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あいつ、旗照夫。

前々から気になっていた旗照夫のCDを思い切って買ってみました。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B006O2AJJA

旗照夫は1950年代に人気だった男性ジャズ・ポピュラー歌手。
早くに一線を退いてしまったこともあって、音源復刻の機会がほとんどない方。
日本のジャズ(ポピュラー)における男性ボーカルの地位は低いことこの上なくて、日本のジャズボーカル界で長年トップの座を張り続け、2000年代初頭まで現役だった笈田敏夫ですら、今聴こうとすると大変な状況。

早くに一線を退いた旗照夫ですが、その後再びマイクを持つようになり、2015年現在は定期的に行うディナーショーを活動の中心に据え、時折歌番組にも顔を出すことも。数年前には「徹子の部屋」へも出演しています。美声も歌唱力も健在で、「90歳まで歌いたいから」と節制しておられるそう。



https://www.youtube.com/watch?v=XgA5Au9P_48
旗照夫、近年のステージから。

旗照夫は昭和29年にポリドールで「ハッシャ・バイ」等を吹き込みを行った後、昭和30年から33年にかけてコロムビア、その後は東芝レコード(現在のユニバーサル・ミュージック・ジャパン)で吹き込みを行っています。

今回の復刻はコロムビア時代。旗の歌声で世に出て、今でも唄われる機会の多い「あいつ」もコロムビア時代です(東芝時代にも再録音し、レコード発売しています)。

旗照夫の歌声は素晴らしいのですが、聴きどころは旗だけじゃないのです。
コーラスグループとして、プロの道を進み出した頃のダークダックスが旗とコンビのようなかたちで多く仕事をしていたのですが、このCDにも旗とダークの組み合わせで吹き込まれた音源が多く収録されています(全22曲中7曲)。

「ハッシャ・バイ」「ホワイト・クリスマス」「マリアンナ」「砂に書いたラブレター」・・・。
歌もあくまで旗のコーラスでサブに徹する形式ではなく、2コーラス目では主旋律を担当するなど、対等の関係。ダークダックスの唄を楽しめます。キャリア初期、ですが既にダークの歌声は完成されていて、安心して(?)若いダークの伸びのある声に聴き惚れられます。

旗照夫に関心のある方にも、ダークダックスに関心のある方にもお薦めです。

・・・ひとつだけ欲を言えば、日活映画「街燈」(監督:中平康)の主題歌「街燈」(作詞中原康、作曲佐藤勝。三浦洸一のヒット曲とは同名異曲)、これも入れて欲しかったですね。洒落た良い歌なんですよ。


https://www.youtube.com/watch?v=1tvTVAAtitY

旗照夫、今月5日発売のアルバム「Yoshie Sings 50s」(ビクター/VICL-64387)で、久しぶりのレコーディング。水谷良重時代からの付き合いの二代目水谷八重子丈とデュエットで「先生のお気に入り(Teacher's Pet)」を披露だそう。こちらも気になります。

http://www.jvcmusic.co.jp/-/Discography/A003659/VICL-64387.html
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# by hakodate-no-sito | 2015-07-31 21:05 | 歌・唄・うた | Comments(0)

「父・川内康範を語る」飯沼春樹

ここに載せるのは2013年6月8日に函館市公民館で開催されたイベント「月光仮面は函館生まれ ~川内康範氏の心を辿る~」で、川内康範氏の実子・飯沼春樹氏が語ったことを、その日の深夜、私函館のシトが記憶を手繰り寄せながら記したものです。私の記憶違い等がある可能性もあり、飯沼氏が意図したニュアンス等とズレがある可能性もあります。そのあたりをご承知頂いた上で、お読みくださいますよう、お願いいたします。

--------------------------

ただいまご紹介に預かりました飯沼です。私は父とは2歳のときに別れておりまして、あまり行き来もございませんでした。父に対する思いは複雑な思いがありますので、職業の弁護士口調で淡々とお話するつもりですが、時に詰まったりするかもしれません。×時半までだから45分・・・保つかな。何とか頑張ります。

函館には祖父(康範の父。僧侶)が居て、手紙が来て「逢いたい」というので×歳(失念)のときに、当時は新幹線なんてありませんので上野から急行に乗って、青函連絡船に乗り継いで来たのが初めで、そこから20回ちょっと函館には来ておりまして、まあ縁のある土地なんです。

そして「月光仮面」というものにも私的な思い入れがありまして、今回お話を頂いて、どうしてもお力になりたいと思って、参った次第です。

父とは×歳(これも失念、小学校中学年ぐらいの年齢だったと思う)のときに、逢いたいと手紙があって大阪で逢ったのが、初めて父に会った記憶となります。
「月光仮面」が始まったとき、うちにはまだテレビがなかったんですが、じきに手に入り、見ていました。

さっきの映像を見ますと、特撮も円谷プロがやっていたものの前で、今見ると、時代の流れというか、何だかコントのようですが、当時は違和感なく、楽しんで見ていました。

まあ、あるとき母が、これを書いたのはお前の父親だよと教えてくれました。
父が、「私もこれを見るのではないか」という思いで書いているのではないかと、私に向けて書いてくれているのではないかと思った。
他にもいろいろ子ども向けの特撮ものは書いておりますが、やはり「月光仮面」。
どうしても私には「月光仮面」は特別な思い入れがあります。

