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追悼・森繁久彌 「日曜名作座」が気になる(その4)

半世紀続いた「日曜名作座」はさまざまなエピソードが遺っています。
ちょっと箇条書き形式でご紹介致します。

e0134486_236478.jpg

・放送開始前後は声色番組と批判されたが人気を得るに従いその声も収まった。
・原則、企画を出したディレクターが演出を担当。
・かつては森繁のスケジュールの都合等から「日曜名作座」と「ラジオ喫煙室」(日本のラジオにおけるDJのさきがけと言われた森繁の番組、こちらも軽く10年以上は続いた長寿番組)は続けて収録されており、どちらのスタッフも録音現場に立ち会わせていた。その中には「ラジオ~」の作家であった向田邦子もいた。
・元NHKアナの中西龍(なかにし・りょう)はかつて森繁に弟子入りを懇願し断られた経歴があり、中西が東京勤務の時代は、時間が許す限りいつも番組収録を見学していたという。
・向田邦子も1回だけ脚色を担当したことがある(昭和40年:井上靖「城砦」)
・脚本は事前に出演者へ届く。
・二人で1度台本を読み合わせし、2回目の読み合わせ=本番という形式が最後まで取られた。
・2000回突破のあたりまでは1回目の読み合わせが約30分前後で終らせ、本番だった。
・番組最終盤では主に森繁の老衰のため、1回目の読み合わせは20分用台本に対し、2~3時間掛けて収録という形になっている。
・読み合わせは傍目からはボソボソとした呟きに見えたが、この時下手に話掛けようものなら二人から雷が富ぶ。この際森繁は台本に何か書き込みをするが、これは声の調子などを記す演出プランだった。
・森繁は多忙もあって遅刻常習犯、加藤は誰よりも早くスタジオ入りすると対称的であった。スタッフが加藤に気遣って声を掛けると「いいのよ、慣れているから」といつも同じ返事だったといわれている。
・NGは殆ど出なかった。事前に加藤が仕上げてスタジオ入りすることを知っている森繁が全神経を集中させ、この場に臨んでいたからとされている。
・森繁は皆勤だが、加藤は病のために3回ほど欠席している(その回の詳細は不明、おそらく森繁の一人語りで作品を仕立てたのではないかと思われる)
・音楽は開始以来古関裕而が担当してきたが、体調を崩し入院生活を余儀なくされたことなどから昭和61年3月を以って降板し、池辺晋一郎へとバトンタッチした。テーマ音楽は引き続き使用され、「新・日曜名作座」へとリニューアルされた現在もアレンジを変えながら使用されている。
・最後の作品は平成14年11月13日録音(放送:15年1月19日)、藤沢周平・原作「夜の雷雨」となった。全2137本。
・平成14年大晦日に森繁が滞在先の沖縄で心筋梗塞で倒れ入院、約半年間静養を余儀なくされた。既に加藤も平成12年ごろから膵臓癌のため入退院を繰り返し、病室からスタジオへ来る状態であったことから、しばらく再放送でつないで森繁回復と加藤が小康を得るまで待とうという結論に至ったが、願い空しく平成16年1月31日に加藤が亡くなり、番組は事実上終了した。
・加藤が亡くなったとき、ベッド脇には次回用の台本(杉本苑子「鳥影の関」)が置いてあった。
・番組の人気は根強く、また再放送用のストックも膨大であることや後番組の準備やライフワークと
まで語っていた森繁久彌の気持ちを省みた結果、当面続投ということになり、加藤の死後も約4年間放送され続けた。50周年を機に番組をリニューアルしようと声が上がり、平成19年夏に森繁久彌へ関係者が伺いを立てたところ、事務所関係者から構いませんと返答があり、正式決定し、翌20年3月に51年の歴史に幕を下ろした。
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by hakodate-no-sito | 2009-11-29 00:06 | 古今俳優ばなし | Comments(0)

追悼・森繁久彌 「日曜名作座」が気になる(その3)

さて、最後に残ったのは題名、番組のタイトルである。
日曜の夜に名作を提供(放送)するのだから、"日曜名作"これは良い。
問題はその後ろだ。

劇場ではありきたりなのだ。
テレビ・ラジオ問わず、○○劇場という類の番組名は山のようにある。
それに"日曜名作劇場"では語呂が何だか字余り気味な気がしてならない。

