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菊池章子のはなし(その11)

昭和29年、章子はいつものようにレコーディングのため、テイチクへ顔を出しました。
そこでたまたま、作詞家の藤田まさとと会います。

「ねえ、章子ちゃん。これすごくイイからやってみない?」
「じゃあ、ちょっと見せて」

章子は藤田から歌詞の書いたメモを受け取り、目を通しました。
―ストーリー性があり、1番から3番までの流れがとても自然で訴えかけてくるものがある。
それは章子の好みの歌詞でもありました。

「センセイ、これイイわね。アタシやりたい、やらせて」

―昭和29年早春、
京都/舞鶴港でシベリアから引き揚げ船を待つ人々にNHKニュースで取り上げるため、インタビュアーがデンスケ(携帯用音声録音機)をかついで取材していました。
シベリアからの引き揚げ船はこれで最後ということで、港には多くの人々が岸壁でその帰りを待ち、そして船から降りて来た復員兵と涙を流し抱き会う家族。
インタビュアーはひとり、またひとりと話を聞いていきました。

引き揚げ船から乗客が全員降り終わった中、ひとり岸壁にたたずみ涙を流している初老の女性にインタビュアーは気がつきました。

引き揚げ寮に入っていくその女性をインタビュアーは追いかけ、尋ねました。
「まだお帰りにはならないのですか?どなたを待っておられるのですか?」

「息子を待っています。引き揚げ船名簿には名前はありませんが、理由があって偽名を使っているんじゃないかと思います。あの子は馬鹿じゃ無いから、必ず帰ってくるはずです」

その女性の名は端野いせ。
明治32年9月15日、石川県の生まれで北海道/函館で育ち、青函連絡船乗員の夫との間に娘を儲け、幸福な生活をしていましたが昭和5年、流行り病でどちらにも先立たれてしまいました。
家の存続のため、家主に頼み、家主の子ども(双子のひとり)を養子に貰い受けます。
やがて上京し女手ひとつでその息子/新二を育てます。
昭和19年、新二は出征し、大陸へ。
ほどなく中国/牡丹江での戦闘があり以降音信不通に。

「きっと帰ってくる」
そう信じて待っているという、いせの話にインタビュアーも胸がつまりました。
そして、このインタビューはNHKニュースで大々的に放送されました。

そのニュースを、藤田まさとも耳にします。
心動かされた藤田はすぐにペンを取り、番組が終わる頃には既に一篇の詩を書き終えていました。
終えるや否や、作曲家の平川浪竜へ曲付けを依頼。2日後には曲も出来上がりました。

「さて歌い手は誰にしようか…」
そう思いながら、藤田がテイチクへ顔を出したとき、章子と会ったのでした。
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by hakodate-no-sito | 2008-03-15 20:58 | 菊池章子 | Comments(0)

菊池章子のはなし(その10)

菊池章子がこだわったことのひとつにステージ衣装がありました。

もともとデビューには大反対だった章子の両親が、デビュー時に立派な衣装を着させてくれたこと、これが最初でした。その衣装は当時のトップ歌手たちのそれと比べても遜色ないもので、これで章子は並み居る歌手にひるむことなく、自信を持ってステージへ出て歌うことが出来たのです。

この経験から
―流行歌手は歌がうまくて当たり前、舞台の上で人様の前で歌う以上見かけも重要なのだ。そして、そうすることで自分も自信を持って歌える―
という信念に繋がります。

莫大な収入すべてが自分で使えることもあり、章子はたちまちオシャレに傾倒していきました。
コロムビア時代、1ヶ月分の収入分をすべて衣装につぎ込んだこともあるほどでした。
そして、それは遺憾なくステージで披露され、好評を博していました。

昭和21年にテイチクへ移籍した際の契約金は当時の金額(銭・厘が健在の頃)で1万2千円、章子は全額はたいて、ミンクのコートを買いました。

当時ミンクのコートなんてとても手に入る代物ではなく、誰も着ていません。
「さすが…」と皆羨望の眼差しで章子を見ていました。

ただ、章子を妹分と可愛がっていてオシャレに一家言ある淡谷のり子には
「ミンクというのは昼間着るものじゃないの、夜着るもの」
とバッサリやられたのでした…。

当時、テイチクに所属していた歌手では章子・ベティ稲田・月丘夢路の三人はそれぞれ専属デザイナーがいて、アメリカから取り寄せた生地などで衣装を作っていました。
それだけ、ステージ衣装への関心が高かったのです。

昭和24年に「母紅梅の唄」がヒットしてからは、母物歌謡が続き、衣装は着物が多くなります。
三益愛子の母物映画の主題歌を担当し、ヒットが出たのがきっかけでそれから30曲以上、母物歌謡が続きました。