父に会う前だったか、映画館で父の姿を見たこともあるんです。「月光仮面」か何かの映画があって、書斎に座っている父が1シーンだけ出てきた。最初は背中を向けていて、クルッと回って、やあと挨拶をする程度の短いものだったんですが、ああこの人が父なんだ、と。

でも、母は別れている夫の作品だから連れてって欲しいとは頼めない、継父にはなおさら。だから子どもだけでこっそり見に行ったら、あとで先生にわかって大目玉を食らいました。

父と母が初めて会ったのは昭和20年頃。戦後まもない頃です。
千人針を貰った御礼に、当時母が住んでいた福島の、今のいわきへ訪ねて来たのが最初なんです。そういうところは本当に律儀な人で。
戦争が終ってすぐの頃は、男の人は兵隊さんに行って、そのまま亡くなったりまだ帰って来なかったりして、数が少なかったんですね。結婚相手になる人が少なかった。
まあ、そういうこともあって、恋仲になって、いろいろやり取りしているうちに父がいわきまで来て、結婚ということになって、昭和23年に僕が生まれたんです。

1年ぐらいは、そのままいわきに居たんですが、文筆で身を立てたいという思いもあって、大阪の岸和田、だんじりやNHKの朝のドラマ「カーネーション」、コシノ三姉妹がモデルの、あの土地に移るんですね。丁度祖父がそこに土地を持っていまして、空き家があったんです。

その頃の話を母から聞きましたが、激しい人だったようです。
近所の子どもがうるさくて原稿が書けないと、隣の家に文句を言いに行ったり、母が饅頭が好きで、たまたま原稿料が入って、それで父が饅頭をお土産に買って帰ったそうですが、この貧乏なときに何が饅頭だと母が怒ったら、バーッとその饅頭を外に全部放り投げたり。
とにかく貧乏で、別れてから数年してからバーッと名が知れるようになって、あと数年辛抱しとけばよかった、なんて笑ったこともありました。

そうこうしているうちに、父は「やはりここじゃだめだ、東京で一旗上げたい」と上京します。
父は母にも一緒に来るように言ったそうですが、東京に行ったら住む場所すらおぼつかなくなる。岸和田に居れば、とりあえず住む場所は確保できる。それに東京に出たところで成功するとは限らない。
まあ、そう考えて母は私と残ることを決心したようです。まあ、そのときはいずれ迎えに来るという気持ちがあったようなんですが、3年も離れているうちに夫婦関係が破綻してしまって、夫婦別れということになりました。

そのとき、父から手紙を貰いました。
なるべく読まないようにしていて、ちゃんと目を通したのは亡くなった後でした。
プログラムに載せてあるのが、それです。
康覚(こうかく)と書いているのは、姓名判断で祖父がこの名前に変えろと言って来たからで、父も本名は潔なんですが、康範と変えていて。
私も変えろということだったんですが、母が断りまして、春樹のままです。

母が再婚したのはそれから●年後(注これも失念。3年だったか5年だったかと思う)です。
母は離婚して旧姓に復して、当時は選択なんて出来ませんでしたからね、それから結婚して飯沼姓になって。私の方は、子どもは離婚してもすぐ名前は変えられないんですね、家庭裁判所に行って申請を出して初めて変えられる。で、私は養子縁組手続きで川内から飯沼姓になって、今日に至っています。

継父も結婚に一度失敗していて、子どもが二人あったんですが、母親の方に引き取られまして。丁度、私のひとつ上と、ひとつ下で。近所、目と鼻の先に住んでいて、同じような年齢で自分の子どもに重なるものがあったんでしょう、それで可愛がってくれて、結婚と。

父は、飯沼の継父にも会ったことがあるようです。私をよろしくということだったんでしょう。律儀な人でしたので。
別に父は浮気して別れたわけではないので、私は恨んではいません。ですが、父には辛い思いをさせた負い目があったんでしょう、断種をしたようで、実の子どもは私一人です。

飯沼の継父は子どもを取られていますし、再婚して子どもが出来ることもなかったので、子どもは私ひとり、期待の星というプレッシャーはありました。私もまたちゃんとしないと飯沼の継父に申し訳ないという思いがありました。

母方の家がみんな大学出、高学歴で、私も大学に通えました。
父は小学校卒業で、その辺もいろいろ風あたりが強かったらしく、母もなんで、という思いがあったようです。

今は割と簡単に離婚ということが出来ます、私のところにもそういう依頼は多いです。でも、子どもは繊細なもので心に深い傷が付いたり・・・子どものことを考えて、よく考えたうえで結論を出していただきたいです。

おふくろさん騒動、あれはいろいろありました。
問題になったのは、森さんが「おふくろさん」の前に、ヴァース、語りをつけて唄っている。
その内容は、いけないボクチャンでごめんなさい、というような内容で、森さん自分のことを歌っている。
川内本人はそんな、自分が悪い子だったなんて思っていない。

川内の母は昭和19年だったか18年だったかに、随分早く亡くなっている。
まだ僧侶になってなかった祖父が「僧侶になる」と、突然見延だかどこかへ行ってしまって、いろいろ大変な思いを若い頃からされたようです。
父の生家というのが小さなお寺で、当時函館に砂山というところに乞食部落がありまして、そこにお供えものを母親が持っていったようなんです。
父は、何もせずに施しを待っているなんておかしいじゃないかと言ったそうなんです。
そうしたら、母親は「人にはみんなそれぞれ事情があって、身を落とした人もいる。そういう人たちを少しでも助けて差し上げるのが仏の道なんだ」と話したそうで、父にとってそれは随分影響のある言葉だったようです。

