年齢不詳な若人が唄の話を中心にアレコレと・・・


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松島詩子・略歴

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松島詩子(1905-96)
本名:内海シマ、旧姓:松重。
明治38(1905)年5月12日、山口県玖珂郡日積村(現:柳井市)の生まれ。
実家は雑貨商兼業の農家だったという。
柳井高等女学校卒業後、代用教員として教壇に立つ傍らで、松島が歌好きであることを知った先輩教員の勧めがきっかけで文部省中等教員検定試験(文検)合格を目指し、苦学の日々を送った。

昭和5年、大正13年以来の目標を果たし、難関であった文検に合格。
その報告に、恩人である静岡師範学校の原田彦四郎のもとへ訪れる。ここで彼女の人生が大きく変化していくことになった。たまたま、そこに原田の知人で、作曲家の佐々木すぐるが居合わせたのである。
そこで松島の歌声を聴いた佐々木は流行歌手にならないかと強く誘って来た。
熟慮を重ねた末に
「(クラシックや流行歌という区分に囚われず)私はただ歌の勉強をしたい」
と、周囲の反対を押し切り、上京。佐々木のもとへ身を寄せる。

昭和7年、コロムビアから「ラッキーセブンの唄」でレコードデビューを飾り、以後昭和11年頃までの間は、様々な芸名(変名)を用いて、多数のレコード会社で吹き込みを行っている。
このこと自体は当時普通に行われていたことだが、それでも松島の芸名の多さはずば抜けて多い。
柳井はるみ(デビュー当時の芸名)、広瀬陽子、千早淑子、東貴美子、ミス・アサヒ、島歌子、伊藤麗子、山田時子、島ユリ、広田満須美、藤田不二子…挙げた以外にもまだまだあるというし、なんと幾代という芸者の名前で発売されたレコードも存在するという。

なお、松島詩子という芸名だが、これは佐々木からの依頼で、山田筰作が命名したもの。
山田は姓名判断の名手としても知られていたことから、命名主となった。この名前はデビュー1年目である昭和7年の時点から使用されている。
この時期、流行歌はもちろん、洋楽などへも果敢に取り組み自家薬籠のものとして、のちに大成する礎を築いている。
恩師といえる佐々木すぐるの代表作であり、日本の叙情歌の傑作「月の沙漠」(「月の砂漠」という表記、実は誤り)を最初にレコード吹き込みを行ったのは松島(昭和7年、ヒコーキ、柳井はるみ名義)であるということも記しておきたい。

松島詩子の名が一般層まで広く知れ渡るようになったのは、昭和9年。
キングレコードで吹き込んだ「潮来の雨」、そして「女の友情の唄」がヒットしてからである。
昭和11年頃には、井口小夜子・三浦房子と、キング三人娘と称されるようになり、昭和12年からはキングの専属として、芸名も松島詩子一本へと統一する。この年、念願であったリサイタルを日比谷公会堂で開催。このリサイタルは松島のライフワークとして晩年に至るまで年1回ほどのペースで行われていく。
そして、彼女の代名詞といっても差し支えない「マロニエの木蔭」の発売もこの昭和12年である。マロニエ~は、昭和15年・21年の再発売を経て巷に浸透、息の長いヒットとなった。

『贅沢は敵だ』という標語が街中に見られるようになるなど、戦時色が濃くなり始めていた昭和15年には「上海の踊り子」がヒットし、「広東の踊り子」「南京の踊り子」と続く踊り子シリーズが誕生している。松島本人は広東~がお気に入りであったという。
この年、歌手の内海一郎(1892-1972)と正式に結婚。出会いはニットーレコードで吹き込みを行っていた頃だという。内海は既に歌手を止めており、亡くなるまでマネージャーとして松島の活動のサポートを行った。

やがて、流行歌の世界でも軍国歌謡が大勢を占めるようになり、松島もそれらの楽曲を吹き込む機会が回ってくるが、それらも見事に歌いこなし、昭和17年には「鐘の鳴る朝」という美しいタンゴ(タンゴは友好国アルゼンチン音楽であるとして、ジャズなどと違い迫害を逃れていた)の名唱を残している。

戦後も引き続き活躍。
21世紀の現在まで続く『NHK紅白歌合戦』へも第1回から第11回まで通算10回出場(ほかに第40回では証言者としてゲスト出演)。
松島はまだ権威も箔もついていなかったこの番組を気に入り、第2回の交通事故での欠場を本当に悔しがっていたという。

