なレコードを頂戴しましてもそれをかける蓄音機がございません。ですので、シベリアから息子が戻って参りましたら、その時、息子に蓄音機を買ってもらい、一緒に聴かせて頂きます。それまではそちら様の方でレコードは預かって置いて頂けましたら幸いです」

章子はどうしてもいせに会いたくなりました。
「どうしても逢いたいの、逢って話がしてみたいのよ」
マネージャーに過密スケジュールを調整して貰い、いせにも承諾を得ました。
土産としてレコードと蓄音機を持ち、案内役と取材を兼ねて、当時よく出入りしていた報知新聞記者(のち音楽評論家)の八巻明彦と共に、当時住んでいた東京都大田区大森の端野いせ宅へ訪れました。
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by hakodate-no-sito | 2009-10-25 22:24 | 菊池章子 | Comments(0)

菊池章子のはなし(その12)

「岸壁の母」のレコーディングは難航しました。
章子は初見で譜面を見て、歌うのはお手の物。
そして章子の吹き込み持論は
「1時間以内で終らせる」(集中力の限界がそのぐらいの時間)
「唄に酔ったり必要以上に感情移入したりしない」(ひとりよがりの唄になりいい歌ではなくなる)
なのです。
ところが、この唄はそうはいきませんでした。
胸にこみ上げてくるものを抑えきれず、何度も涙、涙・・・でレコーディングを中断。
章子はおろか演奏者側までもらい泣きしてしまうという異例のレコーディングでした。
それでも何とか吹き込み終わったときには、普段の吹き込みの何倍もの時間が経過していたそうです。

発売は昭和29年11月。
当時は唄が出来次第、すぐ吹き込みで長くて2ヶ月でレコード発売だったのですが、この唄は吉田茂から鳩山一郎へ総理職が変わるなどし、戦後から脱却したというムードが漂う風潮に逆行するような唄だから、と販売部が最初難色を示すなど大幅に遅れ、この時期の発売になったのでした。
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by hakodate-no-sito | 2009-10-19 23:03 | 菊池章子 | Comments(0)

菊池章子のはなし(その11)

昭和29年、章子はいつものようにレコーディングのため、テイチクへ顔を出しました。
そこでたまたま、作詞家の藤田まさとと会います。

「ねえ、章子ちゃん。これすごくイイからやってみない?」
「じゃあ、ちょっと見せて」

章子は藤田から歌詞の書いたメモを受け取り、目を通しました。
―ストーリー性があり、1番から3番までの流れがとても自然で訴えかけてくるものがある。
それは章子の好みの歌詞でもありました。

「センセイ、これイイわね。アタシやりたい、やらせて」

―昭和29年早春、
京都/舞鶴港でシベリアから引き揚げ船を待つ人々にNHKニュースで取り上げるため、インタビュアーがデンスケ(携帯用音声録音機)をかついで取材していました。
シベリアからの引き揚げ船はこれで最後ということで、港には多くの人々が岸壁でその帰りを待ち、そして船から降りて来た復員兵と涙を流し抱き会う家族。
インタビュアーはひとり、またひとりと話を聞いていきました。

引き揚げ船から乗客が全員降り終わった中、ひとり岸壁にたたずみ涙を流している初老の女性にインタビュアーは気がつきました。

引き揚げ寮に入っていくその女性をインタビュアーは追いかけ、尋ねました。
「まだお帰りにはならないのですか?どなたを待っておられるのですか?」

「息子を待っています。引き揚げ船名簿には名前はありませんが、理由があって偽名を使っているんじゃないかと思います。あの子は馬鹿じゃ無いから、必ず帰ってくるはずです」

その女性の名は端野いせ。
明治32年9月15日、石川県の生まれで北海道/函館で育ち、青函連絡船乗員の夫との間に娘を儲け、幸福な生活をしていましたが昭和5年、流行り病でどちらにも先立たれてしまいました。
家の存続のため、家主に頼み、家主の子ども(双子のひとり)を養子に貰い受けます。
やがて上京し女手ひとつでその息子/新二を育てます。
昭和19年、新二は出征し、大陸へ。
ほどなく中国/牡丹江での戦闘があり以降音信不通に。