まあ、そういうこともあって「どういうことだ」と「話に来い」となったんですけど、森さんは怖かったらしく行かなかったらしい。
それが結局いろいろこじれて、ああいうことになった。

「おふくろさん」という歌は、世間の母の愛を唄った歌で、森さんの母親を歌った歌じゃないんです。川内はそう書いていない。

「おふくろさん」を歌ってくれるなということは法律上はそんなこと出来ません。私も弁護士ですので、その辺のことはよくわかっています。
あれは、師匠格として弟子に言ったものです。
まあ、もともと激情的なところはありましたが、歳を取って、老いも少し出てきていて、正直格好悪いことになってしまって。

あの騒動があったとき、私も知っている人からいろいろ言われました。
何とかしなくていいのか、何とかしなくていいのか、って。
でも、そのうちに父が亡くなって。

あのとき、父の奥さんは入院していて、父はひとりだった。
まあ、そういう理由も重なって、ああいうことになった。

父の葬儀は私は出ていないのですが、カメラや何かいろいろ来て、それで別の棺桶やら何やらを担いで「こっちだ!」と目を向けさせる隙に、反対側から運んだり大変だったそうです。
私の方は、まあ父の偲ぶ会を東京の●●ホテル(注・失念)で行うことにしまして、まあ、そのときに、父が生前親しくしていた亀井静香先生にお会いして、先生があの騒動のあとに父に会って話を聞いたそうです。そうしたら「俺も本当はやめたいんだよ、でも引くに引けない」と話していたそうです。

本当は誰かとりなしてくれる人がいたらよかったんですが、父もそのとき高齢で、86だがそのぐらいの歳になっていて、普通だったら「もういいじゃないか」ととりなしてくれる人がいるんですが、それぐらいになると、もう目上の人がいない。

奥様はずっと入院なさっていて、私も殆ど逢っていませんでした。
でも、父が亡くなって、本当は川内姓を名乗る誰かがいれば、と思うんですが、子どもは私一人ですので。

最初、川内康範の話に苗字が違う飯沼が出てくるのは違うんじゃないかという思いがあって、伏せて、やろうと思っていました。

妻にも実は反対されました。ああいうかたちで知られてしまった人なので、子どもや孫にいろいろあったら困ると。
でも、私は弁護士ですので、何かひとつ決断をすれば敵味方が出てくるのは仕事柄もわかっておりますので、これは。

父は今でも熱心なファンが多いようで、私が行ったことに対して、賛否両論。インターネット、古い人間で私は全然やらないんで関係ないんですが随分怒っている人がいるようで、私は見ないんですが、息子が見ていたようで、普段は口も聞かないのに、そのときばかりは優しくなりまして。
あるとき、「お父さん、おもてに出るときは気をつけた方がいいよ」なんて大真面目に言いました。
まあ、それだけ父には熱いファンがいるということで、ありがたいことだと思っております。

私はあまり父の息子だということを人には話してなくて、あの騒動のときに初めて知ったという人が随分大勢いらっしゃいました。
別に隠していたというわけではないんですが、まあ、あまり口に出して言うことはありませんでしたし、また父も息子がいるということは言わなかったみたいで、お互いにどこか遠慮しあっているようなところはありましたね。

父が亡くなって、さあどうしようとなったときに相談へ行ったのは長良さんという芸能プロダクションの社長さんです。去年だったか、もうお亡くなりになりましたが。えー水森ナントカさん、かおりさんなんかを手がけていらした方で。最初は水原弘さんのマネージャーなんかもされていたようです。

水原さんという人は、豪快で、パーっと飲んだり騒いだりしてお金ばらまくのが好きな方だったようで、そのうち借金で首が回らなくなったりして、父に助けてほしいと。
そのときに書いたのが「君こそ我が命」だったようです。

芸能界には三大プロというのか、何から何までひとつの流れで、全部自前で出来るようなところが三つありまして。長良プロの長良さんと、バーニングの周防さん、ケイダッシュの川村さん。あとはジャニーズ事務所。と、まあ、こういう流れがありまして。

長良さんは父に連れられたことがありまして、前にお会いしたことがあって知っていたんです。
それでご相談しに行ったら、「お前、親子であることをヘタに伏せたら、問い合わせが殺到して、事務所が仕事にならなくなる。それよりも、きちんと親子であることを名乗って出た方がいい」と勧められまして。それで。

森さんとはお会い、勿論しています。
森さんはどうも私が川内の息子だっていうことを知っていたようなんです。銀座に川内の息子の弁護士がいる。まあ話せばわかる普通のやつだから、話せば何とかなるんじゃないか、って。
でも、まあ来にくかったんでしょうね。

饅頭でも羊羹でもそうなんですが、父は下戸で甘党だったんですね。
暇があれば、ムシャムシャ羊羹を一本まるごとよくかじっていたようです。
糖尿…には何とか踏みとどまってなっていなかったようです。

勿論、森さんは歌えるということを大変喜んでおられました。
森さんも何とか取り成して貰えないだろうかと、長良さんにお願いしていたそうなんですが、長良さんは父の弟子のようなものですから、「おまえはすっこんでろ」と言われたら、もうそれ以上どうしようもないわけで。