昭和20年代半ばから30年代前半にかけては、中野忠晴や渡久地政信、細川潤一らと組んで、和製シャンソンというジャンルの確立に挑み、「マロニエの花咲く頃」「私のアルベール」では日本の流行歌には珍しいヴァースを取り入れた歌作り、「マロニエの並木路」を以てマロニエ三部作の完成、そして「喫茶店の片隅で」のロングヒットという実績を残した。
他にもカルメンを題材とした「スペインの恋唄」など、円熟した歌唱力で意欲的に歌へと取り組んでいたが、そこには根っからの歌への求道ぶりは勿論だが、同世代の淡谷のり子らの活躍も大いに励みになっていたという。

昭和40年代の懐メロブームでも、新録音のアルバムを発売し、多くの歌番組へ出演するなどし、健在ぶりを示し、昭和53年には勲四等瑞宝章を授章。この際に、それまで明治43年生まれとしてきたプロフィールが同38年生まれであったことが図らずも発覚する。「勲章貰ったのはいいけど、おかげで本当の歳が判ってしまった」と松島本人は苦笑していたが、この年齢詐称はデビュー当時、年齢が不利に働かないようにという関係者側の配慮によるものとされている。
一部関係者の中では既知の事実でもあり、別段バッシングされるような事態も起きず、このプロフィール訂正後は(淡谷のり子よりも年上である)歌謡界の長老として、さらに重きを成していくこととなった。

昭和59年には、バラエティ番組『ライオンのいただきます』(フジテレビ)へ出演し、その愛嬌あふれる言動などで、一躍若年層にまでその知名度は拡大。翌60年の自身の傘寿記念リサイタルは、当時現役最長老歌手であり、戦前に浅草オペラの舞台で共演した田谷力三がゲスト出演。
ギネス級長老デュエットと大いに話題をさらうなど、晩年に差し掛かり、ふたたび華ひらいたひととして大いに話題をさらった。
このあたり(の前後から』キャリア初期のように、再びピアノの弾き語りでステージに立つようになっていく。
「マロニエの木蔭」のカデンツァのイントロを力強いタッチで演奏し歌う姿は、バラエティでのとぼけた姿から到底連想出来るようなものではなかった。
八十路に差し掛かっても衰えを知らぬ歌への強い求道ぶりは、生涯変わることがなかった。

平成8年11月19日、心不全のため没。91歳だった。
平成6年、東京・明治記念館で開かれた自身の「米寿を祝う会」で3曲歌ったのが最後の舞台となったが、その後も発声やピアノの練習は怠ることなく続け、東京・小平の自宅で開いていた音楽教室「詩っ子会」での指導は亡くなる約1カ月前まで行っていたという。
入院中も自身のヒット曲を看護婦相手に披露するなど、歌へのつながりは切れることなく生涯現役を全うした。

没後、平成3年に名誉市民として選ばれるなど縁の深い故郷・山口県柳井市の町並み資料館の2階部分が松島詩子記念館として整備され、ドレスやレコード、譜面など彼女の愛用品が一般に公開されている。
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by hakodate-no-sito | 2011-12-18 03:22 | 歌・唄・うた | Comments(0)

私的ダンシ考

この前亡くなった立川談志、私はどうにも好きになれなかった。
生理的に好かないし、何よりあの芸風が苦手だった。
だが、それ以上に嫌いなのが、彼を家元と崇め奉る信者。
気持ち悪くて仕様がない。
これは訃報を聞いた今も変わらない。

ただ、ツイッターを眺めて、追悼番組をいくつか見ていて、今までボンヤリしていた何がどう苦手なのかということを知ることが出来た。

自分にとって本当にNGだったのは、あの偉そうな物言い云々よりも、声だったと気付いた。
追悼で在りし日の落語を放送していたので観たが、決定的にピンと来た。
うまい・へたじゃないのだ。声がダメなのだ。生理的に無理。
私は美声しか受け入れないとか、そういう考えは持っていないが、声は好き嫌いの判断材料としてかなり重要な位置を占めている。
私にとっては彼の声は、中毒性を感じる声では無いのだ。快とする声では無い。

あと、眼だ。
後年は色つきメガネをかけていたから、あまり気にすることが無かったが、あの眼も私はどうもダメだ。
偏見で物を言うが、いじめられっ子の眼だと思った。挙動不審的な眼。孤独、淋しがり屋の眼だ。陰性の眼だ。
ある種の人の神経を逆なでするものがある。
あの眼を持つ人は、私には受け入れ難い。こっちが引きずられそうになる。