「きっと帰ってくる」
そう信じて待っているという、いせの話にインタビュアーも胸がつまりました。
そして、このインタビューはNHKニュースで大々的に放送されました。

そのニュースを、藤田まさとも耳にします。
心動かされた藤田はすぐにペンを取り、番組が終わる頃には既に一篇の詩を書き終えていました。
終えるや否や、作曲家の平川浪竜へ曲付けを依頼。2日後には曲も出来上がりました。

「さて歌い手は誰にしようか…」
そう思いながら、藤田がテイチクへ顔を出したとき、章子と会ったのでした。
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by hakodate-no-sito | 2008-03-15 20:58 | 菊池章子 | Comments(0)

菊池章子のはなし(その10)

菊池章子がこだわったことのひとつにステージ衣装がありました。

もともとデビューには大反対だった章子の両親が、デビュー時に立派な衣装を着させてくれたこと、これが最初でした。その衣装は当時のトップ歌手たちのそれと比べても遜色ないもので、これで章子は並み居る歌手にひるむことなく、自信を持ってステージへ出て歌うことが出来たのです。

この経験から
―流行歌手は歌がうまくて当たり前、舞台の上で人様の前で歌う以上見かけも重要なのだ。そして、そうすることで自分も自信を持って歌える―
という信念に繋がります。

莫大な収入すべてが自分で使えることもあり、章子はたちまちオシャレに傾倒していきました。
コロムビア時代、1ヶ月分の収入分をすべて衣装につぎ込んだこともあるほどでした。
そして、それは遺憾なくステージで披露され、好評を博していました。

昭和21年にテイチクへ移籍した際の契約金は当時の金額(銭・厘が健在の頃)で1万2千円、章子は全額はたいて、ミンクのコートを買いました。

当時ミンクのコートなんてとても手に入る代物ではなく、誰も着ていません。
「さすが…」と皆羨望の眼差しで章子を見ていました。

ただ、章子を妹分と可愛がっていてオシャレに一家言ある淡谷のり子には
「ミンクというのは昼間着るものじゃないの、夜着るもの」
とバッサリやられたのでした…。

当時、テイチクに所属していた歌手では章子・ベティ稲田・月丘夢路の三人はそれぞれ専属デザイナーがいて、アメリカから取り寄せた生地などで衣装を作っていました。
それだけ、ステージ衣装への関心が高かったのです。

昭和24年に「母紅梅の唄」がヒットしてからは、母物歌謡が続き、衣装は着物が多くなります。
三益愛子の母物映画の主題歌を担当し、ヒットが出たのがきっかけでそれから30曲以上、母物歌謡が続きました。

結果、"母物の菊池"のイメージが定着してしまい、章子は一時期すっかり母物を歌うのが嫌になりました。

「私はもっとストーリー性がある歌を歌いたい、歌詞を読んで情景がありありと浮かんでくるような…」

母物が連続して続くと、どうしてもマンネリに陥り、同じような曲が続いてくるのに耐えられなくなったのです。

それではと出たのが、当時人気急上昇だったスター/若尾文子主演の大映映画『舞妓物語』主題歌の「春の舞妓」でした。
この歌は母物が続いた章子の、久々の別ジャンルの曲であり、大ヒットとなります。
このときのステージ衣装は、着物に日本髪の鬘、舞台で踊りも入れて艶やかに…と関係者は考えていましたが、章子は「お願いだから踊りは勘弁して欲しい」と、その部分だけはカットとなりました。実は章子、幼少の頃踊りをならったのですがどうにも合わず苦手だったのでした。

そして、昭和29年。
章子にとっても、そして昭和歌謡界にとっても忘れられない名曲「岸壁の母」との出会いが待っていました。
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by hakodate-no-sito | 2008-03-13 00:38 | 菊池章子 | Comments(0)

菊池章子のはなし(その9)

戦後、検閲は軍部に変わりGHQが行っていました。
このGHQの検閲に「こんな女に誰がした」は引っかかりました。
"日本人の対米感情を煽る恐れがある"というのがその理由でした。
テイチクは考えた末、タイトルを「星の流れに」へと変更します。

