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年齢不詳な若人が唄の話を中心にアレコレと・・・


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芦野宏と、石井好子と、永六輔と

久しぶりに石井好子に会えた。
たまたま読んだ本、テレビ番組に、立て続けで石井が居た。
本は、親交のあった永六輔の著書「永六輔のお話し供養」(小学館)
テレビ番組は、「あの人に会いたい」(NHK)だ。

「あの人に会いたい」は、10分のミニ番組。
既に石井好子は取り上げられているし、勿論拝見している。
今回私が見た回は芦野宏。
番組ラストで流れた映像が、かつてのパリ祭。
芦野宏と共にシャンソン「パリ祭」を歌う石井先生の姿が映った。
大木康子らの姿も画面にあった。

芦野宏と石井好子の関係は深い。
ともに戦後のシャンソンブームの立役者であり、日本シャンソン界を生涯に渡って牽引し続けた巨星。芦野は、石井音楽事務所の所属歌手でもあり、自叙伝でも石井への敬意を表している。
最晩年、体調を崩した石井が身辺整理を進めていた際、自ら手紙を認め、日本シャンソン協会の引き継ぎを頼んだ相手が芦野宏だった。「あなたの友情を信じます」と手紙に記されていたことを、石井没後の談話で芦野は明かしている。
石井からのバトンを受け取って約2年後、芦野も鬼籍に入ったが、協会は芦野の次男が代わって支えている。

健在だった頃は当たり前の光景としか思わなかったが、今このツーショットを見ると胸にこみ上げるものが隠せない。
加えて、早世した大木康子(この人も芦野と同じく石井音楽事務所所属だった)も傍にいる。
テレビの前で「ああッ」と思い切り声を上げてしまった。
喪ってわかる、その人の大きさ・・・。

「永六輔のお話し供養」は、本当の意味での人の死はその人を知るものがいなくなったとき。
それまでは知る人の心に記憶として宿っている。歳月の中で忘れがちになっている故人の話を時々しよう。それもまた供養のひとつだ。というコンセプトで編まれた1冊。
8項目のなかのひとつに石井好子の項があった。

項の題名は「お嬢様の底力」。
以下、内容を要約。
----------------------------------
石井は怖かった、よく怒られたがその理由がわからないことが大半。
石井の前で民謡を口ずさんでいたからだ、と言われたこともある。
良くも悪くも自分中心のお嬢様だった。
石井とは学生時代の頃からの付き合い。石井の父・光次郎(外相, 衆院議長)が地元出身の学生の面倒をよくみていて、家に行けば腹いっぱい旨いものが食べられるという話から、中村八大に誘われ、モグリの久留米人として、石井邸に通った。
後に、嘘が石井にバレ、以来頭が上がらなくなった。
石井が渡米し、そこからパリへ行き、名を上げて、帰国した際には迎えに行った。帰朝公演の演出もした。
石井からパリ祭の司会を依頼され、最初断ったら「私の家で何度ご飯食べたのよ」と凄まれ、引き受けざるを得なかった。作務衣姿での司会にNGを出され、ピーコを呼び、タキシードを作らせた。
高額の請求書がピーコから来た。作れと言ってピーコを差し向けたのは石井だ、彼女に払って貰おうと請求書を回したら、「自分で払わないと着こなせません」と一筆つきで戻って来た。
後年、難民問題に関心を持ち、難民救済のチャリティーコンサート開催のかたわら、デモに参加し座り込みも行っていたが、デモ参加については生前自分の前では一切口にしなかった。
一部の悪口など歯牙にもかけず、己の心に忠実に「私は私」を貫いた力強い女性だった。
----------------------------------
永六輔の話には、良く思う関係ゆえの軽口や読み手へのリップサービスがあるので、そのあたりの行間を読む必要が求められる。これは放言じゃないのかと思う箇所もあったが、六輔講談・石井好子として興味深かった。

石井晩年のライフワークのひとつが有楽町朝日ホールで開催していたチャリティコンサート。亡くなる2年前に体調を崩すまで10数年続けていた。バラエティに富んだ人選はパリ祭とはひと色もふた色も違い、本業の歌い手は勿論、普段シャンソンを歌わないような人、歌とは無縁の人たちをも、石井自ら誘い出し、ステージに上げていた。

石井の難民問題への関心は、親ぐるみの幼なじみ・緒方四十郎(緒方竹虎の三男)の妻・緒方貞子の存在がきっかけとされている。
周囲の環境に加え、長いフランス生活から国際情勢への関心は人一倍あったはずであり、デモ参加も左翼的な捉え方ではなく(石井はむしろ保守派である)、当然の流れとして行っていただろう。

石井好子は線引きのしっかりした人で、これは自分の口から話していいこと悪いことをしっかり決めて、その線を越えることは無かった。
だから知る人ぞ知る、石井の逸話は、まだまだ沢山眠っているように思う。

そのあたりの話を採録整理した上での石井好子の評伝の発表を、没後以来ずっと願っている。
by hakodate-no-sito | 2014-01-27 13:03 | つぶやき