結果、"母物の菊池"のイメージが定着してしまい、章子は一時期すっかり母物を歌うのが嫌になりました。

「私はもっとストーリー性がある歌を歌いたい、歌詞を読んで情景がありありと浮かんでくるような…」

母物が連続して続くと、どうしてもマンネリに陥り、同じような曲が続いてくるのに耐えられなくなったのです。

それではと出たのが、当時人気急上昇だったスター/若尾文子主演の大映映画『舞妓物語』主題歌の「春の舞妓」でした。
この歌は母物が続いた章子の、久々の別ジャンルの曲であり、大ヒットとなります。
このときのステージ衣装は、着物に日本髪の鬘、舞台で踊りも入れて艶やかに…と関係者は考えていましたが、章子は「お願いだから踊りは勘弁して欲しい」と、その部分だけはカットとなりました。実は章子、幼少の頃踊りをならったのですがどうにも合わず苦手だったのでした。

そして、昭和29年。
章子にとっても、そして昭和歌謡界にとっても忘れられない名曲「岸壁の母」との出会いが待っていました。
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by hakodate-no-sito | 2008-03-13 00:38 | 菊池章子 | Comments(0)

唄に歴史あり 「山小舎の灯」

昭和22年夏、近江俊郎は悩んでいた。
昭和11年に武蔵野音楽学校を辞めて以来抱き続けていた
"一流歌手になりたい""ヒットを出したい"
という夢が、前年の昭和21年発売「悲しき竹笛」(奈良光枝とのデュエット)で叶った。

街中を歩くと、ある者は口ずさみ、あるものはじっとラジオで流れる「悲しき竹笛」に聞き惚れている。
そんな光景を目にし、近江は心の底から喜んでいた。
しかし…それまで張り詰めていた糸がプツンと切れたような気持ちもまたあった。

10年イバラの道を歩き続け精魂尽き果てたというような疲れと、もうこれでいいという満足感
に陥り、それに加え、今後歌って行ってもこれ以上のヒットはもう出せないのでは無いか、という不安にも襲われた。

「念願のヒット、しかも古賀メロディーでのヒットだ。もう思い遺すことは無い」
「ヒットも出て一人前の歌手なったのだ。お袋も兄貴(大蔵貢)も文句は言わないだろう」
すっかり弱気になり、進退を考えていたそのとき、ある人が近江を訪ねた。

「こんにちは…近江ちゃんのお部屋はこちらですかァ?」
その日は家にいた近江、"誰だろう?でもどこかで聞いた声だな…"と思いながら玄関の戸を開けた。

「あっ!?ヨネさん…」
―今にも栄養失調で倒れそうな顔をして、ほころびだらけの国民服にゲートル姿の男。
ポリドール時代、親友の仲だった作曲家の米山正夫である。

「やっと日本に帰ってきたんだよ…」
その言葉を言うや否や倒れそうになる米山を抱きかかえるようにして、近江は部屋へ入れた。

米山正夫は戦争中にポリドールから満州/奉天中央放送局へ移り、現地で召集されシベリヤで約2年抑留、先ごろやっと日本へ帰国できたところだった。

「お~い慶子、家中の食べ物持ってこい」
近江はせかすように、台所にいた、妻の慶子に言った。

「向こうにいるとき、日本じゃ食糧不足で餓死者がどんどん出てるって聞いたぜ、いいのかい?」
「いいんだ、歌手の有難さでいろいろと物資は手に入るんだよ、親友が戻って来たお祝いだ」

見るからに心身共に弱っていた米山だが、差し出された食べ物を腹に入れたことで少し元気になった。それを見て、近江は尋ねた。
「ところでさ、ヨネさん。何か作ったものあるかい?」
「うん、1曲だけね。でも今の終戦で何もかも変わった世の中にに受け入れられるかな…」
聞けば、その曲を米山はシベリヤの収容所で、飢えと寒さに震えながら、学生時代登った山のことを思い出しながら書いたという。
「俺はこの唄を遺書のつもりで書いたんだ…」
そう話す米山の目には涙が滲んでいた。

近江は米山が差し出した五線紙を黙って見た。
すっかり黄ばみ、ところどころに消した鉛筆のあとがあった。
譜面を読み、歌詞を読んでいるうちに近江の胸にさまざまなことがよぎった。
「これ、オレに歌わせてくれるか?」
近江は真剣なまなざしで米山を見つめ、言った。

「歌ってくれるのか?」と米山。
「歌わせてくれ、きっとこの唄を世に出してみせる」
―もう、近江の心に歌手引退などという文字はどこにも無かった。
"この唄をヒットさせたい"その気持ちで一杯だった。

数日後、早速近江は『NHKラジオ歌謡』の担当プロデューサーの三枝健剛のもとへ行き、この唄を使ってくれと迫った。
三枝と近江の付き合いは古く、戦時中ニュース歌謡を歌いにくる歌手と放送担当者という間柄から親しくなり、ざっくばらんに話せる仲だった。

「朝っぱらから"黄昏"とか"君を偲ぶ"とかいうのはどうなんだろうねえ…」
三枝の反応は鈍かった。
「なに言ってるの。このメロディー、実に爽やかでしょ。このメロディーは朝の空気にピッタリ。ラジオ歌謡にピッタリ。絶対ウケますよ」
近江は執拗に食い下がった。
その熱意にほだされ、三枝はとうとう折れた。
「今回は近江ちゃんに免じてやってみよう」