父は森さんが息子のように可愛かったんだと思います。年齢的に近しいところもありますし。
だから、父にとって絶対である「おふくろさん」の歌を唄わせた。

私が「おふくろさん」の封印を解こうと思ったのは、まあこのままではいけないと思ったのもありますが、年末その人が亡くなったら、歌番組で、いろいろありますでしょう、レコード大賞、あといろいろ紅白だとか。それで唄って欲しいと思った。

紅白って、唄う歌は歌手が決めるんじゃなくてNHKが選ぶんです。で、NHKも選曲するにはギリギリで。私も計算しまして、9月の下旬ぐらいから話を進めて10月のはじめにあの記者会見ということになりました。

あの後、私のところにも二人ほど訪ねて来られた方がありました。
ご本人ではなく、母親が「おふくろさん」のファンで、あの歌が大好きでずっと歌っていたんだ、もう大事な歌なんだ、今回のことで胸を痛めていたけど本当に有難いと。

父にはいろいろ代表作がございますけれども、やはり「月光仮面」、そして歌は「おふくろさん」に尽きるんじゃないかと私は思います。

ああ、丁度時間となりましたので、これで終らせて頂きます。ありがとうございました。
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# by hakodate-no-sito | 2015-06-08 23:58 | つぶやき | Comments(0)

川内康範は函館生まれ

もう何年も前になるが「月光仮面は函館生まれ ~川内康範氏の心を辿る~」というイベントに参加したことがある。

地方の、手弁当的なイベントでしっかりしたものではなかったが、大収穫は川内の長男・飯沼春樹氏の話を聴けたこと。
これは忘れておきたくない、とその日の夜に必死にキーボードに向かい、いろいろ記しておいた。
そのメモ書きが出てきたので、ここに忘備録がわりに載せておきたい。

私が会場入りしたとき、その人はロビーのソファに座っていた。
面長のダンディな風貌は、往年の川内康範を髣髴させた。顔の輪郭もそうだが目元が特に似ている。ロビーに飾られた、昭和20年代の康範の写真と見比べると、うり二つだ。
古武士のような鋭さを持ちながら、どこかスヌーピーにも似た愛嬌もある。

これも、実は父親譲りなのだ。
康範の妻・クリスティーナが、スヌーピーに似ているからと康範を「スヌー」と呼ぶ、というエピソードが著書「生涯助っ人回想録」(集英社)に掲載されている。

ひとつの歴史が、ドラマが目前にそびえている。
感慨深いものがあった。
だが、それは序幕に過ぎなかった。

イベントの中盤に、飯沼氏の特別講演があった。
「父とは2歳のと父に対する思いは複雑な思いがありますので、弁護士口調で淡々とお話するつもりですが、時に詰まったりするかもしれません。×時半までだから45分・・・保つかな。何とか頑張ります」

こんな出だしで、飯沼氏は話し始めた。
当初淡々と関西弁混じりに話していた語り口が、話の中盤以降は質問に答えつづ展開していく形になったこともあり、ジョークも交えた柔らかめの口調になっていった。

函館には祖父(康範の父。僧侶)が居て、逢いたいというので×歳(失念)のときに上野から汽車と連絡船を乗り継いで来たのが初めで、そこから20数回来函したという縁があり、思い入れがある土地。そして「月光仮面」にも思い入れがあり、お話を頂いて、どうしてもお力になりたいと思ったのだそうだ。

飯沼氏は銀座の大きい弁護士事務所の所長である。多忙を極めている人であることは想像に難しくない。そんな人が、地方のそれも予算がまったくかかっていない小さなイベントにわざわざ足を運び、最初から最後まで会場に姿勢ひとつ崩さず居て、心の整理が付いているとは決して言えないなかで長時間父親の話をして、なおかつロビーに飾る写真に康範からの手紙まで提供するなんて、にわかには信じられない。
出来た人であることは間違いない。

「自分は飯沼姓だから」と、おふくろさん騒動の解決に動き出したときも当初親子関係を付せようし、相談を持ちかけた長良じゅんから「そんなことをしたら、かえって事務所に問い合わせが殺到して業務に支障が出る。はっきり親子と明かした方が良い」と諭されたという。
継父に対して、義理堅いものを今でも抱き続けているようで、そのことが康範と距離を置き続けたことに深い影響を与えているように私は感じた。

康範は、飯沼氏の継父とも一度逢っているのだそうだ。
別れた妻が再婚し、息子が養子縁組で引き取られることにあたって、よろしくお願いいたしますと挨拶をしたであろうことは想像に難しくない。

離婚によって息子に可愛そうな思いをさせたことを申し訳なく思い、以後「断種」し、結婚は何度もしているが、子どもは他に作らなかった康範。

生前、息子がいるということを殆ど話さなかった康範。

2歳のときに父と別れ5歳のときに離婚したので父の記憶がないという話のくだりで絶句し、目をうるませていた飯沼氏。

「月光仮面」が父が書いたものと知り、「月光仮面」は父からのメッセージだと思い、今でも思い入れを抱き続ける飯沼氏。

見知らぬ父を見たさに、親に黙って、父が出ている映画をこっそり見に行って先生から大目玉を食らった飯沼氏。

飯沼氏と康範の関係は哀しい。
でも、どこかで同じ思いを抱き続けている。

数年前、飯沼氏の会見をテレビや雑誌・新聞記事で見たとき、冷たい関係だなと私は思った。
だが、今回話を聞いていると、それはまったくの検討違いだったことがわかった。

ハッキリ「父を恨んだことはない」と語り、康範を悪く言う言葉は殆ど出なかった。
森進一に関しても、一瞬言葉を飲み込んだような瞬間があり、本当は森の川内への応対に何か思うことがあったのかもしれない。だが、何も言わず、森を立てていた。