この改題が功を奏し、無事レコードは発売許可となります。
昭和22年12月、清水みのるが詩が書いてから1年4ヶ月の月日が経っていました。

やれ嬉や…と思っていたのもつかの間、今度は当時テイチク本社があった奈良県の教育委員会から、この歌の発売自粛を訴えられます。
「詩の内容は社会教育的にいかがなものか」ということでした。

このため、テイチクでは発売中止こそしませんでしたが大々的な宣伝を自粛せざるを得ませんでした。そしてこのことが響き、NHKでも放送が見合わされてしまいます。

そんな訳で発売当初、レコードは全く売れませんでした。
しかし、制作に関わったスタッフは自信を持っていました。
「この歌は絶対ヒットする」と。
章子自身も、ステージでこの歌を歌う度、客席が涙を拭く姿を見ており、売れる確証を持っていました。

発売から半年が過ぎた頃から、この歌は徐々に売れて来ました。
「夜の女」によって口ずさまれるようになり、そこから徐々に知れ渡るようになっていたのです。

昭和23年、映画「肉体の門」の挿入歌として使われたことがきっかけでこの歌はさらに広く知れ渡り、大ヒットとなり、戦後そして昭和を代表する曲として記憶されていくことになりました。
そしてコジキ節と蔑まされていた流行歌の社会的地位向上にも一役買うことにも…。

このヒットで「モデルになった女性を探そう」という話が持ち上がり、関係者からマスコミまで様々な人が長谷乙女なる女性を探しました。
しかし、該当する人物はついぞ見つからずじまい…でした。

この頃、章子が浅草/国際劇場や日劇で歌い終わって帰ろうとすると、楽屋口に「夜の女」たちが待っていました。彼女たちは章子をオネエサンと慕い、進駐軍から貰ったガムやチョコレート
を差し出すようにくれました。

―日々の暮らしがやっとなのに、決して安く無い入場料を払って、私の歌を聴きに来てくれる。
この出来事は、章子の長い歌手生活の大きな支えとなることになりました。

章子は、生涯この歌への熱い想いを抱き続け、この歌を歌うときはいつもあの時の気持ちになって歌っていました。
それは青春期を戦争によって汚された章子の、精一杯の、国への抗議でもありました。

「今のような平和な世の中になるまでには、この歌に描かれたような、こんな哀しい悲惨な時代があったことを忘れないで欲しい。そして少しでも理解するようにして欲しい」
―晩年、章子はインタビューに対し、こう答えています。
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by hakodate-no-sito | 2008-03-11 09:18 | 菊池章子 | Comments(1)

菊池章子のはなし(その8)

紆余曲折あった「こんな女に誰がした」ですが、歌手も菊池章子に決まり、いよいよレコーディングの日に。

当時のレコーディングは2~3回のテストの後に本番という形式。
バンドの音合わせ、歌手立会いの音合わせ、そして本番。
レコーディングは原盤に直接吹き込む形式、少しでもNGがあれば一からやり直し。
原盤にも限りがあるので、やり直しもそうそう出来ません。
まさに一発勝負、歌手もバンドも高い技術が求められていた時代です。

章子は精神統一し、立会いの音合わせにしスタジオへ入ってきました。
前奏が流れてきたとき、章子は首をかしげます。
「あれ?この歌は私のイメージしているものと違う。何か違う…」

章子は叫びました。
「利根(一郎)ちゃん、私やめた。こんなリズムじゃ嫌よ」

この編曲は利根一郎自身で手掛けていました。
当時流行のブギ調で、軽快な中に潜む哀しさ―という考えだったようです。
しかし章子は
「この歌はもっと哀しい想いを込めて歌わなきゃいけないんじゃない?それなのにブギじゃ軽すぎるわよ。ブルース調で行くべきじゃないの」
と意見。

章子の意見は受け入れられ、この日のレコーディングは中止にし、後日そのアレンジで改めてレコーディングということになりました。

数日後、再レコーディングの日が来ました。
今度の編曲は章子は大久保徳二郎。
章子の夫ですが、大久保は事前に何もアレンジのことは言いませんでした。
大久保の音楽的センスを、章子は尊敬に近いものを抱いており、不安もありません。