こうしてNHKラジオで毎日「山小舎の灯」は流れることになった、勿論近江の歌声で。
三枝の予想を裏切り、この歌への反響はすさまじかった。
コロムビアでは、「作詩/作曲者はフリー、歌い手はウチの近江、売れること間違い無し」
ということで早速レコード化した。

近江にとっては2曲目、米山にとっては最初の大ヒット曲だった。
そして近江はコロムビアに「(米山と)専属契約して欲しい」と頼んだ。

しかし、当時のコロムビア文芸部長/伊藤正憲は
「たった1曲のヒットで、いきなり専属には出来ないよ。いくら近江ちゃんの頼みでも…。せめてもう1曲あれば話は違うけどね」
と近江に諭した。

近江は燃えた。
"親友のためにもここはもうひと頑張りしないと"
こうして、次に近江×米山コンビで作ったのは「南の薔薇」
「今ウケるのは明るい曲じゃないかな」
「日本じゃない、どこか南国を舞台にした明るい曲でいこう」
こうして出来たのが、この軽快かつ情熱的なパルドブル形式の1曲である。

同名映画が作られるほどのヒットとなり、米山はめでたくコロムビアに迎えられ、激貧生活から脱出し、また近江もソロ歌手として完全に独り立ちできたのであった。

なお、この歌のヒットで作者も想っていなかった注文が飛んだ。
この歌の歌詞(2番)に出てくる
 暮れ行くは白馬(しろうま)か
  穂高(ほたか)は茜(あかね)よ

この部分である。
こんな山、穂高はおろか、どこにも無いというのである。

しかし、この歌は発表後60余年経った今も合唱などで愛唱され続けている。
歌は心、である。
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by hakodate-no-sito | 2008-03-12 00:01 | 歌・唄・うた | Comments(0)

菊池章子のはなし(その9)

戦後、検閲は軍部に変わりGHQが行っていました。
このGHQの検閲に「こんな女に誰がした」は引っかかりました。
"日本人の対米感情を煽る恐れがある"というのがその理由でした。
テイチクは考えた末、タイトルを「星の流れに」へと変更します。

この改題が功を奏し、無事レコードは発売許可となります。
昭和22年12月、清水みのるが詩が書いてから1年4ヶ月の月日が経っていました。

やれ嬉や…と思っていたのもつかの間、今度は当時テイチク本社があった奈良県の教育委員会から、この歌の発売自粛を訴えられます。
「詩の内容は社会教育的にいかがなものか」ということでした。

このため、テイチクでは発売中止こそしませんでしたが大々的な宣伝を自粛せざるを得ませんでした。そしてこのことが響き、NHKでも放送が見合わされてしまいます。

そんな訳で発売当初、レコードは全く売れませんでした。
しかし、制作に関わったスタッフは自信を持っていました。
「この歌は絶対ヒットする」と。
章子自身も、ステージでこの歌を歌う度、客席が涙を拭く姿を見ており、売れる確証を持っていました。

発売から半年が過ぎた頃から、この歌は徐々に売れて来ました。
「夜の女」によって口ずさまれるようになり、そこから徐々に知れ渡るようになっていたのです。

昭和23年、映画「肉体の門」の挿入歌として使われたことがきっかけでこの歌はさらに広く知れ渡り、大ヒットとなり、戦後そして昭和を代表する曲として記憶されていくことになりました。
そしてコジキ節と蔑まされていた流行歌の社会的地位向上にも一役買うことにも…。

このヒットで「モデルになった女性を探そう」という話が持ち上がり、関係者からマスコミまで様々な人が長谷乙女なる女性を探しました。
しかし、該当する人物はついぞ見つからずじまい…でした。

この頃、章子が浅草/国際劇場や日劇で歌い終わって帰ろうとすると、楽屋口に「夜の女」たちが待っていました。彼女たちは章子をオネエサンと慕い、進駐軍から貰ったガムやチョコレート
を差し出すようにくれました。

―日々の暮らしがやっとなのに、決して安く無い入場料を払って、私の歌を聴きに来てくれる。
この出来事は、章子の長い歌手生活の大きな支えとなることになりました。

章子は、生涯この歌への熱い想いを抱き続け、この歌を歌うときはいつもあの時の気持ちになって歌っていました。
それは青春期を戦争によって汚された章子の、精一杯の、国への抗議でもありました。

「今のような平和な世の中になるまでには、この歌に描かれたような、こんな哀しい悲惨な時代があったことを忘れないで欲しい。そして少しでも理解するようにして欲しい」
―晩年、章子はインタビューに対し、こう答えています。
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by hakodate-no-sito | 2008-03-11 09:18 | 菊池章子 | Comments(1)

菊池章子のはなし(その8)