森に限らず、胸に収めるべきことは収め、立てなければいけないものはしっかり立てる人で、そのなかで最も大きい存在が飯沼氏の継父なのだろう。

大人だと思う。
大人とはこれほどまでに哀しい思いをしなければなれないものなのだろうか。
いや、そういう思いをして育っても、こんなに立派な人に育つとは限らない。

そして、普通の人なのだと思う。
家族の話をしているときの飯沼氏の表情や声色は、ちょっぴり頑固で一徹な家族思いな父であり夫なのだろうと思わせるものがあった。

川内康範が成し得なかったことを、ご子息が代わって成し遂げた。
きっと康範は息子の幸福を心から喜んでいたのだろう。いや、そうに違いない。
だからこそ、一線を引き続けた。

冷たいどころか、これほど血の通っている関係はないだろう。
これこそ、「無償の愛」じゃないのか!
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# by hakodate-no-sito | 2015-06-08 23:56 | つぶやき | Comments(0)

徹子の部屋 京塚昌子さんをしのんで(1994年放送) 後編

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(1984年10月1日放送「徹子の部屋」から)

徹子:でも・・・そして、カムバックしてらしたときにね、「京塚さん、お痩せになったんじゃないかしら」ってちょっと皆思ったんだけど、既に、お倒れになるまえに、もう15キロぐらい痩せてらしたんですって。

京塚:そうですね・・・あの、15キロって・・・うーん、まぁ、もうそれだけ減ってたのね。だから、わりかた、細身・・・細身じゃないけど(笑)、それでも、まだ、もう5キロは減らさなきゃいけません。

徹子:一番お太りになってらしたときは一体何キロくらい・・・こんな失礼なこと伺って悪いけど(笑)

京塚:悪いです、フフ(笑)

徹子:ヒヒヒ、悪いかしら(笑)

京塚:だって(笑)
・・・だって大きな声じゃ言えないですけど、大きな声で言っちゃうわね(笑)
だって、一番太ってたのは「肝っ玉かあさん」の頃。一番太ってたときはね・・・(小声で)96キロよ。

徹子:96キロ!

京塚:声が大きい(笑)

徹子:お相撲、お相撲・・・

京塚:声が大きいじゃないの(笑)

徹子:96キロ(笑)

声が大きくちゃ聞けないって(笑)

徹子:そんなに大きかったの!

京塚:そんなに大きかったの。

徹子:じゃあ、やっぱり良くなかったでしょう。

京塚:そうですね。でも・・・

徹子:でもお倒れになる頃には何キロだったんですか。

京塚:その頃はちょうど70キロぐらいですよ。

徹子:そうですか。で、それからさらに減量・・・

京塚:ええ、5キロって。

徹子:5キロって。今は、じゃあ、65(キロ)。

京塚:うん。

徹子:で、それから・・・

京塚:さらに5キロ減らさなきゃダメって。

徹子:あっ、そう。
でも逆に京塚さんが痩せちゃっちゃつまらない、って。つまんないってさ、他の人が勝手なことを・・・

京塚:そうなの、みんな売れない売れないって言うんですよ。いや、でも、そう。これ以上痩せちゃ売れないわよってさ。フッフッフ(笑)
もうね、そう言うんだけどね・・・まぁ、楽なんですね、身体が。

徹子:でも、それにしても、お倒れになったときにね、週刊誌や何かが、もうね・・・ちょっと復帰は無理みたいなこと(書いたり)なんかしちゃったじゃありませんか。何か・・・

京塚:でも、やっぱり皆さんそうお思いになったんじゃないかしら。
もう、本当にね、倒れたときはそう思いましたね。


---------------------


徹子:どうも、本当にね、京塚さん、ありがとうございました。
そしてね、本当に、お元気でね、お出になって頂けて。

山岡:ね~ぇ。

徹子:で、この後新派にお出になったのかな、(新橋)演舞場にお出になって。・・・まぁ、新派じゃないんだけど懐かしい演舞場にお出になって、それでもう一度お倒れになって、それから8年間の、闘病生活に入るってことになったわけなんだけど・・・

山岡:でもねぇ、お話はしっかりしてらっしゃいますよね。

徹子:でもねぇ、御自分ではね・・・

山岡:気に入らないって。

徹子:気に入らないって。呂律がしっかりしてないって。

山岡:うーん、うん・・・

徹子:で、どんな風に、あの京塚さんがね。前に・・・でも、まさか96キロもあると思ってなかって?

山岡:思わない。あたし、80・・・何キロかは越えたかなと思ってたけど。

徹子:ただ、秘密にしてらしたけど、あのときは本当に、本当のことを言っちゃおうとお思いになったんだろうけど。

山岡:ああ・・・。

徹子:で、全部で4回出て頂いたって、さっき申しましたけど、18年前に出て戴いたときの写真をちょっと懐かしいのでね、うん・・・。

山岡:ああ、そう。わぁ・・・。

徹子:そうなの、とっても可愛いわね・・・

山岡:これは「肝っ玉かあさん」ごろかしら。

徹子:そうですね、18年前ですから、そうかと思います。
それから、この時続けてね、出て頂いたんですけど、17年前。

山岡:ああ・・・。

徹子:それから16年前。この16年前っていうのがお正月でね。

山岡:ええ、御一緒したとき?