章子がスタジオ入りしてまもなく、前奏が流れてきました。
「そう、このイメージよ、私の想ってたのは。このリズムなのよ」
章子は心の中で叫びました。

こうしてレコーディングは無事に終わり、あとはレコード発売を待つだけになりました。
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by hakodate-no-sito | 2008-03-10 06:06 | 菊池章子 | Comments(0)

菊池章子のはなし(その7)

昭和22年夏、章子のアパートにテイチクのディレクターの細江徳二(喜劇女優・武智豊子の夫)が訪ねて来ました。

「こういう歌があるのですが、どうですか?」
細井が封筒から数枚の楽譜を取り出し、章子に差し出しました。

その歌の題名は"こんな女に誰がした"
夜の女、当時パンパンと呼ばれた売春婦が主人公の歌と聞き、章子は
「何で私がそんな歌を歌わなきゃいけないの」と不快に。

「作品を見てから決めて欲しい」
そう細江に言われ、しぶしぶその詩に目を通すと、章子が抱いていたパンパンのイメージを覆すもの。汚れた陰湿さはまるで無く、戦争の犠牲になった女の哀しみ、やり場の無い怒りのようなものがひしひしと伝わってきます。

次に章子は譜面に目を通しました。
今までに無い、ジルバ調のメロディでしたが、胸にスッと染み入るように流れ、自分なりのイメージが浮かんできました。編曲のイメージも自分なりに浮かびます。

「細江さん、私やってみるわ」
章子の力強い返事に、細江は胸にこみあげるものがありました。
実はこの歌、歌い手を得るまで1年の歳月が経っていたのです。

昭和21年8月29日の毎日新聞にこんな記事が掲載されました。
投書記事の題名は"転落するまで"
世田谷在住の長谷乙女なる女性のものでした。

私はこの三月中旬、奉天から引き揚げてきました。
着の身着のまま、それこそ何一つ持ってこられなかったのです。
私は二十一歳です。
奉天では看護婦をしておりましたが、今でも免状だけは持っております。
東京についたものの、誰を訪ねてゆけばよいか、行先がありませんでした。

本籍は新潟ですが、両親はなく遠い親戚があるとのことですが、どうなっているのかわかりません。だから、東京で働くより他に方法はありませんでした。

やっと他人様のお世話で女中奉公の勤め口がみつかり、やれうれしやと思ったのも束の間、そこは待合であったのです。
けれども、待合であろうと何であろうと、食べていくことができるのですから、一生懸命働きました。ところが、二週間位たったら、そこの女将さんから、「芸者になれ」とすすめられました。

しかし、私は三味線がひけるではなし、唄えるわけでもないので断りましたが、女将さんは「それで結構だよ」といって、それよりも嫌なことを押しつけようとしました。
私は驚いて、即座にその家を飛び出しました。風呂敷ひとつを持って・・・・・・。
けれども、勤め口はありません。
乏しいお金もなくなったので、旅館を追われ、上野の地下道に来ました。

ここを寝所にして、勤め口をさがしましたが、みつからず、何も食べない日が二日も続きました。
すると、三日目の夜、知らない男が握り飯を2つくれました。私は貪り食べました。
その男は翌日の夜もまたおにぎりを2つ持って来てくれました。
そして話があるから公園まできてくれといいました。私はついてゆきました。
その日はたしか六月十二日だったと思います。
それ以来私は「闇の女」と世間からさげすまれるような商売におちてゆきました。
(原文ママ)


これを読んだ作詞家の清水みのるは頭を殴られたような衝撃を受けました。
戦争の裏に隠された人間の悲惨さ・哀れさ
―そしてその衝撃は戦争への怒りと繋がっていきました。

清水は叩きつけるようにして、その日のうちに一編の詩を書き上げます。
そして、同じ音楽仲間で、テイチク所属の作曲家(当時はディレクター)の利根一郎に作曲を依頼します。
利根も、清水の想い、そして詩に共感し、自ら上野近辺に足を運ぶなどして、曲を書き上げます。