ただ、私は評論家としての彼は一目も二目も置いていた。
自分でもすっかり忘れていたのだが、あの人のおかげで知ることが出来た芸人や歌手に歌、結構あるのだ。

たとえば松山恵子。
お恵ちゃんを初めて知ったのは、NHKで放送していた彼の冠番組に彼女が例の落下傘ドレス姿でゲスト出演したときだった。

間違いなく才人だったが、どうにも受け入れ難いものがあった。
わざとやっているところもあれば、自分の過ちをパブリックイメージを利用してほっかむりしてしまう狡さもあったと思う。

訃報を知ったとき、「よくまあ75まで生きたもんだ」と思った。
実は「やった!」と思ってしまった。
哀しい気持ちなど微塵も無かった。信者ザマーミロぐらいにニンマリしてしまった。

反体制側のはずの人が、意図するかしないかは別として権威となり、彼が黒といえば白でも黒と信じて疑わない盲信者が溢れる。 そんな状態は私には嫌で嫌でたまらない。

一目は置いていても生理的には好かない。
でも死んでしまえば、そんな感情も消えて、より客観的に眺めることが出来、彼の発言に耳を傾け、考えることが出来るのではないか。

そんな様々な想いが「やった!」という気持ちとして出たのだろう。

今後、どう自分のなかで立川談志の考えを消化していくことになるのだろうか。
楽しみにしている自分がいる。
そして、彼の死がプラスになって欲しいと考えている自分がやはりいる。

これは極めて残酷な考え、なのだろうか。

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by hakodate-no-sito | 2011-12-13 21:54 | つぶやき | Comments(0)

女ひとりの巴里ぐらし

昨晩、夢中になって読み耽った本がある。
文庫本で実質180頁ほどだから、そう長くも無い。あっという間に読めたが、抜群の歯ごたえ。
今朝も目が覚めてすぐにパラパラとめくっている。

「女ひとりの巴里ぐらし」
これは歌手でエッセイストとしても知られている石井好子初の著書、処女作。
今月はじめ、実に56年ぶりに河出文庫から復刊された。
河出に石井ファンの人がいるのだろう。
ムック本や単行本未収録エッセイ集、旧作文庫化・・・と今年だけで6冊も出版されている。
有難いこと、この上ない。
―買いに行かなきゃ、読まなきゃ、読みたい、欲しい。
そう思いながらも、本屋へ行きそびれて、最近やっと入手したのだ。

彼女がパリへ渡り、何年ものあいだ歌の仕事をしていたことは知られている。
モンマルトルのキャバレー・ナチュリストで1年間毎日歌い続けたことも。
他の著書でもこのときのことは書いている。
だから、エピソード蒐集という点では期待していなかった。
少しでも石井好子に触れられればいい、ぐらいに思っていた。

私の考えは甘すぎた。
この本の出版は昭和30年。フランスから石井が戻って来たのが昭和29年。
つい最近の話ということになる。
だから、後年の著書と比べ、より生々しく、鋭いエピソードや描写がバンバンと飛び出す。

始めての著書だが、既に文章は殆ど完成されているのにも驚いた。
代表作「巴里の空の下オムレツのにおいは流れる」は昭和38年の発売。
これと比べてもまったく遜色がない。恐れ入る。

両親家族への想いなど、なるほど後年と比べるとこころ優しき少女の面がチラリを覗いている面はあるが、かえって興味深い。石井好子の内なる顔なのか、若き日の姿というのか。ともかく好ましい。

ところで、彼女は一体どこで書くことの才を磨いたのだろう。
英仏2ヶ国語を学んだことか、女学校時代から読書家だったからか、はたまたパリで同居していた翻訳家の朝吹登水子(二人は親類でもある)の影響もあるのか。
あの時代の上流階級の育ちで、しっかりと教育を受けていればおのずと書けるもののか。
天分に加えて、手紙をよく出すなど書くことが好きでよく行っていたのが1番大きいのか。
自分の見識を持っていて、頭が理路整然としていて、観察眼があれば、文章は書けるものなのか。
下手な作文しか書けない私にはそれが知りたくて仕方ない。

それにしても、読み応えのある本に出会ったときの嬉しさは格別。
鋭い観察眼で、踊り子・ホステス・歌手・・・袖擦りあった人たちの姿を大小様々なエピソードを並べて描き出しているこの本はもう私の大事な1冊だ。

今晩は、石井の「私は私」(岩波書店)を本棚から引っ張りして読み比べようかなんて考えている。
私にとっての石井好子という人の存在は、どんどん大きくなっていく。
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by hakodate-no-sito | 2011-12-05 21:28 | 読書感想 | Comments(2)