徹子:うん。池内さん御一緒したときで。
みんなで、ものすごーく・・・

山岡:ワイワイワイワイ言ってね。

徹子:一番右側に池内さんがいらっしゃるんだけど

山岡:うん。

徹子:あ、じゃない、違う。山岡さんがいらっしゃるんだけど。

山岡:あなた、あの時着物着てらしたのよ、確か。

徹子:そう、着物着てたのね。そうなの。

山岡:面白かったですね。

徹子:面白かったわね。

山岡:皆でいろんな話して。

徹子:そして着物着るって話してたら、京塚さん洋服着てね。みんなビックリしてね。

山岡:ねぇ、皆着物だと思ってたら。

徹子:そうなの。でも首飾りでね、素敵にして、あの・・・来て下さったの。
(京塚単独で写ってる写真を見ながら)そう、こんな感じだったのね。
そして、最後の・・・って、さっきのが最後になったんですけど。
でも・・・あの、お菓子を盗み食いするところの現場を。

山岡:ええ。稽古場でね。あの・・・長いテーブルで、みんな本読みするでしょ。そうすると、たいてい、まぁ、席なんて決まっちゃうんですよね。
そうすると、なるべく、ママ(京塚の愛称)が糖尿だから甘いもの持って来ないようにしてるんだけど、まぁ若い子なんか、新人なんか「どうぞ。お菓子です」なんて来るじゃない。すると、なるべくそっちいって、ママの方に持ってこないようにさせるんだけど、でもやっぱり「京塚さんからどうぞ」ってなるでしょう。・・・パッと取って、ここ(テーブルの下)に潜って、口に入れて、パッと上がって来るの。

徹子:机の下、入っちゃうの。

山岡:早いの。だからこっちが止める暇もなく、「ママ」って言ったときには(と口に頬張って横を向く京塚のジェスチャーをして)、一口に入れちゃって・。

徹子:アハハ・・・

山岡:「食べちゃダメでしょ」「大丈夫よぉ、ひとつぐらい」なんて言っちゃってね。

徹子:アハハ・・・

山岡:やっぱり、もう、病気が食べたくなるのね、甘いもんっていうのは・・・

徹子:本当にね・・・でも随分我慢はしてらっしゃいましたけどねぇ。

山岡:でも、お酒なんか呑むと、後で薬飲まなきゃ、なんてね、なんか。注射するほど酷くなかった糖尿病でしたけど、お薬は飲んでましたよ。

徹子:うーん・・・

山岡:糖尿のお薬を。

徹子:・・・でも淋しくなるわぁ・・・ねぇ。

山岡:本当ね。こういう方、もう絶対出ないからね。勿体無くてしようがないの。

徹子:そうねぇ・・・。それから普段の生活のなかでも、サービスの良い方で。

山岡:うん!

徹子:皆さんを盛りたてて楽しくするってことがね、本当にもう、お好きでしたね。

山岡:うん・・・。

徹子:・・・だから、こんな風に・・・

山岡:惜しいですよね。

徹子:本当にね。皆さん、待ってらっしゃる方沢山いらっしゃると思うし、本人が一番ね・・・。
こんなはずじゃなかったってきっと思ってらっしゃるでしょう。

山岡:私が築地に居ますからね、(京塚が)明石町にもとお住まいだったから、よく「どうしてます」って聞かれたんですよ。

徹子:そうですか・・・。
本当に御冥福をお祈りいたします。今までありがとうございました、楽しませて頂いて。


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※番組中、「肝っ玉かあさん」の頃云々というのは両名の記憶違いです。

それにしても、京塚昌子最大のタブーともいえる体重の話をしているのは凄い。「徹子の部屋」ならでは。
山岡久乃も黒柳徹子も、通り一辺倒ではなく、心底故人を惜しんでいるのが伝わってきます。
新派と新劇が同じくくりで、というと一瞬えっと思いますが、杉村春子が花柳章太郎を尊敬して強く影響を受けていましたし、新派の井上正夫が新劇系人脈と組んで第三の新派を模索し、戦時時の新劇人の身元引受に一役買っていたなど、結びつきはあるのです。
山岡、京塚に縁深い石井ふく子は、新派の伊志井寛の継子。石井ふく子が手掛けているホームドラマも、実は新派のジャンルの中に存在していたのです。石井ふく子ドラマは新派の系統といっても過言ではないのです。
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# by hakodate-no-sito | 2015-05-04 00:34 | テレビ | Comments(0)

