年齢不詳な若人が唄の話を中心にアレコレと・・・


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カテゴリ:デュークエイセス( 10 )

電話口から聞えて来た声

今週の半ば、ある事務所へ電話を掛けた。
週はじめにメールで問い合わせをしたのだが、この手のものは反応が無い、または忘れたころではないと返信が来なかった過去の経験を思い出し、電話というかたちを取ることにしたのだ。

「ハイ、デューク(音楽事務所)です」
電話口から聞こえて来たのは、たいへん耳馴染みのある声だった。
彼らが個人事務所で活動していることは知っていたが、まさかリーダー自ら電話の応対をするとは驚いた。
さらに私を驚かせたのは、その声の若々しさである。
昨晩、聴いていたライブ盤そのままのバリトン声なのだ。機嫌の良さそうなテンションも同じだ。
30余年の時の経過をまったく感じさせず、レコードに収められた世界がそのままに受話器の向こう側に広がっている。

予想だにしない展開にアガってしまったからか、最初は全然話が噛み合わない。間違い電話なのではないかと思われてしまった。
そのうちメールは、どうも誰の目にも付いていないことが察せられたので、改めて用件をお伝えした。
「デュークエイセスさんのアルバムで、数年前に再販された『コーラスの仲間たち ビバ!!コーラス』のCDなのですが、在庫をまだお持ちではないでしょうか」

e0134486_19413440.jpg

「コーラスの仲間たち ビバ!!コーラス」は、デュークエイセス結成25周年記念アルバムとして3枚組のLPとして1980年に発表されたもの。
デュークの十八番である洋物ナンバーばかりが収められている。2006年に再販されたが、すぐに店頭から姿を消し今では入手困難になっている。
3~4年前、あるCDショップで現物を見かけたのだが、生憎と手許不如意だった。日を改めてその店へ行ったが、既に品物は無かった。
ネットオークションでもCDは見かけず、悔いの残るアルバムになっていた。

リーダーは「少々お待ち下さい」と自ら事務所のなかを確認して下さった。ここには見当たらないというお返事だった。
コンサート等での物販用に在庫を確保していないだろうかと思っていたが、さすがにもう売れてしまったのだろう。

「東芝・・・今はEMI(レコード・ジャパン=ユニバーサルミュージック傘下レーベル)ですか、レコード会社の方に問い合わせすれば、もしかしたら…」
それは既に不首尾に終わっており、CDショップやインターネット販売でも入手出来なくなり、中古でも見当たらないことをお話したところ、「では、コピーということになりますが、それでよろしければ(ご参考までお貸ししましょう)」という言葉が返って来た。
有難い話だが、さすがにそれは申し訳ないと辞退した。
これは、やはり現物を手許に置きたい。歌詞カードを黙読し、編曲者等のクレジットから想像を膨らませ、ジャケットを見つめ、とことん愛でたいアルバムなのだ。

「そうですか・・・では、こうしましょう。こちらでも探してみますので、"もし"在庫が見つかったらお電話いたしましょう」
「はい、よろしくお願いいたします」
もともと駄目もとでの問い合わせだ。「もし」は多分「無い」だろう。
だが、名前は明かしておられなかったが、思いがけずリーダーとお話が出来た。
それも、こちらが恐縮するぐらいの好対応だ。私のこころは満たされた、それで良い。
縁があったらどこかで買えるだろう。

そんなことを思っていたのだが、次の日、何と電話は鳴った。
「先日はお電話頂きありがとうございます。私、デュークエイセスの谷と申します」
昨日と同じ人の声である。
事務所の人では無く、デュークエイセスのリーダー・谷道夫直々の電話だった。

「昨日の電話の件ですが、CD、見つかりました。ハイッ。それでですね、私が責任を以って、これからすぐお送りしますので、ご住所をFAXで送って頂けますか」
デュークエイセスというのは、功名成し遂げた、日本の音楽史に残る大コーラスグループだ。そのグループのリーダーが、ここまで懇切丁寧な応対をして下さる。
恐縮するというのは、まさにこういうときに使うことばである。強く実感する。

「あのアルバムは『今には無い、アナログな感じが良い』って、よくお褒め頂くんですよ」
谷リーダーご本人もお気に召したアルバムであるらしい。なおのこと、待つ身の胸が高鳴る。