紆余曲折あった「こんな女に誰がした」ですが、歌手も菊池章子に決まり、いよいよレコーディングの日に。

当時のレコーディングは2~3回のテストの後に本番という形式。
バンドの音合わせ、歌手立会いの音合わせ、そして本番。
レコーディングは原盤に直接吹き込む形式、少しでもNGがあれば一からやり直し。
原盤にも限りがあるので、やり直しもそうそう出来ません。
まさに一発勝負、歌手もバンドも高い技術が求められていた時代です。

章子は精神統一し、立会いの音合わせにしスタジオへ入ってきました。
前奏が流れてきたとき、章子は首をかしげます。
「あれ?この歌は私のイメージしているものと違う。何か違う…」

章子は叫びました。
「利根(一郎)ちゃん、私やめた。こんなリズムじゃ嫌よ」

この編曲は利根一郎自身で手掛けていました。
当時流行のブギ調で、軽快な中に潜む哀しさ―という考えだったようです。
しかし章子は
「この歌はもっと哀しい想いを込めて歌わなきゃいけないんじゃない?それなのにブギじゃ軽すぎるわよ。ブルース調で行くべきじゃないの」
と意見。

章子の意見は受け入れられ、この日のレコーディングは中止にし、後日そのアレンジで改めてレコーディングということになりました。

数日後、再レコーディングの日が来ました。
今度の編曲は章子は大久保徳二郎。
章子の夫ですが、大久保は事前に何もアレンジのことは言いませんでした。
大久保の音楽的センスを、章子は尊敬に近いものを抱いており、不安もありません。

章子がスタジオ入りしてまもなく、前奏が流れてきました。
「そう、このイメージよ、私の想ってたのは。このリズムなのよ」
章子は心の中で叫びました。

こうしてレコーディングは無事に終わり、あとはレコード発売を待つだけになりました。
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by hakodate-no-sito | 2008-03-10 06:06 | 菊池章子 | Comments(0)

菊池章子のはなし(その7)

昭和22年夏、章子のアパートにテイチクのディレクターの細江徳二(喜劇女優・武智豊子の夫)が訪ねて来ました。

「こういう歌があるのですが、どうですか?」
細井が封筒から数枚の楽譜を取り出し、章子に差し出しました。

その歌の題名は"こんな女に誰がした"
夜の女、当時パンパンと呼ばれた売春婦が主人公の歌と聞き、章子は
「何で私がそんな歌を歌わなきゃいけないの」と不快に。

「作品を見てから決めて欲しい」
そう細江に言われ、しぶしぶその詩に目を通すと、章子が抱いていたパンパンのイメージを覆すもの。汚れた陰湿さはまるで無く、戦争の犠牲になった女の哀しみ、やり場の無い怒りのようなものがひしひしと伝わってきます。

次に章子は譜面に目を通しました。
今までに無い、ジルバ調のメロディでしたが、胸にスッと染み入るように流れ、自分なりのイメージが浮かんできました。編曲のイメージも自分なりに浮かびます。

「細江さん、私やってみるわ」
章子の力強い返事に、細江は胸にこみあげるものがありました。
実はこの歌、歌い手を得るまで1年の歳月が経っていたのです。

昭和21年8月29日の毎日新聞にこんな記事が掲載されました。
投書記事の題名は"転落するまで"
世田谷在住の長谷乙女なる女性のものでした。

私はこの三月中旬、奉天から引き揚げてきました。
着の身着のまま、それこそ何一つ持ってこられなかったのです。
私は二十一歳です。
奉天では看護婦をしておりましたが、今でも免状だけは持っております。
東京についたものの、誰を訪ねてゆけばよいか、行先がありませんでした。

本籍は新潟ですが、両親はなく遠い親戚があるとのことですが、どうなっているのかわかりません。だから、東京で働くより他に方法はありませんでした。

やっと他人様のお世話で女中奉公の勤め口がみつかり、やれうれしやと思ったのも束の間、そこは待合であったのです。
けれども、待合であろうと何であろうと、食べていくことができるのですから、一生懸命働きました。ところが、二週間位たったら、そこの女将さんから、「芸者になれ」とすすめられました。

しかし、私は三味線がひけるではなし、唄えるわけでもないので断りましたが、女将さんは「それで結構だよ」といって、それよりも嫌なことを押しつけようとしました。
私は驚いて、即座にその家を飛び出しました。風呂敷ひとつを持って・・・・・・。
けれども、勤め口はありません。
乏しいお金もなくなったので、旅館を追われ、上野の地下道に来ました。

ここを寝所にして、勤め口をさがしましたが、みつからず、何も食べない日が二日も続きました。
すると、三日目の夜、知らない男が握り飯を2つくれました。私は貪り食べました。
その男は翌日の夜もまたおにぎりを2つ持って来てくれました。
そして話があるから公園まできてくれといいました。私はついてゆきました。
その日はたしか六月十二日だったと思います。
それ以来私は「闇の女」と世間からさげすまれるような商売におちてゆきました。
(原文ママ)