正式提案の〆切ギリギリまで湯浅は悩み続けたが、なかなかアイデアは出なかった。
〆切間近、あ~と深い溜息をつきながら新聞をめくっていると歌舞伎座の広告が目に付いた。
「歌舞伎座…座、なんだ、これだよ、これ」
座ならば手作りの芝居、プロ集団という感じがある、座、いいじゃないか。

こうして題名は「日曜名作座」に決まった。

録音の日、加藤道子は一人早く、誰もいないスタジオに立っていた。
「道子さん、ここにいらしたの」
声のほうをみると、森繁久彌がいた。
どう返事をしたか加藤は覚えていない。
が、脳裏に漠然とだが「この人とは長く仕事をしたい」と思ったという。
時代劇の録音をするときは必ず着物で望むなど仕事の鬼であった加藤の本能が"同士"と瞬間キャッチしたのだった。
森繁もおそらく同じ思いだったのだろう。

番組は前評判から芳しくなかった。
「ラジオの良い時間帯で何でなんという番組を…」
「二人の男女だけで声色を使ってやるなど二流、三流の仕事。邪道だ」
それは人気絶頂の森繁、放送劇団トップの加藤へのやっかみの気持ちも過分にあったのだろう。

第1回は尾崎士郎「人生劇場・青春篇」
放送後、森繁らが尾崎士郎のもとへ訪ねていくと「良かったぞ君たち。大いにやりたまえ」と激励。
回を追うごとに人気もうなぎのぼり、いつしか否定的な声も聞こえなくなった。

劇中で流れる人生劇場のテーマ音楽も人気を得た。
早速、古関裕而に話をし、以後日曜名作座のテーマ曲として、古関が降板した昭和61年4月以後、そして番組がリニューアルされ「新・日曜名作座」となった現在もなおアレンジを変えながら今日まで使用されている。

・・・
こうして誕生した「日曜名作座」ですが残念ながら全作品は現存しておりません。
当時はテープが高価であったこと、保存する場所が無かったこと、放送法の基準で保存自体が厳しかったこと...さまざまな理由が重なり、初期の作品は歴史の闇へと消えたとされています。
好事家や関係者が遺している可能性はあるので望みは無くも無いですが…。
それでも多くの作品が遺っていて、これまでに約30作品がソフト化されています。

しかし、過去ソフト化されても入手困難となっている作品(田辺聖子「私本・源氏物語」など)もあります。傑作でありながら、聴く事が出来ない作品がまだまだあるはず。
死蔵せず、森繁1周忌のあたりまでに新たなソフト化を希望いたします。
そして、ラジオでもラジオ深夜便の枠を利用して再放送を行って欲しいですね。
偉大なる遺産なのですから、活用しない手は無いです。
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by hakodate-no-sito | 2009-11-28 00:41 | 古今俳優ばなし | Comments(0)

追悼・森繁久彌 「日曜名作座」が気になる(その2)

森繁さん同様、女性はすべてパートナーにやってもらいたい。
となれば、加藤さんしかいない。

湯浅は全く迷わなかった。
加藤道子は当たりはやわらかい人だが、内面は闘志が燃え滾っているような人。
相手に不足は無いと乗ってくるはずだ。

加藤はNHK専属のため、出演交渉はあってないようなものであった。
音楽は菊田一夫ドラマ以来の付き合いである古関裕而にお願いした。
脚本はまずフォーマット作りということで椎名龍治が受け持った。
(2年目からは実力者中心にチョイスされるようになるが、名作座の形式を作ったのは椎名である)

問題は森繁である。
相手は映画界のトップスターである。
うるさ型でも知られている。

湯浅は腹を決めて森繁とコンタクトを取った。
映画「雨情」のダビング作業をしている目黒のスタジオで対面となった。
話をしてみると気遣いのこまやかな人である。
もともとNHKアナウンサーで満州局の人間、同胞という意識もあったのだろう。
ただし、最初の会談ではホームドラマをやりたい、と直接的では無いがそういう意図の発言をした。

それでは今回は困る、と湯浅は食い下がり、森繁久彌の芸風をフルに生かしたものを自分は作りたい。それでこういう形でということを考えた...と自分の意図を熱心に説明した。

2度目の会談で森繁はOKのサインを出した「やりましょう、ええ」。
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by hakodate-no-sito | 2009-11-27 00:26 | 古今俳優ばなし | Comments(0)