翌々日である今日、CDは届いた。直筆の手紙付きで、だ。

手紙の字体から、封筒の宛名もリーダー自ら記されていることがわかった。
5年前、自費出版された自叙伝(「人生はハーモニー」)を購入した、あのときと同じ・・・。

何から何まで行き届いた、人柄を感じさせる今回の応対、胸が詰まった。
今、私は幸福な気分につつまれ、最高の内容のアルバムを聴きながら、この日記を書いている。
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by hakodate-no-sito | 2013-04-20 19:42 | デュークエイセス | Comments(30)

艶と意欲と可能性と…「Duke Box'95」から

最近ぷらっと寄ったブックオフのCDコーナーにこのアルバムが置いてあった。
安いとは言えない値段に、どうしようかな…と一瞬迷ったが、まあたまには買物をしよう、と思い立ち我が家へ引き取った。それから1ヶ月も経たないうちにメンバー/飯野知彦の訃報が届いた。

何かブログで書くネタは無いかな…と机上で考えていたとき、このアルバムを思い出した。
40周年記念盤ということだから、15年の月日が流れたということになる。
今聴けばどうかな…というような内容ではなく、デュークらしく長い歳月に耐えられる内容。
全曲感想は長い一方なので気になった曲からいくつか書きたい。

e0134486_7282139.jpg


当時の朝ドラ主題歌で人気を博していた「春よ、来い」をカバーしているのには驚きとデュークならさもありなんという二つの気持ちがもたげる。
ピアノを全面に押し出したアレンジで、大人の聴くムードを醸し出し、特にあまく囁く吉田一彦のメインボーカルにサポートの飯野氏には、艶が存分に感じられ、もう一工夫と押しがあれば、もっと話題にもヒットにもつながったのでは、と惜しく思う。
デュークは半世紀を越えるキャリアの今も紅白出場を新年の目標のひとつに掲げていると聞いたことがあるが充分それに値する実力を改めて感じさせてくれた。

吉田×飯野コンビの艶といえば「見上げてごらん夜の星を~聴こえくるメロディ」も欠かせない。
吉田×飯野、谷×槙野の両コンビが絶妙なバランスで聴かせてくれる。もっとStandard化しても良いのでは無いだろうか、この「聴こえくるメロディ」
嬉しい事に飯野の後任である大須賀ひできの歌唱法とこの歌は相性が良い。
昨年NHK-BS「BS日本のうた」で披露していたが、大須賀氏の艶も相成って、新たな魅力を持って聴かせていた。

コーラスといえば低音。バスの声。という人も多い。
かつてダークダックスで一番人気だったのは意外にもゾウさんだという。
デュークのミスターベースマン/槙野義孝の魅力を存分に堪能出来るのが、懐かしの洋楽ナンバー「ワシントン広場の夜は更けて」。
ダークダックスはクールかつ抒情的に歌っていたが、デュークは遊び心満載のアレンジ。
コーラスもデューク自ら担当し、八重唱。この手の面白さも大ベテランの域でありながら健在なのがデュークの魅力でもある。

40周年曲「はるなつあきふゆ」
四季の移り変わりと人の生死を絶妙なタッチで書いた永六輔の、あらためて作詩家としての才能を感じさせる一品。多彩な面を持つ永氏だが、この面はもっと強調されて評価されて良いはず。
15年経ち、デュークの飯野氏が世を去り、永氏も表向きポリープと称しているが、そうではない別の病名を連想させる衰弱状態にある。
♪誰かが生まれて 誰か死んだよ (中略) 繰り返されて はるなつあきふゆ
改めていろいろと考えさせられる。
それでも、もし叶うならば、あと少し、せめてあと5~6年、デュークには歌っていて欲しい。
願わずにはいられない。
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by hakodate-no-sito | 2010-01-11 07:29 | デュークエイセス | Comments(0)

小説・デュークエイセス/飯野知彦(その7)

飯野の体調に変化が訪れたのは平成19年の晩秋。
どうも胃が痛むのだ。
デューク加入後、胃潰瘍を患ったことがあったため、今度もそれだろうと思っていた。

「オフになったら病院へ行こう」
病院を訪れたのは12月。

診断結果は…想像を絶するものだった。
胃癌。芳しいものではなかった。

翌年1月手術が行われた。
病気のことはデュークメンバー及び事務所関係者以外のものには緘口令が惹かれた。
手術後の復帰は早かった。
何事も無いように飯野はステージに戻り、歌った。
ふくよかな顔がすっきりとしたことから「ダイエットしたのかな」と思った、事情を知らないファンは少なくない。