これを読んだ作詞家の清水みのるは頭を殴られたような衝撃を受けました。
戦争の裏に隠された人間の悲惨さ・哀れさ
―そしてその衝撃は戦争への怒りと繋がっていきました。

清水は叩きつけるようにして、その日のうちに一編の詩を書き上げます。
そして、同じ音楽仲間で、テイチク所属の作曲家(当時はディレクター)の利根一郎に作曲を依頼します。
利根も、清水の想い、そして詩に共感し、自ら上野近辺に足を運ぶなどして、曲を書き上げます。

利根は出来上がった作品を同僚の細江徳二へ見せました。
細江はその作品を見て、涙をこぼし、「俺に担当させてくれ」と一言。

しかし、この三者の眼鏡に叶う歌手はなかなかいません。
この歌の良さ、歌の心を表現出来て、なおかつこの歌を理解してくれる歌手がいないのです。

章子に打診する前、三人が「この人なら…」と打診した歌手がひとりいました。
淡谷のり子です。
しかし、淡谷は「良い歌ね。でも私の歌じゃないわね、こういう歌は私は嫌」とアッサリ拒絶。

途方にくれていた中、テイチクの文芸部長の川崎清が
「ならさ、章ちゃん、菊池章子なんてどう?」と推薦してきました。
この川崎はもとはコロムビアの社員で、章子とは旧知の仲でした。

「あ、章ちゃんがいたか。肝心な人を忘れてたよ」
三者はハッとします。
この三者は戦前/戦中はポリドールの社員だったこともあり、コロムビアから移籍して間もなくだった章子のことは頭に無かったのです。

そして、早速細井は章子のもとへ向うことになるのです。
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by hakodate-no-sito | 2008-03-09 00:01 | 菊池章子 | Comments(2)

菊池章子のはなし(その6)

戦争もたけなわな昭和18年、章子は一世一代の恋をします。
相手は、サックス奏者で作曲家そしてアレンジャーの大久保徳二郎。

二人の出逢いは、章子が公演で全国を回った際に大久保もバンドマンのひとりとして公演に参加いたことからでした。
大久保のサックスの吹き方に、章子はすっかり心奪われ、やがて恋仲へ。

戦争中ということもあり大っぴらにデートすることはなかなか出来ませんが、それでも仕事にかこつけては旅館などで密かに逢引を重ねていました。

章子は「この人と結婚したい」を強く望み、両親に結婚の許しを乞いました。
が、両親は大反対。
「離婚歴のあるような男と一緒にさせる訳にはいかない」の一点張りでした。

そうこうしている内に、戦局の悪化で30過ぎの大久保の許にまで赤紙(召集令状)が届き、外地へ行ってしまい音信不通になってしまいます。

大久保が出征してまもなく、章子が自分が妊娠していることに気付きました。
章子は「生きて帰って来れるか判らない好きな男の子供、一緒になれなくてもせめて…」と心に決めていました。

(当時は妊娠中絶は法律で堅く禁止されており、刑罰物でしたので、両親も産ますことしか方法はありません)

昭和19年6月、章子は男の子を出産。
名前は仁と名付け、両親の子、つまり章子の弟として届け出ました。

戦後大久保は無事復員し、"大久保徳二郎と祇園スタイルバンド"というバンドを結成したのを章子は風の噂で耳にします。

しかし、章子は大久保に逢おうとはしませんでした。
「もうあの人のことはいいのだ…こうやってそっと活躍を見るだけで、仁を育てていくだけで・・・」
内心は逢いたくてたまらなかったのですが、そう歯を食いしばっていたのです。

昭和21年も終わりに近づいた頃、章子のもとに大久保の姉がやってきます。
「大久保に逢ってあげて欲しい」
―こうして、章子と大久保は数年ぶりに再会します。
そして大久保は自分の子の存在を知り、大変喜びました。

章子は大久保との再会で、「添い遂げたい」という心に正直になることを決意します。
両親の反対を押し切り、実家を飛び出し、大久保のもとへ。
大久保の長男の直彦を引き取り、親子4人と大久保の兄弟たちと暮らし始めます。

ここで章子の両親もやっと折れ、母/たまは忙しい章子に変わり、子供の面倒を見てくれるようになります。

大久保との結婚と同じくして章子は昭和12年以来所属していたコロムビアを離れ、大久保の所属するテイチクへ移籍へと移籍することに。
当時のコロムビア関係者の嘆き/慰留は相当なモノでしたが、章子の気持ちは強く、覆ることはありませんでした。
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by hakodate-no-sito | 2008-03-08 13:33 | 菊池章子 | Comments(0)

菊池章子のはなし(その5)

戦争中、すべての歌手が経験したのが慰問。
章子も御多分に漏れず経験しています。

歌い手によっては慰問は内地だけ、という人もいましたが、名の知られた歌手はほぼ全員外地へも慰問に赴きました。

章子はインドシナ半島。
広東を経由してのインドシナまでの船旅。

行きの船では、ある軍部隊も一緒。
そこで章子は、所謂軍隊の"しごき"を目撃した。
それは尋常なものでは無く、当時17歳の章子は恐怖のあまりに思わず涙がこぼれ、船長に
「お願いだから止めるように言って下さい」と懇願しました。
しかし、船長は「軍部のことは我々にはどうにも出来ない」と。

