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年齢不詳な若人が唄の話を中心にアレコレと・・・


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菊池章子のはなし(その5)

戦争中、すべての歌手が経験したのが慰問。
章子も御多分に漏れず経験しています。

歌い手によっては慰問は内地だけ、という人もいましたが、名の知られた歌手はほぼ全員外地へも慰問に赴きました。

章子はインドシナ半島。
広東を経由してのインドシナまでの船旅。

行きの船では、ある軍部隊も一緒。
そこで章子は、所謂軍隊の"しごき"を目撃した。
それは尋常なものでは無く、当時17歳の章子は恐怖のあまりに思わず涙がこぼれ、船長に
「お願いだから止めるように言って下さい」と懇願しました。
しかし、船長は「軍部のことは我々にはどうにも出来ない」と。

「それでは…」と章子は船長から船内にいる軍人で一番偉い人を聞き出し、その人の許に行き、直談判し、その"しごき"を止めることに成功しました。

その一番偉い人は、加藤隼戦闘隊の新美中隊長。
このことがきっかけで章子と加藤隼戦闘隊は親しくなり、本来慰問予定に無かったこの部隊へも慰問に行くことになります。

章子はこの時、部隊員から直接、いくつか隊員内で歌われている歌を教わります。
その中には「飛行第六十四戦隊歌」もありました。
この曲こそ、後に軍歌の代名詞と呼ばれる「加藤隼戦闘隊」なのです。

この唄は昭和16年元旦ニュース映画で放映されたことで徐々に知られるようになり、昭和18年灰田勝彦の唄で吹き込まれ、大ヒットとなります。

この灰田勝彦。吹き込みして、まもなく章子と仕事で一緒になります。
その際、この歌のことを話したところ、章子は知っているので歌ってみせました。
灰田は「何で章子ちゃん、この歌知ってるの!?」とえらく驚いたそうです。

章子と戦闘隊との交流は戦後も途切れることなく続き、平成14年に章子が亡くなった際も多数の戦闘隊員が葬式へ駆けつけ、その死を惜しんだそうです。

横道にそれたので、元に戻しますが
章子たち慰問団の待遇は非常に良かったそうです。
当時インドシナはフランス領だったこともあり、章子たちの宿泊所はホテル。
なんと朝食はコーヒーとフランスパンだったそうです。
一緒に行った漫才師はこのフランスパンのお陰で歯が折れるというアクシデントがあったとか。

慰問に行った先々では、当時手に入り難くなっていた高級酒が呑めるということで、慰問団の男性は喜んでいたそうですが、章子はまだ未成年のうえ、下戸(これは生涯変わりませんでした)なのでそういう楽しみは無かったようです。

章子はなるべく慰問団が来ていない部隊を中心に慰問して回りました。
移動は軍用トラックで行いましたが、決して乗り心地は良いものではなかったそうです。
しかし、部隊の章子への気遣いは大変なものであり、章子付きの兵隊が必ず一人はいて、世話を焼いてくれ、その姿・気遣いをみると、さすがの章子も何も言えなかったとか…。

章子は慰問は振袖で臨みました。
その振袖姿に懐かしい故国を思い出した兵隊が「(振袖に)触らせて欲しい」と懇願することも多かったそうです。
当時章子の人気は凄まじく、どこの部隊からも慰問願が次々に舞い込みました。
その結果、インドシナ半島にいた部隊をほぼ回りつくし、サイゴン、ハノイ、ホーチミンのあたりまで赴きました。その結果本来の帰国予定がドンドン遅れて行きました。

大の大人でも日本が恋しいと訴えるのに、章子は十代の乙女です。
お国のため…と頑張ってきましたが、さすがに耐えられなくなり、「日本に帰らせて下さい」と懇願して、やっと帰国することが叶います。

「もう少し待てば一万トンクラスのチャンとしたイイ船が来ますよ」
という言葉を押し切り、「タコ部屋のようなところで全員が雑魚寝という状態の船でも何でもいい、早く日本に帰りたい」と昭和16年11月30日、帰国の船に乗り込みました。

ところが帰国途中の12月8日、太平洋戦争に突入したことで帰国が大幅に遅れてしまいます。
燃料補給のために、港に寄っても軍艦優先で、燃料が少ししか分けて貰えないのです。

そして、夜は甲板に出るのを禁止され、もしそこで煙草なぞ吸おうものなら銃殺するとのこと。
さらに、トイレの近くにはスパイ監禁室もあり、そこを避けてトイレに行く事は出来ません。

章子はそれがとても恐ろしく、トイレに行く際には慰問団の男性2名がガードすることに。
ところが、「銃後を預かる日本女性がこんなものが怖くてどうする」と憲兵の厭味が飛んできます。時には「こんなやつら、殴ってみせろ」と強要することもあったそうです。

扱いが比較的良かった章子でもこの待遇です。他の乗客はなおのこと気の休まるヒマはありません。

同乗していた新聞記者のひとりはやがてノイローゼに罹り、船から飛び降りて自殺しまう事件もありました。章子も、甲板の片隅に遺された片方の靴を見ています。

このように乗員は苦労に苦労を重ね、昭和17年2月に船はやっと日本に着くことが出来ました。インドシナを出発して、2ヶ月以上の月日が経っていました。

「只今帰って参りました」
章子は世田谷大原町の自宅へ帰ると、家族は驚くやら泣き始めるやら。
仏壇を見ると何着もの新しい振袖がお供えされています。
章子は既に亡くなった…と思われていたのでした。

そして、帰国した章子はもう一つ驚かせることがありました。
家族が一人増えているのです。

その子の名は、幸子。
章子と共に慰問に行き、章子とも親しかった歌手の菅沼幸子から名を貰ったとのこと。
「自分と同じ名前じゃなくて良かった・・・」
章子は安堵しました。

その幸子こそ、「北上夜曲(和田弘とマヒナスターズとのデュエット)」などで知られる歌手の多摩幸子(たま・ゆきこ)、その人です。

幸子のデビュー当時、親子ほどの年齢差に「この姉妹は本当は親子だ」という噂が立ったりもして、その都度章子は否定して回ったそうですが、晩年はもうどうでも良くなったらしく聞かれた際に「そうよ、私の娘」と冗談めかして答えることもあったそうです。
by hakodate-no-sito | 2008-03-06 13:24 | 菊池章子