が、それも夏を過ぎ、秋になってくると、やはり体調は悪化の一歩をたどった。
平成21年1月、飯野の癌は再発し、さらには転移までしていることがわかった。
既に病は末期、医者からは年内保つか保障できないと宣告された。
それでも飯野は最期まで歌い続けることを望んだ。
家族やメンバーもその意思を尊重することにし、活動を続けた。

最期のステージは5月21日、大阪厚生年金会館での公開録画。
既に身体は限界を迎えていたはず…飯野は渾身の力を振り絞って歌った。
体調の悪さは誰の眼にもあきらかではあったが、観客には余命幾ばも無いようには見えなかった。
テレビでその姿を見たファンは「酒好きだったから糖尿病なのでは」という見方をしたものもいた。

6月15日、飯野は自宅で倒れた。
それから約1ヶ月、意識を失い、昏睡状態に陥った。
デュークメンバーも非情の決断を迫られた。
家族とも話し合い、病気療養に専念ということで飯野はデュークから離脱した。
もし回復したら…という含みは勿論あった。
だが、それは奇蹟でもおこらない限り、無いのだ・・・。

意識を取り戻した飯野はもう一度ステージに立つべくリハビリを開始した。
「君のピアノで、僕の歌で・・・またリサイタルやろう」
そう、妻に話しかけたという。
年に一度、地元の埼玉で行うソロリサイタルを飯野は楽しみにしていた。
ここでは自分の好きな歌を心ゆくまで、愛する妻の伴奏で歌えた。

飯野知彦
平成21年11月20日、胃癌のため没。55歳。

葬儀にはデュークメンバーも駆けつけた。
そこには飯野の後任・大須賀ひできの姿もあった。
「トモさん…早過ぎるよ。俺の後はトモさんに任せるぞって言ったら任せておいて下さい、って言ったじゃないか」
谷道夫は哀しみに耐えながら秋晴れの空を睨んだ。

澄んだ秋空に飯野の歌声が響いていた。

――
お読み頂きまして有難うございます。
資料等を基にして書いてみました。
事実誤認は無いように書いたつもりですが、天性の粗忽者ゆえ、悔しいかなあると思います。
もし、ここが違う、そこが違う、という部分ございましたら、コメントで御指摘お願い致します。
最後ですが、改めて飯野知彦さんの御冥福を御祈り致します。
そして18年間ありがとうという感謝の気持ちを捧げます。

追記)
しでかしたな…という想いがあります。
入手できた情報は全部書いたつもりですが、やっぱり穴が無いわけがなく…。
もう一度情報収集した上で、改めて修正・訂正・加筆版をこさえることを御約束します。
飯野さんのエピソード、どんなことでも構いません。お寄せ頂ければ…と思います。
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by hakodate-no-sito | 2009-12-08 01:58 | デュークエイセス | Comments(19)

小説・デュークエイセス/飯野知彦(その6)

電話の相手は曾根研一だった。
曾根は東京混声合唱団の事務局長。
飯野も合唱団に在籍していた時代から親しかった。

「デュークエイセスの谷口安正が亡くなったのは知っているかい」
「本当ですか!…残念です。まだ50代なのに・・・」
飯野もデュークとは仕事こそ6人コーラスをしていたころに何度か競演した程度だったが、ファンは続けていたし、シアターアプルのコンサートへ行った時には楽屋へお邪魔し、谷口安正と話をしたこともあった。それだけに訃報はショックだった。

「実は君に話があるのはそこなんだ。デュークに谷口君の後で入らないか」

曾根は、デュークエイセスのメンバーと極めて密接な関係にあった。
まず明大合唱部OBで、バリトン/槙野義孝の後輩。
一時コーラスで、セカンドテナー/吉田一彦の姉と組んで歌っていた。
その縁から、トップテナー/谷口安正をデュークメンバーへ推薦している。

聞けばリーダーの谷道夫も「曾根さんがよく知っている人なら…」と既にOKを出したという。

「このままでは生活は出来ない、だがデュークに入ればその心配は無い。大変だろうがやりがいはある」「これも何かの縁だろう」
飯野は熟慮の末に承諾した。やりがいがある―これが一番の理由である。