追悼・森繁久彌 「日曜名作座」のパートナー・加藤道子について

ここで少しばかり、加藤道子について記してみます。
あまり情報を入手できませんでしたが、とりあえずまとめてみました。
間違いや「これは無いのか」ということございましたらコメント頂きたく…。

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加藤道子(1919~2004)
大正8年10月31日、東京・麹町に生まれる。
両親は共に新劇俳優で父は坪内逍遥門下(文芸協会)の新劇俳優・加藤精一(清一)。
東京府立第五高等女学校(現・東京都立富士高等学校)卒業後、父を尋ねてNHKへ遊びにいったとき、人手が足りずにエキストラとして『助けて』と3回即興で叫んだのが初の芝居。
やがて血が騒ぎ、昭和16年NHK東京放送劇団養成所1期生として入所。
昭和18年5月にNHK東京放送劇団が活動をスタートさせ、放送界入り。翌19年「神明」で本格的な役を得る。戦後、昭和23年にNHKラジオの金看板枠とされた通称"金ドラ"で放送された「魚紋」で芸術祭賞受賞。芸術祭初の個人賞であった。なおドラマのストーリーは生後すぐ別れた母娘が17年ぶりに再会しながら一言も交わさずに別れるというもので、加藤は別れた母娘の2役を演じた。
そして内村直也・作「道子の存在理由」では1人5役というワンマンドラマに挑戦し、成功を収めるなど、活動的な演技派として放送劇団のトップの座を欲しいままにしている。
昭和26年に放送された第1回NHK紅白歌合戦では紅組司会を務め、昭和32年4月からは森繁久彌とのコンビで「日曜名作座」をスタート。生涯続け、そして最期の仕事となった。
"七色の声"、"声優の草分け"と呼ばれ、そのイメージがあまりに強いが映像作品にも多数出演しており、主な出演作品に朝の連続テレビ小説「娘と私」「たまゆら」「信子とおばあちゃん」や「花王・愛の劇場/愛と死と」などがある。
また、"声優(の草分け)"という紹介には「声だけが強調されているのは心外」と反発している。
ライフワークのひとつに遭難死した大学生の母の手記をもとにした合唱組曲「山に祈る」での母親の台詞の朗読がある。昭和49年に「日曜名作座」が評価され、番組として菊池寛賞受賞。
昭和56年からは朝日カルチャーセンターで朗読教室の講師を務め、数多くの受講生に講義を行った。昭和58年には紫綬褒章を授章。
平成元年に言語障害(脳血栓)で倒れたが、半年後に復帰。その後もう一度倒れるが無事に復帰している。平成4年に勲四等宝冠章授章。
平成10年に「日曜名作座」2000回突破を機にギネスブック申請がなされ、登録に至った。
「私はスローテンポだから200歳まで生きる」が口癖であったが、平成12年に膵臓癌であることが発覚。入退院を繰り返すようになり、番組録音には病室から通うという形になる。
しかし女優魂は最期まで持ち続け、平成14年放送の「長崎ぶらぶら節」の収録に先立ち、長崎弁を研究するなどしている。
同年12月31に森繁久彌が沖縄で心筋梗塞で倒れ、翌年秋まで療養にあたったことなどがあり、最期の仕事は同年11月13日録音(放送:15年1月19日)、藤沢周平・原作「夜の雷雨」となった。
平成16年1月31日、すい臓がんのため没。84歳。
病室のベッド脇には名作座の次回作(予定)の杉本苑子「鳥影の関」の台本が置かれていたという。
生涯独身。「両親の面倒を看るため」「戦死した弟のことがあったから」など諸説あるが、70年来の付き合いがあった脚本家の西沢実は「釣り合う男がいなかっただけ」と語っている。
本人は「芝居でいっぱい恋愛しているから」とあっけらかんとしていたという。
加藤の死後も過去作品の再放送形式で「日曜名作座」は継続し、平成20年3月まで51年間放送された。趣味は俳句・短歌。
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by hakodate-no-sito | 2009-11-26 00:25 | 古今俳優ばなし | Comments(0)

追悼・森繁久彌 「日曜名作座」が気になる(その1)

森繁久彌とラジオ。
NHKアナウンサーとして満州で活躍していたこともあり、森繁さんはラジオを大事していたようです。全盛期、映画などに関してはある程度何でもござれ、で受けていても「ラジオは好きなことをやりたい」と通していたそうです。