利根は出来上がった作品を同僚の細江徳二へ見せました。
細江はその作品を見て、涙をこぼし、「俺に担当させてくれ」と一言。

しかし、この三者の眼鏡に叶う歌手はなかなかいません。
この歌の良さ、歌の心を表現出来て、なおかつこの歌を理解してくれる歌手がいないのです。

章子に打診する前、三人が「この人なら…」と打診した歌手がひとりいました。
淡谷のり子です。
しかし、淡谷は「良い歌ね。でも私の歌じゃないわね、こういう歌は私は嫌」とアッサリ拒絶。

途方にくれていた中、テイチクの文芸部長の川崎清が
「ならさ、章ちゃん、菊池章子なんてどう?」と推薦してきました。
この川崎はもとはコロムビアの社員で、章子とは旧知の仲でした。

「あ、章ちゃんがいたか。肝心な人を忘れてたよ」
三者はハッとします。
この三者は戦前/戦中はポリドールの社員だったこともあり、コロムビアから移籍して間もなくだった章子のことは頭に無かったのです。

そして、早速細井は章子のもとへ向うことになるのです。
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by hakodate-no-sito | 2008-03-09 00:01 | 菊池章子 | Comments(2)

菊池章子のはなし(その6)

戦争もたけなわな昭和18年、章子は一世一代の恋をします。
相手は、サックス奏者で作曲家そしてアレンジャーの大久保徳二郎。

二人の出逢いは、章子が公演で全国を回った際に大久保もバンドマンのひとりとして公演に参加いたことからでした。
大久保のサックスの吹き方に、章子はすっかり心奪われ、やがて恋仲へ。

戦争中ということもあり大っぴらにデートすることはなかなか出来ませんが、それでも仕事にかこつけては旅館などで密かに逢引を重ねていました。

章子は「この人と結婚したい」を強く望み、両親に結婚の許しを乞いました。
が、両親は大反対。
「離婚歴のあるような男と一緒にさせる訳にはいかない」の一点張りでした。

そうこうしている内に、戦局の悪化で30過ぎの大久保の許にまで赤紙(召集令状)が届き、外地へ行ってしまい音信不通になってしまいます。

大久保が出征してまもなく、章子が自分が妊娠していることに気付きました。
章子は「生きて帰って来れるか判らない好きな男の子供、一緒になれなくてもせめて…」と心に決めていました。

(当時は妊娠中絶は法律で堅く禁止されており、刑罰物でしたので、両親も産ますことしか方法はありません)

昭和19年6月、章子は男の子を出産。
名前は仁と名付け、両親の子、つまり章子の弟として届け出ました。

戦後大久保は無事復員し、"大久保徳二郎と祇園スタイルバンド"というバンドを結成したのを章子は風の噂で耳にします。

しかし、章子は大久保に逢おうとはしませんでした。
「もうあの人のことはいいのだ…こうやってそっと活躍を見るだけで、仁を育てていくだけで・・・」
内心は逢いたくてたまらなかったのですが、そう歯を食いしばっていたのです。

昭和21年も終わりに近づいた頃、章子のもとに大久保の姉がやってきます。
「大久保に逢ってあげて欲しい」
―こうして、章子と大久保は数年ぶりに再会します。
そして大久保は自分の子の存在を知り、大変喜びました。

章子は大久保との再会で、「添い遂げたい」という心に正直になることを決意します。
両親の反対を押し切り、実家を飛び出し、大久保のもとへ。
大久保の長男の直彦を引き取り、親子4人と大久保の兄弟たちと暮らし始めます。

ここで章子の両親もやっと折れ、母/たまは忙しい章子に変わり、子供の面倒を見てくれるようになります。

大久保との結婚と同じくして章子は昭和12年以来所属していたコロムビアを離れ、大久保の所属するテイチクへ移籍へと移籍することに。
当時のコロムビア関係者の嘆き/慰留は相当なモノでしたが、章子の気持ちは強く、覆ることはありませんでした。
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by hakodate-no-sito | 2008-03-08 13:33 | 菊池章子 | Comments(0)

菊池章子のはなし(その5)