聞けば、コンサートの日程は迫っている。全く時間が無い。
早速家族と共にイタリアから帰国、その日からメンバーと共に猛レッスンが始まった。
メンバーとの練習時は勿論、自宅においては風呂場やトイレにまで譜面を張るほどの格闘の末、何と帰国して約1週間の1月19日、川崎市麻生文化会館でのステージで新メンバー/飯野知彦はデュークエイセスとして初お目見えを果たした。
さらに3月19日にはNHK歌謡パレードに出演し、全国に歌声を初披露となった。
こうして新生デュークエイセスはスタート、以来18年この体制が続く。

風当たりが強くなかった訳ではなかった。
谷口急逝のために加入したとはいえ、まだまだファンにはあの豪快な歌声が耳に焼き付いている。
それに比べると飯野の歌声は声質こそ似ているがまろやかなムードである。
だが、それもやがてプラスとなった。
飯野の加入でカンツォーネなどもレパートリーに加えられ、叙情歌を歌う仕事も増えていく。
勿論黒人霊歌・ジャズもおろそかにはしない。

とはいえ、黒人霊歌/ジャズはクラシック畑で長年活躍し、カンツォーネなどヨーロッパの楽曲を愛する飯野とは相性は決して良いものではなかっただけに苦戦が続いた。
先任者/谷口はジャズ狂といっても差し支えないジャズ好きで、ヒマさえあればウォークマン片手にジャズを聴いていたというエピソードがある人。そして抜群のセンスがあった。
この分野に関しての風当たりの強さは他の楽曲と比べ格段に強く、飯野を苦悩に陥れる。
必死の稽古の末、その声を消すまでにはそれなりの歳月を要した。

もともとクラシックの楽曲も多少手掛けてデュークだが、飯野の加入でそれらはさらにクローズアップされていく。その他にも飯野加入で取り入れていったものは少なくない。
こうしてニュー・デューク・カラーが出来ていく。
そして、メンバーの高齢化に伴い、飯野の役割も重要なものとなっていった。

平成9年、これまでデュークが歌ってきたレパートリーを譜面の番号順に披露して行くマラソンコンサートがスタートした。
ファンは興味津々な一方で、真っ先に飯野のことを心配した。
だが、今回は譜面を見ながら歌う歌も多々ある。
それに加入時、約1週間で主要レパートリーをモノにした経験に比べたら何でもなかった。
平成14年、コンサートは無事終了。
乾杯のビールの味は格別だった。

リーダーの谷も飯野加入でデュークエイセスの名を引き継いでいって欲しいという想いが芽生えるようになった。
「ひとりづつ、そっと交代していって、やがては…」
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by hakodate-no-sito | 2009-12-07 01:11 | デュークエイセス | Comments(0)

小説・デュークエイセス/飯野知彦(その5)

「イタリアでベルカント唱法を勉強したい」
自分はテノール、それの勉強ならやはりイタリア・ミラノ。
前にも一度行っているし、ある程度はわかっている。

家族は驚いたものの、妻のひとおしもあり、最終的には決意を尊重し、一家揃ってイタリアへ。
昭和63年、飯野33歳。

イタリアには約3年滞在した。
ビザ等の関係上、バイト的な仕事が出来ないのだ。
オーディションに受かれば、仕事が出来るがそれにもお金が要る。
しかし、生活費はかかる。

蓄えは徐々に底をつきはじめ、生活はやがて行き詰った。
家族だけ日本へ帰して、自分だけ残ろうか…飯野は本気で悩んでいた。
妻はピアノが弾けるから、その道で食べていく事は出来るはず。
これ以上家族を犠牲にすることは・・・

そんなときである、日本から1本の電話があったのは。
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by hakodate-no-sito | 2009-12-06 00:57 | デュークエイセス | Comments(0)

小説・デュークエイセス/飯野知彦(その4)

「これじゃダメだ」
飯野は地方のハンデを実感せずにはいられなかった。

「やっぱり東京に出て、歌を習いたい」
「三年でダメだったらラーメン屋になる」
こう決め、親に話したが当初大反対された。
だが、飯野の歌の才能はよく知っている。
息子の熱意もあって、3年でダメなら戻って来い、ということで許可が出た。