「それでは…」と章子は船長から船内にいる軍人で一番偉い人を聞き出し、その人の許に行き、直談判し、その"しごき"を止めることに成功しました。

その一番偉い人は、加藤隼戦闘隊の新美中隊長。
このことがきっかけで章子と加藤隼戦闘隊は親しくなり、本来慰問予定に無かったこの部隊へも慰問に行くことになります。

章子はこの時、部隊員から直接、いくつか隊員内で歌われている歌を教わります。
その中には「飛行第六十四戦隊歌」もありました。
この曲こそ、後に軍歌の代名詞と呼ばれる「加藤隼戦闘隊」なのです。

この唄は昭和16年元旦ニュース映画で放映されたことで徐々に知られるようになり、昭和18年灰田勝彦の唄で吹き込まれ、大ヒットとなります。

この灰田勝彦。吹き込みして、まもなく章子と仕事で一緒になります。
その際、この歌のことを話したところ、章子は知っているので歌ってみせました。
灰田は「何で章子ちゃん、この歌知ってるの!?」とえらく驚いたそうです。

章子と戦闘隊との交流は戦後も途切れることなく続き、平成14年に章子が亡くなった際も多数の戦闘隊員が葬式へ駆けつけ、その死を惜しんだそうです。

横道にそれたので、元に戻しますが
章子たち慰問団の待遇は非常に良かったそうです。
当時インドシナはフランス領だったこともあり、章子たちの宿泊所はホテル。
なんと朝食はコーヒーとフランスパンだったそうです。
一緒に行った漫才師はこのフランスパンのお陰で歯が折れるというアクシデントがあったとか。

慰問に行った先々では、当時手に入り難くなっていた高級酒が呑めるということで、慰問団の男性は喜んでいたそうですが、章子はまだ未成年のうえ、下戸(これは生涯変わりませんでした)なのでそういう楽しみは無かったようです。

章子はなるべく慰問団が来ていない部隊を中心に慰問して回りました。
移動は軍用トラックで行いましたが、決して乗り心地は良いものではなかったそうです。
しかし、部隊の章子への気遣いは大変なものであり、章子付きの兵隊が必ず一人はいて、世話を焼いてくれ、その姿・気遣いをみると、さすがの章子も何も言えなかったとか…。

章子は慰問は振袖で臨みました。
その振袖姿に懐かしい故国を思い出した兵隊が「(振袖に)触らせて欲しい」と懇願することも多かったそうです。
当時章子の人気は凄まじく、どこの部隊からも慰問願が次々に舞い込みました。
その結果、インドシナ半島にいた部隊をほぼ回りつくし、サイゴン、ハノイ、ホーチミンのあたりまで赴きました。その結果本来の帰国予定がドンドン遅れて行きました。

大の大人でも日本が恋しいと訴えるのに、章子は十代の乙女です。
お国のため…と頑張ってきましたが、さすがに耐えられなくなり、「日本に帰らせて下さい」と懇願して、やっと帰国することが叶います。

「もう少し待てば一万トンクラスのチャンとしたイイ船が来ますよ」
という言葉を押し切り、「タコ部屋のようなところで全員が雑魚寝という状態の船でも何でもいい、早く日本に帰りたい」と昭和16年11月30日、帰国の船に乗り込みました。

ところが帰国途中の12月8日、太平洋戦争に突入したことで帰国が大幅に遅れてしまいます。
燃料補給のために、港に寄っても軍艦優先で、燃料が少ししか分けて貰えないのです。

そして、夜は甲板に出るのを禁止され、もしそこで煙草なぞ吸おうものなら銃殺するとのこと。
さらに、トイレの近くにはスパイ監禁室もあり、そこを避けてトイレに行く事は出来ません。

章子はそれがとても恐ろしく、トイレに行く際には慰問団の男性2名がガードすることに。
ところが、「銃後を預かる日本女性がこんなものが怖くてどうする」と憲兵の厭味が飛んできます。時には「こんなやつら、殴ってみせろ」と強要することもあったそうです。

扱いが比較的良かった章子でもこの待遇です。他の乗客はなおのこと気の休まるヒマはありません。

同乗していた新聞記者のひとりはやがてノイローゼに罹り、船から飛び降りて自殺しまう事件もありました。章子も、甲板の片隅に遺された片方の靴を見ています。

このように乗員は苦労に苦労を重ね、昭和17年2月に船はやっと日本に着くことが出来ました。インドシナを出発して、2ヶ月以上の月日が経っていました。

「只今帰って参りました」
章子は世田谷大原町の自宅へ帰ると、家族は驚くやら泣き始めるやら。
仏壇を見ると何着もの新しい振袖がお供えされています。
章子は既に亡くなった…と思われていたのでした。