戦争中、すべての歌手が経験したのが慰問。
章子も御多分に漏れず経験しています。

歌い手によっては慰問は内地だけ、という人もいましたが、名の知られた歌手はほぼ全員外地へも慰問に赴きました。

章子はインドシナ半島。
広東を経由してのインドシナまでの船旅。

行きの船では、ある軍部隊も一緒。
そこで章子は、所謂軍隊の"しごき"を目撃した。
それは尋常なものでは無く、当時17歳の章子は恐怖のあまりに思わず涙がこぼれ、船長に
「お願いだから止めるように言って下さい」と懇願しました。
しかし、船長は「軍部のことは我々にはどうにも出来ない」と。

「それでは…」と章子は船長から船内にいる軍人で一番偉い人を聞き出し、その人の許に行き、直談判し、その"しごき"を止めることに成功しました。

その一番偉い人は、加藤隼戦闘隊の新美中隊長。
このことがきっかけで章子と加藤隼戦闘隊は親しくなり、本来慰問予定に無かったこの部隊へも慰問に行くことになります。

章子はこの時、部隊員から直接、いくつか隊員内で歌われている歌を教わります。
その中には「飛行第六十四戦隊歌」もありました。
この曲こそ、後に軍歌の代名詞と呼ばれる「加藤隼戦闘隊」なのです。

この唄は昭和16年元旦ニュース映画で放映されたことで徐々に知られるようになり、昭和18年灰田勝彦の唄で吹き込まれ、大ヒットとなります。

この灰田勝彦。吹き込みして、まもなく章子と仕事で一緒になります。
その際、この歌のことを話したところ、章子は知っているので歌ってみせました。
灰田は「何で章子ちゃん、この歌知ってるの!?」とえらく驚いたそうです。

章子と戦闘隊との交流は戦後も途切れることなく続き、平成14年に章子が亡くなった際も多数の戦闘隊員が葬式へ駆けつけ、その死を惜しんだそうです。

横道にそれたので、元に戻しますが
章子たち慰問団の待遇は非常に良かったそうです。
当時インドシナはフランス領だったこともあり、章子たちの宿泊所はホテル。
なんと朝食はコーヒーとフランスパンだったそうです。
一緒に行った漫才師はこのフランスパンのお陰で歯が折れるというアクシデントがあったとか。

慰問に行った先々では、当時手に入り難くなっていた高級酒が呑めるということで、慰問団の男性は喜んでいたそうですが、章子はまだ未成年のうえ、下戸(これは生涯変わりませんでした)なのでそういう楽しみは無かったようです。

章子はなるべく慰問団が来ていない部隊を中心に慰問して回りました。
移動は軍用トラックで行いましたが、決して乗り心地は良いものではなかったそうです。
しかし、部隊の章子への気遣いは大変なものであり、章子付きの兵隊が必ず一人はいて、世話を焼いてくれ、その姿・気遣いをみると、さすがの章子も何も言えなかったとか…。

章子は慰問は振袖で臨みました。
その振袖姿に懐かしい故国を思い出した兵隊が「(振袖に)触らせて欲しい」と懇願することも多かったそうです。
当時章子の人気は凄まじく、どこの部隊からも慰問願が次々に舞い込みました。
その結果、インドシナ半島にいた部隊をほぼ回りつくし、サイゴン、ハノイ、ホーチミンのあたりまで赴きました。その結果本来の帰国予定がドンドン遅れて行きました。

大の大人でも日本が恋しいと訴えるのに、章子は十代の乙女です。
お国のため…と頑張ってきましたが、さすがに耐えられなくなり、「日本に帰らせて下さい」と懇願して、やっと帰国することが叶います。

「もう少し待てば一万トンクラスのチャンとしたイイ船が来ますよ」
という言葉を押し切り、「タコ部屋のようなところで全員が雑魚寝という状態の船でも何でもいい、早く日本に帰りたい」と昭和16年11月30日、帰国の船に乗り込みました。

ところが帰国途中の12月8日、太平洋戦争に突入したことで帰国が大幅に遅れてしまいます。
燃料補給のために、港に寄っても軍艦優先で、燃料が少ししか分けて貰えないのです。