それから1年猛勉強し、国立と芸大の2校を受けた。
今度は両校共に合格し、念願の芸大へ進学した。
飯野知彦、19歳の春だった。

それからは大いに歌い、学んだ。
アルバイトにも精を出した。
ランクは一番低かったが、NHKでの仕事が一番お金になった。
万年金欠の学生にはありたがった。
そこではクラシックとポピュラー双方こなすことになり、これがやはり後年生きて来る。

最初は東京混声合唱団へ入団。トップテナーを担当した。
それからグループ(「ヴォイスフィールド」)。
ヴォイスフィールド時代には、幼少期の憧れであったデュークエイセスと競演することが出来た。
飯野はデュークの楽屋からの挨拶帰り、心からそのことを喜んだ。

学校卒業後は非常勤で学校の先生をしながら、音楽のスタジオワークでポップスなどの仕事を行っていた。
やがてピアニストと結婚し、子供も出来た。

端から見れば恵まれた生活…しかし飯野の心には何かひっかかりがあった。
「遣り残したことがあるのでは・・・」
音楽への熱い想いは冷めることなく、自問自答を繰り返していた。
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by hakodate-no-sito | 2009-12-05 00:26 | デュークエイセス | Comments(0)

小説・デュークエイセス/飯野知彦(その3)

高校へ入学し、飯野はコーラス部へ入部した。
やはり歌がいい、歌がやりたかった。
とはいえ、ブラバンのつながりは絶ちがたく、コンクールなどが近づくと助っ人として係わり続けた。

赤城おろしの風に向かいながらの登校は辛かったが、帰りは楽だった。
風を背にするのだから行きとは一転スイスイ進む。
いつもご機嫌で、時に歌を口ずさみながら、友達と楽しい時間を過ごしていた。

コーラス部ではいろんなものを歌った。
学校祭では当時人気のデュークエイセスの『にほんのうた』の中から「筑波山麓合唱団」などを歌いヤンヤの喝采を浴びた。
この選曲に一番ノっていたのは飯野だった。
「夢であいましょう」以来お気に入りのグループなのだ、デュークは。

そうこうした日々を過ごすうち、歌の道に進みたいという想いは日々強くなってくる。
目標は東京芸大。
中学の時、先生に「音楽学校へ行きたい」と相談してからずっと目指している。
高校に入ってからは上京して歌のレッスンにも通っていた。
飯野が芸大受験を目指し猛勉強していることは、もう誰もが知っていた。


「難しいぞ…それでもやるか?」
「ハイ」
壁は厚かった。
四次まである試験のうち、一次で落ちてしまったのだった。
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by hakodate-no-sito | 2009-12-04 00:10 | デュークエイセス | Comments(0)

小説・デュークエイセス/飯野知彦(その2)

「断然野球部だ、部活は野球部!」
そう心に決め、いよいよ部活の申し込み時間が来た。

当時学校はベビーブームだ、何だ…と大人数。
人、人、人でメチャクチャ。
飯野少年は「ここは一杯並んでいる、野球部だろう」
と、ある列に並んだ。

天性の粗忽モノ、と後にデュークメンバーから突っ込まれるようになる片鱗は既にあった。
その列はブラスバンド部のそれだったのだ。

「ま、間違った・・・」
飯野少年は逃げようと考えたが、顧問が何と自分の担任。
当然逃げられるはずも無く入部と相成った。

性が真面目なのか、もともと合っていたのか、ブラバンは水にあった。
まず先輩から叩き込まれたのが譜面の書き方だった。
当時は今のようなコピー機は無く、せいぜいガリ版印刷がある程度。
譜面を読める/書ける=覚える、という考えのもとで、コピーなどは誰も思わない。
みんな必死に写譜していた。
飯野少年も四苦八苦、先輩に怒鳴られながらもそれをマスターした。
これがやがて後々まで生きてくる。

飯野少年の担当はチューバの一種/ユーフォニウム。
ソロでの活躍は…無い。
音楽漬けの日々を送るにつれて、やがて「どうせならソロでやりたい。楽器より歌だ」という想いが頭をもたげるようになっていった。

やがて飯野少年は学校の先生に相談。
「歌の道へ行きたい、音楽学校へ行こう」という意思を固め、勉強に励むようになる。
ブラバンと並行し、ピアノも習い始める。試験の必須科目だからだ。
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by hakodate-no-sito | 2009-12-03 00:02 | デュークエイセス | Comments(0)