代表作を挙げましょう。
まずは伝説的風刺コメディショー番組「日曜娯楽版」。
和製ビング・クロスビーとして製作された、藤山一郎とのタッグ「愉快な仲間」
ラジオ番組である駆け出し放送作家と対面、その才能を買って製作された、脚本:向田邦子によるシチュエーション・ラジオドラマ「森繁の重役読本」
日本初のディスクジョッキー(DJ)「ラジオ喫煙室」

…この他いろいろございますが、とどめをさすのはNHKラジオ第1放送で半世紀続いた「日曜名作座」でしょう。

森繁さん自身「舞台に立てなくなってもこの番組だけは続けたい」「私のライフワーク」と語っていた番組です。

(再放送とはいえ)2008年まで続いた番組にしてはネットに情報が無いのが不思議です。
まあ、視聴者層がネットユーザーと合致しないのでしょう。
でも、一度ぐらいは誰でも耳にした事があるという…。
では、日曜名作座スタートのころの話を紹介いたしましょう。

・・・

日曜名作座は
昭和25年1月スタートの「愉快な仲間」(with藤山一郎)から「僕と私のカレンダー」「東京千一夜」
(with中村メイコ)と続く"森繁枠"第4弾として放送された。

それまではウィットに富んだ会話とゲストとのトーク・歌というバラエティショー形式であったが、昭和32年3月に「東京~」終了で、枠の管轄が演芸課から演劇課へ移った。

当時その演芸課員であった湯浅辰馬は上司から「森繁による新たな番組を考えろ」と指示された。
湯浅は新劇的芝居ではなく、それプラスアルファーを求めていた。女剣戟の七変化に心惹かれ、また「連続ラジオ漫画」で話術の第一人者・徳川夢声が七尾怜子や宮城まり子ら女優を作品ごとに替えながら当時の人気漫画をユーモアたっぷりに語っていたのにも大いに惹かれていた。
このような想いが脳裏にあったときに上司からの指示。湯浅が燃えたのは言うまでも無い。

―森繁久彌という逸材をフル活用したい
そうなると、やはり森繁さんに男の役をすべて演って貰いたい。
「いける」、湯浅は自分のアイデアに軽く酔った。

―題材は何がいい
やはり土台がしっかりした名作がいい。ネタ切れを起こす心配もないし、品質も申し分ない。
長くやろうと思えばやれる。

これである程度決まった。
問題は森繁の相手役である。しかし、これも湯浅は最初から意中の女性がいた。
加藤道子である。
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by hakodate-no-sito | 2009-11-25 00:00 | 古今俳優ばなし | Comments(0)

追悼・森繁久彌 俳優以外のお仕事

2009年11月10日、森繁久彌さんがお亡くなりになりました。96歳。
死因は老衰と、見事なまでの大往生ですが、やはり残念ですし、寂しさは隠し切れません。
芝居、歌、随筆、実業家...実にさまざまな顔をお持ちでどの分野でも実績を残されております。
ここでは芝居以外の面に触れてみたいと思います。

・歌
大正浪漫を感じさせる、情感溢れる歌唱は"森繁ぶし"と呼ばれ、そのレパートリーは明治・大正の流行歌を中心に数多くある。
客前で歌うきっかけは新宿ムーランルージュでの舞台「太陽を射る者」(1949年)。
以後ラジオ「日曜娯楽版」「愉快な仲間」などでその歌声は電波に乗り日本国中に知れ渡りました。
1950年、「愉快な仲間」製作メンバーとの酒席での一コマから番組競演者の藤山一郎とのデュエット「酔っぱらいの町」でレコードデビュー。後に「銀座の雀」としてリメイク。
1957年に主演映画『雨情』で歌った「船頭小唄」が大ヒット。歌謡界のリバイバル・懐メロブームのさきがけに。1971年には加藤登紀子の歌による「知床旅情」が大ヒット、本家の森繁盤もヒット。「知床~」原作である「オホーツクの舟唄」は倍賞千恵子などにより歌われており、隠れた人気作。ほかにも映画「喜劇とんかつ一代」の主題歌「とんかつの歌」や昭和38年紅白で披露されている「フラメンコかっぽれ」などは一部の層から熱い支持を受けている。