そして、夜は甲板に出るのを禁止され、もしそこで煙草なぞ吸おうものなら銃殺するとのこと。
さらに、トイレの近くにはスパイ監禁室もあり、そこを避けてトイレに行く事は出来ません。

章子はそれがとても恐ろしく、トイレに行く際には慰問団の男性2名がガードすることに。
ところが、「銃後を預かる日本女性がこんなものが怖くてどうする」と憲兵の厭味が飛んできます。時には「こんなやつら、殴ってみせろ」と強要することもあったそうです。

扱いが比較的良かった章子でもこの待遇です。他の乗客はなおのこと気の休まるヒマはありません。

同乗していた新聞記者のひとりはやがてノイローゼに罹り、船から飛び降りて自殺しまう事件もありました。章子も、甲板の片隅に遺された片方の靴を見ています。

このように乗員は苦労に苦労を重ね、昭和17年2月に船はやっと日本に着くことが出来ました。インドシナを出発して、2ヶ月以上の月日が経っていました。

「只今帰って参りました」
章子は世田谷大原町の自宅へ帰ると、家族は驚くやら泣き始めるやら。
仏壇を見ると何着もの新しい振袖がお供えされています。
章子は既に亡くなった…と思われていたのでした。

そして、帰国した章子はもう一つ驚かせることがありました。
家族が一人増えているのです。

その子の名は、幸子。
章子と共に慰問に行き、章子とも親しかった歌手の菅沼幸子から名を貰ったとのこと。
「自分と同じ名前じゃなくて良かった・・・」
章子は安堵しました。

その幸子こそ、「北上夜曲(和田弘とマヒナスターズとのデュエット)」などで知られる歌手の多摩幸子(たま・ゆきこ)、その人です。

幸子のデビュー当時、親子ほどの年齢差に「この姉妹は本当は親子だ」という噂が立ったりもして、その都度章子は否定して回ったそうですが、晩年はもうどうでも良くなったらしく聞かれた際に「そうよ、私の娘」と冗談めかして答えることもあったそうです。
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by hakodate-no-sito | 2008-03-06 13:24 | 菊池章子 | Comments(0)

菊池章子のはなし(その4)

レコードデビューこそイロイロありましたが、章子の流行歌手としての活躍は極めて順調。
昭和15年には「愛馬花嫁」、そして「相呼ぶ歌」が大ヒットし、章子は一躍スターダム、「お姫様スター」「大人ものを歌う少女歌手」として引く手あまたに。

章子の稼ぎですが、この当時なんと一国の大臣よりもあったと章子が後年明かしています。
この頃、流行歌手は役所へ3円20銭払い、遊芸稼ぎ人の鑑札を貰えば無税だったのです。
(ただし、社会的扱いは最低のものでした)

このことに対し、章子の父は
「とんでもないことだ。娘が稼いでる金で家族が食っていると(世間から)思われたら、たまったものじゃない」と言い、そのため章子は自分で稼いだギャラは、人にご馳走したり、装飾品を買うなどして、すべて自分で使ったそうです。

これだけの稼ぎがあるということは、それ相応の仕事があるということ。
女学校へ行く暇など、たちまち無くなってしまい中退。
親の手前もあり、知り合いのクラシック教師の口利きで、東洋音楽学校の声楽専科へ籍を置くことになったものの、仕事が忙しく一度も授業に出席することなく、退学。

最初は成り行きで始めた流行歌手でしたが、章子もこの頃になるとプロとしての自覚が芽生え腹をくくって活動するようになっていきました。
戦火が激しくなる最中、章子も各地へ慰問に出かけ、遠くはインドシナ半島まで赴きました。

先輩歌手である伊藤久男とは「相呼ぶ歌」「機上の歌」「馬」、そして戦後21年「おしどり双六」と共唱する機会/ヒットが続き、名コンビとして活躍しました。
ディック・ミネによれば、この伊藤久男は面食いであった章子の初めての男性でもあったようです。

昭和18年1月、松竹映画『湖畔の別れ』主題歌であった「湖畔の乙女」が発売。この歌は菊池章子の戦前最大のヒットとなります。
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by hakodate-no-sito | 2008-03-04 00:01 | 菊池章子 | Comments(0)