そして、帰国した章子はもう一つ驚かせることがありました。
家族が一人増えているのです。

その子の名は、幸子。
章子と共に慰問に行き、章子とも親しかった歌手の菅沼幸子から名を貰ったとのこと。
「自分と同じ名前じゃなくて良かった・・・」
章子は安堵しました。

その幸子こそ、「北上夜曲(和田弘とマヒナスターズとのデュエット)」などで知られる歌手の多摩幸子(たま・ゆきこ)、その人です。

幸子のデビュー当時、親子ほどの年齢差に「この姉妹は本当は親子だ」という噂が立ったりもして、その都度章子は否定して回ったそうですが、晩年はもうどうでも良くなったらしく聞かれた際に「そうよ、私の娘」と冗談めかして答えることもあったそうです。
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by hakodate-no-sito | 2008-03-06 13:24 | 菊池章子 | Comments(0)

淡谷のり子の「ビッグショー」

3月3日の、NHK-BS2『蔵出しエンターテインメント・ビッグショー』は
"淡谷のり子・歌に生きて"
(1978年3月26日本放送)
の再放送。
とても素晴らしい内容でした。

番組内で歌った曲をちょっと紹介させて頂きます。

OPナンバーは
「雨のブルース」
この歌は昭和13年の大ヒット曲。
出だしの ♪雨よふれ ふれ という部分、ヒット当時阪神大水害が起きたことで「雨よふれふれとは不謹慎だ」と批判されてしまったというエピソードがあります。
「別れのブルース」に続いて、この歌がヒットしたことで淡谷のり子は"ブルースの女王"を称されるようになったのです。
さらに、この歌なんとブルガリアでも流行しているのです。
昭和14年、全権特命大使であった蜂谷輝雄が赴任の際にこのSP盤をブルガリアに持ち込んだことがきっかけでした。
やがてこの歌は新たに歌詞がつけられ、タンゴに編曲され、当時ブルガリアで唯一知られていた日本の小説『不如帰』のヒロインから「NAMIKO」と改題され、ブルガリアでひろく愛唱されてました。
昭和56年、元曲を歌っている歌手が淡谷さんであると判ったことがきっかけで、ブルガリア政府の招きで淡谷センセはソフィア、ドルナ、ブルガスの各都市でコンサート(政府主催)を行いました。会場はアンコールの嵐、ブルガリア政府からは勲章も貰ったそうです。

「夜が好きなの」
は淡谷のり子40周年記念アルバムのために書き下ろされた曲。
数度の書き直しを経て、このカンツォーネ風のメロディが生まれました。
淡谷センセ自身「割とイイわね」と気に入り、シングル化もされ、ステージで歌う機会が多かったそうです。

作曲は和田香苗(1932-2001)
扇ひろ子「新宿ブルース」「みれん海峡」「仁義」
こまどり姉妹「三味線渡り鳥」
冠二郎「炎」「ムサシ」「バイキング」
堀江美都子「アクビ娘」(ハクション大魔王ED曲)
…などド演歌からポップステイストあふれる曲まで幅広く作曲しています。

「夜のプラットホーム」
この歌は二葉あき子の絶唱で知られていますが、最初にレコーディングしたのは淡谷のり子。
昭和14年に初吹き込みされますが、検閲にひっかかり発売禁止に。
作曲した服部良一は何とかこの曲を世に出したいと、洋盤にカムフラージュすることを考え出し、日本コロムビア洋楽部にいた日独ハーフの社員ファクトマンに歌って貰い、ヴィック・マックスウェル楽団「I'll be waiting(待ち侘びて)」(作詩maxwell/作曲R.Hatter)として発売して、世に出すことに成功しました。
この「夜のプラットホーム」、淡谷は大変気に入っており、積極的にステージで歌っていたそうです。また、笠置シヅ子もこの歌を気に入って歌っていたとか…。

昭和20年3月、淡谷はコロムビアから一方的に専属解除を言い渡されました。
戦後すぐ日本中で洋楽が大流行したこともあり、破格の待遇で再契約を打診されるも拒絶し、盟友ディック・ミネがいるテイチクと専属契約を結んだのです。

このため、レコード会社の壁に挟まれ、淡谷はこの歌をレコーディングすることは叶わず、昭和21年に二葉あき子によって吹き込まれ翌年大ヒットとなりました。

淡谷は最期まで「これは私の歌」と言って歌い続け、二葉もまた淡谷へ敬意を払いつつも「この歌を手放すことは一生無い」と大切に歌い続けました。

なお、淡谷によればこの曲、本当には服部の作曲では無くコロムビアの専属ピアニストだったドイツ(ユダヤ)人のマークラスが戦争のため日本を離れる際に、淡谷への置き土産として作曲して置いていった曲のひとつだとのこと。