徹子の部屋 京塚昌子さんをしのんで(1994年放送) 前編

京塚昌子という女優に関心がある。
だいぶ前にブログで京塚昌子について書いたこともあった。
資料も少しづつ集まっているのだが、亡くなって20年以上経ち、表舞台から姿を消して30年。
なかなか思うように京塚昌子に触れることは難しい。
そんな中、有難いことに、京塚昌子の追悼番組を見る機会に恵まれた。「徹子の部屋」である。
「徹子の部屋」では、定期的に行われる追悼特集のほか、故人ゆかりのゲストを呼び過去のVTRを見ながら偲ぶ追悼回、過去のVTRのみで構成された追悼回が不定期に放送される。
京塚昌子の場合は、ゆかりのゲストを招く形式で放送されていた。そのゲストとは山岡久乃だった。
山岡久乃と京塚昌子、テレビドラマや舞台における石井ふく子作品に欠かせない女優である。
ふたりは「肝っ玉かあさん」「ちょっといい姉妹」などで競演している。
山岡久乃も、私にとって欠くことのできない、大好きな女優だ。もう有難く、嬉しく拝見した。
備忘録も兼ねて、番組の様子を紹介しておきたい。


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徹子:皆様、こんにちは。
本当に、大きな、大きな、庶民的なお母さんと言われてらっしゃった京塚昌子さんがお亡くなりになりました。本当に芝居が好きで、新派では名女優と言われた方でいらっしゃいました。それがテレビにいらしゃって、あの笑顔と、そして、あのふくよかな御身体で、どれだけの沢山の方を楽しませて下さったか、わからないと思います。8年間に及ぶ、本当に大変な闘病、リハビリ。それをやってらして、もう一度と、再起するというお気持ちでいらしたんですけども、本当に残念でございました。 私も何回か舞台など御一緒させて頂きましたけども、・・・もういろんな思い出がございます。
 今日は、もう本当に、50年ぐらいのお付き合いだと言ってらっしゃる山岡久乃さんにおいでいただきまして、この・・・あの「肝っ玉かあさん」、64歳で亡くなったけど、あの京塚さんの追悼にさせて頂きたいと思います。
 なお、京塚さんには4回出て頂いているんです。今日のお客様と一緒に、あと池内淳子さんとみんなでお正月にワーワーしたものとか、いろいろございましたけれども、今日は一番最後の、そしてこれが京塚さんの、本当にお美しい、最後の元気なテレビになっただろうと思う、一回お倒れになった後なんですけど、とてもお元気だったんです。その、あの・・・追悼を皆さんにご覧頂きながら、と思っておりますけれど、山岡久乃さんです。

山岡:(溜息をつきながら)ねぇ・・・

徹子:あの・・・。(気を取り直すように)随分お古いお付き合いなんですって。

山岡:ええ。あの、戦後ね、千田是也さんが主宰する舞台芸術アカデミー研究所っていうところが、スポンサーがヤイデンキの社長さんかだったの。その方が新派に御懇意の方だったと思うんですけど、あたしたちのね、その道場っていうか、ところにね、新派の女優さんたちが来てね。まだ京塚さん10代でしょうけどね、一緒にチータカチータカ、ダンスのレッスンしたんですよ。

徹子:あっ、そう・・・!

山岡:その頃京塚さん痩せてて、舞妓さんとか子役とか、細い細い女優さんでしたけどね。
ある日私にはね、「ある日突然、あの・・・何か私太ったの」なんておっしゃってらしたけれど(笑)

あの、手術した後にね、何か・・盲腸か、何かした後に飲まされた薬で、ホルモンが異常になってしまって太ったって言って、お医者さんのせいだって言ってましたよ。

徹子:そう。うん。「たった一本の何かでそうなっちゃったのよ」って言ってました。

山岡:そうなんですって。

徹子:「ただ。私も非常に非科学的な人間だったからいけないのよ」って言ってらしたけど。でもお元気でずっとやってらした・・・。

山岡:ねぇ。

徹子:それから、あの・・・方角に凝ってらして、山岡さん家(チ)の御墓は、あれなの・・・

山岡:そうなの。あのね、私はもう、うーん、とにかくその時すぐ片付け魔でしょ。だから気が付いたらすぐ何かやるって思ってたら、ちょうど番組一緒だったから(話したら)、お墓なんてものはそんな勝手に作ったりするもんじゃないって、誰も・・・私は、誰も亡くなってないから、今がいいと思ったんだけど、いけないって言ってね、自分がお坊さん呼んで来て下すって、それで、いつにしなさいとか全てして下さっすたのよ。
おかげさまで、私がお墓を立てて、戦争中バラバラになってた父や母とかね・・・あ、父や母とかじゃない。お祖母ちゃんとかをね、収めさせて頂いたんです。
 そいでね、京塚さんが明治座・・・今の明治座じゃない、前の明治座はね、ホラ戦災で亡くなった方がいっぱいいるので、オバケが出るとか出ないとかということがあって。私もあるとき、金縛りみたいによくなったの、よくなったの、楽屋でね。それでお塩撒いたり、お線香立てたりしたんですけどね。そのとき、京塚さんがね、あの・・・お塩撒いたりお線香立てたりしたら抹香臭くなるでしょう、楽屋が。だから、そこにお札貼るのも良くないからって、水晶の玉をね、代わりに置きなさいってね。それでね、あたいは身体が大きいから大きいの、あんたは小ちゃいから小ちゃいの。あの人が五万円でね、私が三万円でね、何か差がつけられた水晶の玉を買いなさいって言われて。未だに私、楽屋で、それをお座布団の上に置いて、お水あげてますけどね。