・随筆
1962年「森繁自伝」がベストセラー入りし、日本文藝家協会から誘われ入会。
新聞連載をまとめた「わたしの自由席」や「さすらいのうた~私の履歴書~」など、エスプリの効いたエッセイにも演技同様定評があり、80年代後半から90年代末までは、自身の芸談や交流のあった俳優・芸能関係者などの想い出を綴った著書を多く出し、貴重な芸能史資料となった。
2003年に森繁・談、久世光彦・文という形の連載「大遺言書」がスタート、最期の仕事となる予定が2006年に久世が急逝する形で終了した。

・実業家
実父・菅沼達吉からの血が成せる技か、早稲田人脈の血が成せる技か、著名人の威光か、多くのことを手掛けておりました。
芸能プロ:出海企画設立(1962年、後年離れる)、まあこれは芸能人ならば割合普通のことでしょうが、実業家としては佐島マリーナ建設が一番の業績ではないでしょうか。
北野中学在学以来、海に魅せられ、ヨットに船をこよなく愛した森繁さん。
1964年に、帆船「ふじやま丸」を作り、それを繋いでおくハーバーを、と神奈川県三浦半島佐島に自腹で佐島マリーナを建設。長男・泉を社長にすえた。
海好きはそれ以後も変わらずに、1991年には御年78歳で愛船・メイキッスIII号で日本一周を行っている。ただし、各方面から道楽が過ぎるという批判や維持費等金銭面での問題で両者共に手放した。
他にもゴルフ場「賀茂カントリークラブ」を広島へ設立。これも後年長男・泉が社長となり、亡くなるまで務めました。その縁があり「屋根の上のヴァイオリン弾き」での森繁の像が建っている。
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by hakodate-no-sito | 2009-11-24 00:00 | 古今俳優ばなし | Comments(0)

由紀さおり40周年記念コンサート"いきる~今日から始まる夢~"

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11月11日に国際フォーラムで開催された、由紀さおり40周年記念コンサート"いきる~今日から始まる夢~"へ行って来ました。

私、由紀さおり大好きでして…熱が入ったのは中学時代。
それまでも「お江戸でござる」での達者なコメディエンヌぶりや紅白歌合戦などの安田シスターズとしての姿は目にして認識していました。
嫌いじゃない分類には既に入っていたんです。

当時、スカパーで「ドリフ大爆笑」の再放送をしていて(注:今も再放送中)、ドリフ好きだった私、ウハウハ言いながらかじりついて見たら、由紀さんも出ていて(一時期はレギュラー状態でした、当然歴代最多ゲスト出演者)、これがもう素晴らしくイイ。

百戦錬磨のドリフメンバーと比べて全く引けを取らないおかしさ。
いかりや長介や志村けんとのからみは絶品。
どれだけ笑ったことか…。

「ドリフ大爆笑」は歌手・アイドル出演者のために歌のコーナーもありました。
ビデオ録画したものの鑑賞だったので、興味が無いと早送りしちゃうのですが、由紀さんは良い歌が多くて、これもまた病みつき状態で一時期のシングル曲は流れで脳裏に焼きつくことに。

あれから一体何年経ったのか…8年目ぐらい、と思ったんですが、9年だったかも... まあ約10年です。

という訳で由紀さおり好きになったのですが、函館にはコンサートのチャンスは無く、安田シスターズとしての活動には素晴らしいとは思えど今ひとつ興味を持てず、ソロコンサートの類は全く演っておらず…まあ、もっぱらネット界の恩人に指南して頂きながらEPやEMIから出ていたCDを買い、時が少し経ち、一時の熱も収まり、定期観察アンテナは一応張っていましたが、歌での活躍は、たまさかの歌番組ソロ出演で「夜明けのスキャット」「手紙」を歌うのを楽しみにするぐらいでした。
朝ドラ「ファイト」はどうも安田シスターズ的な活動の延長...に思えましたし。
(といいつつも歌のサントラは買っていたりする)

女優・タレントとしては、ボンカレーCMやら「時空警察」ナレーション…と面白いことをちょこちょこ行い、ヒットドラマにも顔を出していて、ニンマリすることが多いのですけどね。

それが、それが、この度約20年ぶりにソロコンサート!
夢にまで見た、ひとりでのステージ。
歌謡曲が聴ける、あの歌が聴ける。
これが行かずに居られるか。
あの頃の自分が知ったらどれだけ喜ぶだろうか…。
多くの想いが胸によぎりました。