今や真実は歴史の闇の中・・・・です。

「雨の夜は(Il Pleut Sur La Route)」
「小雨降る径」の題で知られた、コンチネンタル・タンゴの傑作でシャンソンの名曲としても知られています。アルフレッド・ハウゼ楽団の演奏やティノ・ロッシの名唱も有名。
この歌の訳詩は、なんと画家の藤田嗣治。
何でも4度目の妻マドレーヌへ送った詩だったそうです。
日本を離れる際に、親交のあった淡谷に「コレ歌って」とその訳詩を渡したとか。

「夜のタンゴ(Tango Notturno)」
昭和13年、ドイツ映画『夜のタンゴ』の主題歌として発表。
この曲を気に入った淡谷のり子、映画館に何度か通い、聴き取りで採譜し、自身で作詩。
晩年までよくステージで披露していたそうです。

「花宵闇」
淡谷のり子歌手生活50周年記念アルバムに収められた1曲。
作詩阿木燿子、作曲は宇崎竜童・・・と当時新進気鋭の二人による和製タンゴ。

「しばらくあなた」
淡谷のり子歌手生活50周年記念曲のひとつ。
「歌詞がグッとくる」と、淡谷は気に入り、これも晩年までステージでよく歌ったそうです。
作詩阿久悠は、作曲三木たかし。

「灰色のリズム&ブルース」
昭和46年、いずみたくプロデュース/全曲作曲によるアルバム「昔、一人の歌い手がいた」に収録され、後にシングル化された曲。
このアルバム企画は「懐メロ歌手として隅に追いやられた…」と引退を考えていた淡谷の心をも奮い立たせることにもなりました。
発売後、このアルバムは評判を呼び、この年のレコード大賞特別賞受賞へと繋がります。
この歌は詩/曲ともにいずみたく。
「割とイイわね」と淡谷は、この歌もやはり晩年までステージで歌っていました。
一部歌謡ファン、淡谷ファンにコアな人気がある曲です。

「別れのブルース」
昭和12年のヒット曲。
淡谷自身はあまり好んではおらず、特に晩年はステージでかかることは稀だったとか…。
その想い出など、御本人の話でどうぞ(ココココ)。

「バラ色の人生(La Vie En Rose)」
エディット・ピアフの大ヒット曲で、ルイ・アームストロング(サッチモ)のレパートリーとしても有名なシャンソン。この歌の作詩はピアフ自身、イヴ・モンタインとの愛と別離を書いたと言われています。

「愛の讃歌(Hymne a l'amour)」
エディット・ピアフ、そして越路吹雪の絶唱があまりにも有名な歌。
淡谷のり子も早いうちからステージで積極的に歌っていました。
訳詩は岩谷時子のモノではなく、ビクターの井田誠一版。


淡谷のり子と黒柳徹子
―実は徹子ママこと、黒柳朝が淡谷のり子と同じ音楽学校の後輩で親しくしていたそうで、親交がとても深いそうです。

それにしてもイイ番組でした。
録画したモノを何度も見返してますが本当に素晴らしい。
ホンモノとはこういうモノである、と見ていて思います。
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by hakodate-no-sito | 2008-03-04 16:00 | テレビ | Comments(5)

菊池章子のはなし(その4)

レコードデビューこそイロイロありましたが、章子の流行歌手としての活躍は極めて順調。
昭和15年には「愛馬花嫁」、そして「相呼ぶ歌」が大ヒットし、章子は一躍スターダム、「お姫様スター」「大人ものを歌う少女歌手」として引く手あまたに。

章子の稼ぎですが、この当時なんと一国の大臣よりもあったと章子が後年明かしています。
この頃、流行歌手は役所へ3円20銭払い、遊芸稼ぎ人の鑑札を貰えば無税だったのです。
(ただし、社会的扱いは最低のものでした)

このことに対し、章子の父は
「とんでもないことだ。娘が稼いでる金で家族が食っていると(世間から)思われたら、たまったものじゃない」と言い、そのため章子は自分で稼いだギャラは、人にご馳走したり、装飾品を買うなどして、すべて自分で使ったそうです。

これだけの稼ぎがあるということは、それ相応の仕事があるということ。
女学校へ行く暇など、たちまち無くなってしまい中退。
親の手前もあり、知り合いのクラシック教師の口利きで、東洋音楽学校の声楽専科へ籍を置くことになったものの、仕事が忙しく一度も授業に出席することなく、退学。

最初は成り行きで始めた流行歌手でしたが、章子もこの頃になるとプロとしての自覚が芽生え腹をくくって活動するようになっていきました。
戦火が激しくなる最中、章子も各地へ慰問に出かけ、遠くはインドシナ半島まで赴きました。

先輩歌手である伊藤久男とは「相呼ぶ歌」「機上の歌」「馬」、そして戦後21年「おしどり双六」と共唱する機会/ヒットが続き、名コンビとして活躍しました。
ディック・ミネによれば、この伊藤久男は面食いであった章子の初めての男性でもあったようです。

昭和18年1月、松竹映画『湖畔の別れ』主題歌であった「湖畔の乙女」が発売。この歌は菊池章子の戦前最大のヒットとなります。
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by hakodate-no-sito | 2008-03-04 00:01 | 菊池章子 | Comments(0)