小説・デュークエイセス/飯野知彦(その1)

飯野知彦は昭和28年5月6日生まれ。
上州、群馬県の産。群馬は前橋で生まれ育った。
生家は農家で音楽的な環境とは言いがたく、幼少時はラジオ程度しか音楽に触れることは無く、それも記憶にあるのは両親や祖父が聴いていた浪曲だという。

飯野が小学生のとき、家にテレビがやってきた。
そこから流れる歌謡曲に少年飯野は気を惹かれていた。

ある日、東京から従兄弟が遊びに来た。
「そんな歌謡曲なんかより、こっちを聴け」
わざわざ持参したオープンリールでクラシック音楽を掛けた。

「今思えば"悲愴"なんですけど、当時は何でこんなつまらないもの聴くんだって…」
とはいえ、それから飯野少年はクラシックも聴くようになった。
家の隣に分家し、幼稚園の先生をしていた叔母がいた。
その叔母が蓄音機(とSP盤)を持っていたのだ。
「イージーリスニング的なものなんでしょうけどねえ…」

飯野少年は歌は好きだが、小学校時はそれよりもスポーツが好きだった。
何より野球が好き。
学校が終って、暗くなるまで延々と野球をしている日々だった。

そんな飯野少年のベクトルが変わり始めたのは中学入学後である。
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by hakodate-no-sito | 2009-12-02 23:08 | デュークエイセス | Comments(0)

ありがとう、飯野知彦さん

コーラスグループ/デュークエイセスのトップテナーを18年務めた歌手、飯野知彦さんが2009年11月20日、胃がんのためお亡くなりになりました。56歳。

あまりにも早いその死に、覚悟していたこととはいえ、何とも虚しさを覚えます。
2年前でしたか「夏祭りにっぽんの歌」という歌番組で、ダーク、デューク、ボニーの三大コーラス揃い踏みという夢の競演がありました。

哀しいかな、他の2グループは本調子では無さそうだったり、衰えが隠せない様子だったのですが、その中でデュークは「椰子の実」を披露。飯野さんの格調溢れる歌声で他グループを圧倒。
「飯野さんリキ入ってるなあ。デューク、まだまだイケるよ」
とテレビを見ながらニンマリしていたのですが・・・まさか、こんなに早くお別れすることになるとは夢にも思っていませんでした。

アレっ、と思ったのは昨年秋。
「渋谷らいぶステージ」にデュークが出演した際、どうもコーラスが乱れ気味だったのです。
メンバーの平均年齢を考えれば、このぐらいは御愛嬌かな、気のせいだろうと思い直し、番組を観続けました。
次に異変に気付いたのは今年1月「昭和の歌人たち/いずみたく」。
コーラスがピタっと合わない。
いよいよデュークも来るところに来たか…とショックでした。
バリトン/リーダーの谷道夫さんの表情が強張っていますし、何よりセカンドテナー/吉田一彦さんの様子がおかしい。

今、VTRを見返すと飯野さんすこぶる顔色が悪いんですよね。
胃がんが見つかって手術されたのが昨年12月。
病身に鞭打ってお出になっていたと思うと…。

吉田さんも昨年末に緊急入院されたそうで、幸い病状は軽くすぐに退院できたそうです。
最近「BS日本のうた」に出演されたときはお元気になられていました。
谷さんの強張った表情は未だに見られます、これを見なくなる日はいつなのでしょうか…。

デュークの先代トップテナー/谷口安正という方は素晴らしい歌手で、この方の加入によってデュークは黄金期を迎えた、いわば立役者、功労者。
それだけに飯野さんの重圧はかなりのものだったのでは無いでしょうか。

幼少期からデュークのファンだったそうですが、東京芸大卒業後ミラノ留学…というクラシック畑から、ジャズ・黒人霊歌…何でもアリのデュークへ。これも大変なことだったはず。

さらにデュークのレパートリーは1000曲以上…。

それを猛特訓の末、約2週間で新メンバーとしてステージに登場されたのです。
努力の人であると同時に天才でもある方でした…。

当ブログでは亡くなった飯野さんに敬意を表し、これから数回に分けて綴っていきたいと思います。
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by hakodate-no-sito | 2009-12-01 23:08 | デュークエイセス | Comments(0)