金銭・日程・体調・・・どれも万全ではありません。
いろいろ調整しなければいけない、調整できるかも不透明。
そんな面倒なことはできればしたくない。

しかし「行かなきゃ後悔する」「若さでムリをしてみよう」
最後はある人の言葉がきっかけで、重い重い私の腰あ持ち上がり、東京へと誘うことに。

「ソロコンサート、客の入りは大丈夫だろうか?」
要らぬ世話ながら、道中そんなことを考えていました。
会場入りして、それは杞憂であることを確認しました。
安田シスターズのファン、由紀さおり40年来のファン・・・ビッシリ。
観客年代は団塊世代及びその上あたりの世代が中心。20代あたりもチラホラ。
普段であれば私は浮くのですが、そんなことは今回は無かったのです。
ただ・・・30~40代あたりの世代は少なかったような…歌い手としてよりテレビタレントしてのイメージがあるからか、この世代?

ロビーでは"お姉ちゃん"こと安田祥子(やすだ・さちこ)さんがにこやかに関係者と挨拶&談笑。
本当におおらかそうでで優しさに満ち溢れた美しい方に見えました。
テレビや雑誌などで見るよりもずっと素敵。
この、お姉ちゃんもソロだとまた独特の味わいがあってイイのです。
チャンスがあれば、この"お姉ちゃん"のソロも堪能してみたいと思いましたね。

会場に入ると何とも嬉しいサプライズ、何とテレビカメラが鎮座!
そう、NHK(BS-2)で収録し、後日テレビ放送されるというのです!!!
NHKも粋なことするじゃありませんか。
そう、こういうステージはより多くの人に見せるべきなのです。

さて、ステージ。
2部構成で間に15分ほど休憩(W.C.タイム)。
休憩時間込みで約2時間半の公演でした。
1部は寸劇調。
由紀さおりというよりも安田章子(本名)としての軌跡を、そしてコメディエンヌや女優という、由紀さおりの多角的一面を魅せるという意図があったように感じました。
今回、構成・台本・演出を担当した高泉淳子との芝居、これがまた魅せる、魅せる…アクトレスとしても非凡な才能を持つことを改めて再認識。魅せて、聴かせて、泣かせて、笑わせて…。
そしてその間に入る歌の素晴らしさ…。芝居と歌とが一体化したというのか…。
今まで見たことが無いぐらいに、実に練ったステージなのです。
OPからまず引き込まれます。
昭和44年当時へタイムスリップし、そして平成21年の今へ。
このOPこそ、このコンサートの姿勢なのです。

2部は、新たに歌へ新しい息吹を、ということでヒット曲をジャンジャン披露。こういうのを待っていたのです、私は!
ビッグヒットの他にも、代表曲といって差し支えない曲を集めたヒットメドレーで10曲連続歌うシーンがあり、その選曲1曲1曲に涙が出そうに…。
「雪のワルツ」というファンの心をくすぐる選曲もございました。

第2部でも高泉淳子が登場し、ジャズだったか1曲披露。
これが、実に面白い。女優の歌、という趣。
独特の味がありました、予算の都合が付いていたら、CD買っていたのですがね…。
収入が有り次第、探してみたいな…と。

この二人のトークで驚いたのが、由紀さおりもYoutubeを見ているという発言。いや、ブログもやっている方なので見ていても不思議では無いのですが、ええ…。
そこで発見したというアメリカのバンドPINK MARTINIが自分のシングルB面曲「タヤタン」をカバーして歌っている点に触れ、本家本元がそれを披露。

コンサートでは、最新アルバムからは半分ほどの曲を披露していたのですが、過去のヒットナンバーと並べても全く遜色が無いのです。
由紀さおりの楽曲のクオリティの高さは今に始まった訳ではなく、90年代の「お江戸でござる」オリジナルソングでも、意欲的な試みを行っていたり、途切れることなく続いています。
特に中村中によって書かれた「回転木馬」、これはスタンダード化して、もっとタンゴやシャンソンを歌う人にも歌っていって欲しい。
そう思わせる1曲。

由紀さんがステージ中、何度か涙ぐんでいたようなシーンがありました。
それが本当に感極まったためか、あくまでステージにおける演出の一環か、歌の工夫のひとつか・・・それもこれもひっくるめてSHOWの構成を担っていたのです。
どう解釈してもいい。ああ、こういうのを大人のステージというのでしょうか。

これからは姉妹での活動は続けつつも、ソロの歌の活動をもっと増やしていきたいと語っていた由紀さん。ぜひ、そうして頂きたいです。
過去のヒットナンバーをただノスタルジーで聴かせる歌い手ではないし、昨日・今日・明日、すべてを魅せて聴かせることが出来る類稀な歌手が由紀さおりなのですから。