徹子:そうすると、もう金縛りは無かったですか。

山岡:そうですね。何か・・・気のせいかもしれませんけどね。

徹子:でも、そういうこと本当にこまめで。

山岡:そう。

徹子:嫌じゃないのね、そういうこと。

山岡:うん。

徹子:面白い方でしたよね、そういう点・・・。

山岡:ねぇ・・・。
それで、もう、自分が気に入らないと「やっちゃダメ」ってね、本気でね。で、自分は私たちが言うと「あたいはいいの」って。言う事きかないでしょ。

徹子:そうなの。それでね、森光子さんとか越路吹雪さんとかと御一緒の舞台でね、何だかもう・・・みんな色々ゴタゴタ嫌なことがあって、皆で「嫌ァねぇ」って、「どうして、こういう・・・」って、ある女優さんのことで、私なんかいじめられちゃった、皆庇ってくれてどうしたりしてたら。
「皆、女学生みたい。ダメですよ、そんなこと女優で言ってちゃ。もう、これから先どうするの」って、森光子さんや越路吹雪さんまで皆言われちゃって。

山岡:フフフ、アハハ。

徹子:で、結構、本当はお齢はお若かったんですよ。

山岡:そうですよ。

徹子:ええ。亡くなったとき64(歳)ですから、リハビリをお始めになったときからだって、まだ50ちょっとだったわけでしょう。

山岡:ええ、そうですよ。

徹子:だから、うんと若いのに、もう本当にね・・・。あの、申し訳ない。私、親子やったことあるのよ。
そして殆ど歳違わないのに。それでね、「お若くて結構ね」って(笑)
・・・私、何と言ったらいいかってね、思ったんですが(笑)

山岡:はい、うん・・・。

徹子:ただ、このリハビリやってらっしゃる間、会いに行ったりなさらなかったんですって。

山岡:うん。会いに行きたいと言うとね、泣くから・・・来ない下さいって言われて。お電話はしたことあるのよ。だけど、電話口で泣いちゃうの。

徹子:そうなのよねぇ・・・。

山岡:それはね、懐かしいので泣くのと、それから人が元気で働いてるのが悔しいんで泣くのと・・・。やっぱり女優さんって、いろいろあると思ってね。それでご遠慮して、で、ハガキをね、誰が読んでもいいようなハガキを何回か出したことはありますけどね。

徹子:でも、あれだけ活躍してらした方が、とにかく8年間・・・その前にもさらにあるんですけど、まぁ今度、最後は8年間、やるぞやるぞとおっしゃりながら結局出来なかった。その間、1回かな、ここのテレビ朝日の「こんにちは2時」で取材したときにね、「リハビリはやってるのよ、だけどちっとも良くならないの」って泣いてらっしゃるのを見たとき、たまらなかったものね。どうしてあげようもないって思ってね。
もう随分・・・あの、糖尿病とか、いろんなとこ悪くて、随分痩せさせていらっしゃったんだけれども・・・。
でも、本当に明るくて、あの方がいらっしゃると、本当にこうね。

山岡:そうなんですよね。で、あの方はね、いつも「アタシはそんな良い人じゃないのよ」

徹子:そうそう、いっつも。

山岡:「腹黒お昌よ」って、いっつも。

徹子:そうそう、腹黒お昌っていっつも言ってらしたわね。

山岡:そう、だから私ね、腹黒お昌の役、やらしてあげたかった。
たとえばね、春日局みたいなのがね。しっかりもので、御薬湯も飲まないで・・・ね、というのがさ、もしあの人がやって、その御薬湯が不味いから飲まなかったって人物像も、京塚さんなら成り立っちゃうような気がするの。ねぇ。

徹子:本当そうです。

山岡:あの不思議な愛嬌っていうのは、役者にとって欠くべからずものなんです。

徹子:そうですね。

山岡:あの愛嬌は、あの方が神様から戴いたものねぇ。

徹子:あれだけお太りになってらっしゃるのに、着物の着付けがお上手で。新派にもいらしたから・・・

山岡:それとね、柔らかいのよ、身体が。

徹子:そう・・・!

山岡:真っ向棒みたいにペタっと(地面に足が)着くの。

徹子:あら、そうなの・・・。

山岡:身軽なんですよ。

徹子:うーん、身軽だったのね。
とにかく、最初にお倒れになったのは今から11年前。そして、あのときは脳血栓だったんですが、それからリハビリなさって7か月で、ドラマにカムバックなさって。その後に私のところ(「徹子の部屋」)に来て下さったんです。そのとき、マネージャーの方がこう仰ったんです。
「ここんとこ、ちょっとまたテレビに出て泣いちゃうので。それは病気のせいで。もし、黒柳さん、泣くようなことがあってもそれは病気がさせているんで、本人が泣いてるんじゃないってフォローして下さい」って仰ったの。
そうしたら、この日は、笑っちゃう日で、楽しい日で。
もうずっとずっと笑ってらしたのね。

山岡:よかったねぇ。

徹子:うん。だから、これを皆さまにね、ぜひ見て頂きたいんですけど、これがおそらく最後の、京塚さんの、お美しい、お母さん役者じゃなくて、本当にね、女の人としてね、出て頂いて。

山岡:今も何か、いい男の何とか・・・。

徹子:そうなの。何かおかしいの。私に会うと、男の人の話ばっかりしてたから。その話してたんですけれども。これは84年10月1日、ちょうど10年前の京塚昌子さんです。
では、追悼でございますので、御一緒に・・・。

山岡:拝見します。
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# by hakodate-no-sito | 2015-05-03 23:32 | テレビ | Comments(0)