そして、そこに女優として、コメディエンヌとして、司会者として、タレントして、さらに円熟味を増した大人の女としての魅力がある。
由紀さおりという人は、まだまだ語られていい、評価されてしかるべきなのです。まだまだ何でもやれる人なのです。

好きな歌い手がみんな故人/活動停止/引退...という率が半端じゃなく多い私。ややもすれば、過去ばかりに目が行き、今を見ることを怠り、無視すらしたくなることがあるのですが、今回気付かされました。
「そうだ、由紀さんがいるじゃないか」と。



由紀さん、来年1月~3月にかけて四国各地コンサートを行うそうです。
四国在住の皆様は、ぜひ足を運ばれることをオススメ致します。
また、この東京公演がテレビ放送の暁には、視聴をオススメ致します。
上質のエンターテインメントを堪能出来るチャンスです。
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by hakodate-no-sito | 2009-11-15 14:29 | 歌・唄・うた | Comments(0)

高英男さん、新アルバム発売

2009年11月6日にキングレコードより「決定版・高英男全曲集2010」(KICX-3767 税込3000円)なるCDアルバムが発売されます。

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※これは93年発売の全曲集の画像です、お間違えの無いように。

キングでは毎年1度、演歌・歌謡曲系統の歌手のベストアルバムを出すのが恒例。
高さんの場合、ジャンルがシャンソンだからなのでしょうか、3~4年おきの発売。
CD時代になってから今まで、93年、99年、03年、07年と4回(4枚)発売されています。
93年/99年のアルバムと03年/07年のアルバムはそれぞれ同一内容。

さて、今回はと申しますと03年/07年のそれにボーナストラックという内容。
選曲、記します。

1.雪の降る街を
(内村直也作詞/作曲:中田喜直・作曲/鹿児島清志・編曲)
2.セ・シ・ボン C'est si bon
(Homez・作詞/H. Betti/中原淳一・訳詞/岩崎宏康・編曲)
3.モンマルトルの丘 Complainte de la Butte
(Jean Renoir・作詩 /Georges Van Parys・作曲/中原淳一・訳詞/岩松正司・編曲 )
4.リラの花咲く頃 Quand Refleeuriront Les Lilas Blancs
(F.Potter・作詞/F.Doelle・作曲/ 中原淳一・訳詞/寺島尚彦・編曲)
5.パリの屋根の下 Sous les toits de Paris
(Rene Nazelles・作詞/R.Moretti・作曲/西条八十・訳詞/寺島尚彦・編曲)
6.詩人の魂 L'Ame des Poetes
(Charles Trenet・作詞・作曲/中原淳一・訳詞/寺島尚彦・編曲)
7.詩人が死んだ時 Quand il est mort le poete
(L.J.M.Amade・作詩 /g.Becaud・作曲/荒川基裕・訳詞/岩松正司・編曲 )
8.幸福を売る男 Le Marchand De Bonheur
(原詩:J.Broussolle・作詞/J.P.Calvet・作曲/戸田邦雄・訳詞/鹿児島清志・編曲)
9.ろくでなし Mauvais Garcon
(Salvatore Adamo・原詞・作曲/岩谷時子・訳詞/鹿児島清志・編曲)
10.オーシャンゼリゼ aux Camps-Elysees
(M.A.Deighan、M.Wilshaw・原詞・作曲/安井 かずみ・訳詞/鹿児島清志・編曲)
11.枯葉 Les Feuilles mortes
(Jacques Prevert・作詞/Joseph Kosma・作曲/訳詞:中原淳一/岩松正司・編曲)
12.パダム パダム Padam Padam
(HENRI CONTET・作詞 /Orbert Glanzber・作曲/:中原淳一・訳詞/岩崎宏康・編曲)
13.ラ・ボエーム La Boheme
(Charles Aznavour・作詞・作曲/高 英男・訳詞/岩松正司・編曲)
14.ロマンス Romance 
(H.Plante・作詞/Joseph Kosma・作曲/ 中原淳一・訳詞/寺島尚彦・編曲)
15..聞かせてよ愛の言葉を 
Parlez-moi d'Amour(J.Lenoir・作詞・作曲/中原淳一訳詞/鹿児島清志・編曲)
16.雪が降る Tombe la neige
(Salvatore Adamo・原詞・作曲/高 英男・訳詞/鹿児島清志・編曲)
17.ラ・メール La mer
(Charles Trenet・作詩 /A.Lasry,C.Trenet・作曲/中原淳一・訳詞)
18.ラ・ヴィ・アンローズ(バラ色の人生)
La Vie en Rose (Edith Piaf・作詞/P.Louiguy・作曲/中原淳一・訳詞/岩松正司・編曲)
19.夜会服と古手紙
(喜志邦三・作詞/石川皓也・作曲) ※昭和33年9月1日 ABCラジオ「ABCホームソング」放送

「夜会服と古手紙」はおそらく初復刻となる曲です。
ABCホームソング(またはクレハ・ホームソング)とは、戦後一世を風靡した「NHKラジオ歌謡」の民放版を、と呉羽紡績がスポンサーをつとめ、朝日放送(ABC)で昭和29年から49年(50年だったかも知れません)までの約20年間放送されたラジオ番組。番組オリジナルのホームソング…家族で口ずさめる健全な、文化的な歌、を作り、放送で流し続けました。

この番組から生まれた歌、思いついたものをちょっと挙げてみます。
・踊子(三浦洸一)
・ふるさとのはなしをしよう(北原謙二)
・川は流れる(仲宗根美樹)
・こいさんのラブコール(フランク永井)
・公園の手品師(フランク永井)

…などがあります。

高さんは「雪の降る街を」をはじめ、NHKラジオ歌謡を多く歌い浸透させた実績がある方。
(サトウハチローの傑作「ああプランタン無理もない」の創唱も高英男さんと女性歌手(名前不明))
そういうこともあって、お声がかかって、ホームソングも歌われたのでしょう。

レコード化されなかったのは、当時高さんの担当ディレクターであった牧野剛さん(高さんの死から3約ヵ月後の2009年8月6日没)が「あなたはシャンソンで売り出したんですから」と、(言い方が適切ではないですが)歌謡曲の吹き込みに消極的であくまでシャンソン歌手第1号高英男の看板を大事にしていたことも一因ではないかと思われます。

また、昭和33年当時高さんは過密スケジュールに加えて、フランス行きを控えていた。
ゆえに放送用の1回こっきりの仕事、と割り切っていたのかもしれません。

それにしても本放送以来それっきり、になっていた歌が半世紀の時を越えて今ふたたび蘇る…嬉しいことです。私にとって見れば新曲が聴けるようなものですから。

高さんがこのことを知ったら、何と仰るんでしょうか。
「いや~こんな拙い歌は出したくないなァ」
「よく声が出ている、この声は今は出せない」
「自信に満ちた声、意欲に燃えていたころの歌」

…残念ながら、もう本人に聴く事は叶いません。
お亡くなりになったから、この歌が復刻…になったのかもしれません。

唯一無二の大歌手、大芸人・高英男。
ゴケミドロや中原淳一を介護した話も、勿論高さんの一面です。
ですが、そればかり…では片手落ちにもほどがあります。
高英男ファンとしてはひよっ子の私ですが、少しでも高さんの素晴らしさ、遺した実績を紹介していければ…そう思っています。

ぜひとも、この「決定版・高英男全曲集2010」、ご興味ございましたら御購入下さい。
近所のレンタルショップでレンタルリクエストを出して、取り寄せて貰う。
図書館にリクエスト要望出して、ライブラリー入りして貰う。
手はございます、ぜひともひとつよろしくお願い致します。

付記)
収録曲の録音年代、推測してみました。御参考までに。
1,9,10,15,16
:1976年「歌手生活35周年記念アルバム・歌のアラカルト」より
2~6,12,14
:1965年「高英男シャンソンアルバム」より
7,13
:1967年(66年?)「高英男 巴里を歌う」より
8,17,18
:1960年(61,62年?)「高英男シャンソンアルバム・夜のシャンソン」より

※こっそりひとこと
高さんは1972年に狭心症で倒れてから歌のイメージが少し変わられ、搾り出すような絶唱が多くなります。アクが強くなったといいましょうか…勿論円熟味を増し、歌の深さ、声の強弱・ファルセット…自由自在なのですが、病前・病後では受ける印象が違うように思います。どちらも素晴らしい、結構なものですが、出来ればそのあたりも考慮してアルバム製作に当たってほしいのです。
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by hakodate-no-sito | 2009-11-04 21:33 | 歌・唄・うた | Comments(2)